贈る者と贈られる者。両者の間に存在する意識のギャップが何とも面白い。贈る側は、贈られる側が達成者でありゴールにたどりついた者だと考えている。言ってみれば、締めくくりのセレモニー。美しい物語の盛大なエピローグ。
 贈られる側はまるで違うことを考えている。大変なものが与えられようとしていることは十分に理解しているものの、彼女たちにとって、受賞は単なる途中経過、いや、スタートでしかない。この受賞をきっかけに、これまでの女子サッカーに象徴されるスポーツ環境の貧しさをなんとかしようと考えていることは、ほぼすべての関係者のコメントからうかがえる。彼女たちにとって、受賞はこれから始まる壮大な物語のプロローグでしかない。
 
 なでしこたちに贈られた国民栄誉賞は、無論彼女たちの奮闘を讃えたものであると同時に、サッカーにとどまらない、スポーツの力が評価されたものだとわたしは思っている。すっかり手垢のついた表現であるが、スポーツが勇気や希望を与えてくれることを、あらためて示したがための受賞であろう、と。
 ならば、スポーツに携わる者は、いままで以上に自覚する必要があるのではないか。驕るのではなく、ただ、常に自分たちには何かできることがあるのではと考えるべきではないか。

 7月下旬、ミュンヘンでアウディ・カップという大会が行われた。バルセロナ、バイエルン、ACミラン、インテルナシオナルによる親善試合である。
 いずれも世界一を経験した名門揃いではあるものの、しょせんは親善試合である。大会のムードはいたって和やかなもので、観客席にもリラックスムードが漂っていた。ただ、そんな中で、一瞬だけ場内の空気が張りつめた瞬間があった。準決勝を前に、場内アナウンスが流れた瞬間である。

 「先日、ノルウェーで起きたテロ事件の犠牲者を悼み、黙祷を捧げます――」

 ミュンヘンは、言うまでもなくノルウェーではない。犠牲者の中にドイツ人、イタリア人、ブラジル人がいたという話も聞いてはいない。だが、それでも彼らは黙祷を捧げた。日本が未曾有の大災害に襲われた時と同じように、黙祷を捧げた。スポーツの力を信じる者、自分たちには何かができるはずだと考える者ならではの黙祷だった。

 日本のスポーツは、ノルウェーのために祈っただろうか。同時期に起きた、中国での列車事故のためには? 震災直後、世界中が日本のために祈ってくれたのを、もう日本人は忘れたのだろうか。それとも、祈りなんて意味がない、スポーツに力なんかないというのが、日本人のホンネなのだろうか。

<この原稿は11年8月4日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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