皆様、お久しぶりです。白寿生科学研究所の岸川でございます。

 

 コロナウイルスの感染拡大の影響によりこの2カ月は緊急事態宣言が出されるなど、国をあげて感染拡大防止に尽力していました。毎日の感染者数が減少したのはひとりひとりの行動自粛の成果もありますが、最前線で働いている医療従事者、スーパーや食料品店、宅配便やゴミの収集など、感染のリスクを負いながらライフライン維持のために働いていただいた全ての皆様のおかげだと思っております。この場を借りて感謝申し上げます。

 

 まだ完全終息ではない状況なので、第二波を起こさないためにも、これからも気を引き締めていかなければなりません。

 

 さて、前回のコラムで打撃投手という職業の難しさなどを書かせていただきました。今回は自分自身の経験や選手達との関係など、打撃投手時代のエピソードを書いていきたいと思っております。

 

 私は2002年からジャイアンツで裏方として16年間勤め、02年から03年は2軍に在籍していました。前回のコラムで触れましたが2軍には裏方さんが少ないので、私も試合前の練習で使う用具を出し、ゲージセットを数名で行い、そして打撃投手を務め、試合になればビデオ撮影と配球表の書き込みなどの作業をこなし、さらに試合終了後は選手たちの個別練習と慌ただしい毎日を送っていました。

 

 そしてこの2年間でのスキルアップが認められたのか、04年からは1軍の打撃投手に昇格しました。この年から1軍は原辰徳監督から堀内恒夫監督に変わりました。

 

 04年のキャンプはグアムキャンプが復活、私も1軍の打撃投手として張り切って身体をつくっていました。だが、キャンプ2週間前にギックリ腰を発症してしまい、長時間移動が困難となったため、1軍が帰国する2月10日まで2軍の宮崎キャンプに合流することになりました。

 

 しかし、その2軍のキャンプメンバーがすごかった。清原和博選手を筆頭に、元木大介選手(現ヘッドコーチ)など当時のベテラン選手が2軍スタートだったのです。

 

 キャンプインから約10日間、このベテラン選手たちを相手に投げることになり緊張感が高まりました。ベテランと言っても清原選手以外は私と同い年か年下なのでまだ良かったのですが、やはり清原選手に投げるときの緊張と言ったら、今、思い出しただけでも汗が出てきます。

 

 とにかく集中し、自分のフォームでしっかり腕を振りストライクを投げる。たったそれだけのことなのですが、相手が大物となれば緊張感がハンパではなく、2月だというのに大量の汗が落ちました。

 

 実際に清原選手を相手にすると、私が投げた球をあの清原選手が打ってくれる。ましてやホームランなんかを打ってくれたときはホントに嬉しかったものです。

 

 第2クール終盤では清原選手から「お前、なかなかいい球投げるな!」という言葉をいただき、自信が付いたと同時に、これで解放されると安堵しました。なぜなら清原選手が1軍に合流すれば清原選手の担当の打撃投手の方がいたからです。

 

 そして迎えた2月10日。ベテラン選手と私は1軍2次キャンプに合流しました。私は高橋由伸選手や後輩である阿部慎之助選手など、20代の選手を相手に投げていました。そんなある日の夜のことです。翌日の練習メニューを確認したところ、私の名前が見つかりません。「あれ、おかしいな」と何度も見直すと、名前がありました。なんと「ランチ特打」の担当でした。

 

 当時、ジャイアンツは午前と午後の練習の間にランチ特打として、他の選手が食事をしている時間に主力選手2名が40分ほど打撃練習を行う、言うなればお客様を飽きさせないファンサービスも兼ねた時間がありました。そこに私の名前があり、しかも相手は清原選手とタフィ・ローズ選手でした。

 

 私は「またあの緊張を味わうのか! 1人ならまだしも2人も……」と考えるとその日の夜は全然眠れませんでした。その後1クールに1回、このメンバーでランチ特打が行われ、私はそのたびに緊張と戦いながら、腕を振りそして自信を深めていったのです。

 

 あとになってコーチから聞いたのですが、この特打はバッターが打撃投手を指名して行われていたそうです。ということは、あの清原選手が私を指名したということ。それには驚きを隠せませんでした。

 

 こうして無事に打撃投手の責任を果たし、キャンプも終了し、私はローズ選手の打込みのパートナーとして一足先に帰京しました。オープン戦期間に入ると私は元の若手レギュラー選手相手に投げるようになり、シーズンに向かっていくのでした。そして、ここからまた試練が待っていたのです……。この続きは、また次回のコラムにて書きたいと思います。お楽しみに。

 

<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。


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