物事には順序がある、という言い回しを思い出した。もしこの試合が終盤に入って一方的に押しまくられたこの試合がザッケローニ監督の初陣であれば、未来への期待は相当に損なわれていたことだろう。選手に疲れがあったのはわかる。モチベーションを保つのが難しい試合でもあっただろう。だが、少なくない同情点を差し引いたとしても、ザッケローニ体制となってから最低の試合だった。
 だが、これほど最低の試合をやっても、ファンやメディア、選手の監督に対する信頼は揺らぐまい。わたしにしてもそうだ。たとえ次のチェコ戦が再び冴えない試合だったとしても、ゆえに注文をつけようとは思わない。それぐらい、アジア杯で獲得した自信と信頼は大きかったということだ。
 そもそも、アジア杯での成功がなければ、ザッケローニ監督はこんなにもフォーメーションをいじらなかったのではないか。成功例は研究される。ならば、研究されていない新たなパターンを模索しておいた方がオプションは増える。つまり、アジア杯での成功と、来るべきW杯予選を見据えたがゆえの大幅変更だったのだろう。結果、前半のサッカーはサッパリだった。それでいい。あのメンバーであのやり方ではうまくいかないということが確認できた。十分な収穫だ。

 ただ、いわゆる国内組から下剋上の気配というか、海外組からポジションを奪い取るのでは、といった予感がいま一つ感じられなかったのは残念だった。おそらくは新しいフォーメーションに適応するのが精いっぱいで、徹底して減点を避ける方向で試合に入ってしまったのだろうが、さしてリスクのないキリン杯で挑戦できないようでは、重圧のかかるW杯予選でのアピールはもっと難しい。続くチェコ戦でもチャンスをもらえた選手は、「自分にはこんなことができる」ということを披露してもらいたいと思う。

 それにしても、日本をクギ付けにしたペルーの猛攻には複雑な気持ちにさせられた。敵地・日本でこれだけの試合をやるのであれば、南米で戦えばどれほどの強敵だったか。そして、そんな経験が、どんなに日本にとって大きな財産となったことか。
 終盤になって足をつらせていた長谷部をみると、南米選手権への不参加はやむをえないことだったと痛感する。重度の疲労から、深刻なトラブルに襲われる選手がでていた可能性もある。ただ、日本が貴重な経験の場に背を向けたのも事実である以上、普段世界と対峙することのない選手たちは、その分、このキリン杯をむさぼってほしいと思う。いや、むさぼらなければならない。

<この原稿は11年6月2日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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