トライアスロンはスイム、バイク、ランの3種目をこなす競技と思われがちだが、実はもうひとつ隠れた“種目”がある。それがトランジッションだ。スイムからバイク、バイクからランへの移行をいかに素早くスムーズに行うか。1秒を争うレースにおいてトランジッションの巧拙は順位を左右する。バイクシューズをあらかじめペダルにくっつけておくのはもちろん、シューズの紐をゴム製にして着脱しやすくするなどトップ選手はさまざなま工夫を重ねている。
 人生をトライアスロンに例えてみても、トランジッションは重要だ。転機をうまくつかみ、新たなステージに到達するか、はたまたタイムロスをしてしまうか……。一生のうち何度かやってくるトランジッションにどう対応するかで、その後の運命は大きく変わっていく。

 細田が21歳で迎えたトライアスリートとしてのトランジッション。それが日本に帰国後、指導を受けた山根コーチの下を離れ、拠点を大阪に移す決断だった。しかし、それは結果的にはうまくいかなかった。2006年、新体制でスタートして間もなく細田はヒザの痛みに襲われる。これまで大きなケガもなく競技を楽しんできた若者に、故障の予防やケアに関する知識は皆無だった。

 オーストラリアで磨いた実力もフィジカルが万全でなければ光らない。故障で思うように練習ができなければモチベーションも上がらず、レースの成績が出ないのは当然だった。前年は3位だった日本選手権では33位と低迷。結果を残せない人間に世間は冷たい。調子が良い時には応援や支援を惜しまなかった人たちは潮が引くように離れていった。

「このままではマズイ……」
 翌07年、尻に火がついた細田は次から次へと大会に出場する。しかし、いくら気持ちを奮い立たせてもヒザが癒えたわけではない。充分なトレーニングを積めず、レース直前に慌てて間に合わせたところで満足な成績にはならなかった。

 代表落ち、そして事故

 そして08年の北京五輪イヤー。日本代表の最終選考レースに向けても細田の練習スタイルは変わらなかった。大会が近づき、追い込まれてから練習を本格化させる。その姿はまるで8月31日に夏休みの宿題を仕上げる小学生のようだった。だが、そんな付け焼き刃で通用するほど世界は甘くない。最後はヒザが悲鳴を上げ、選考レースは本人曰く「ボロボロ」。細田は代表から漏れ、補欠に回ることが決まった。

 だが、人生は不思議なものだ。ダメだと思ったことが良くなったり、良かったと感じたことがダメになる。代表落選以降、細田のヒザの痛みは軽減され、トレーニングが充実してきた。
「補欠とはいえ、いつでも出られるように準備をして最高の状態で五輪の開幕を迎えよう」
 優等生的な考えで練習を継続しているうちは良かった。ただ、状態が上がるにつれて、つい心の中に潜む悪魔が顔を出す。
「こんなに頑張っているんだから、誰かケガでもしてくれないかな……」

 そんな心境に至るのは人間の偽らざる部分とはいえ、他人の失敗を願うようでは幸運は巡ってこない。五輪が近づいたある日、細田はバイクの練習中に自動車との衝突事故を起こす。下り道で対向車を避けきれず、正面からぶつかった。
「自転車は真っ二つで、車もかなりへこんでいました。不幸中の幸いだったのは、当たった車がプリウスで車体が丸みを帯びていたこと。もし他の車だったら、どうなっていたか……」
 トライアスロンの神様は試練は与えても、若き才能の寿命までは奪わなかった。このアクシデントを契機に再び細田は山根コーチの元へ戻ることを決心する。それはトライアスリートとして生まれ変わることを意味していた。

(第4回へつづく)
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細田雄一(ほそだ・ゆういち)プロフィール>
1984年12月6日、徳島県生まれ。小学校5年時に姉の影響で大洲ジュニアトライアスロンで初めて大会に参加。池田中学2年時からオーストラリアに留学し、地元のトライアスロンクラブの練習に参加する。03年の帰国後、稲毛インターに入り、日本選手権で5位入賞。05年にはジャパンカップランキング1位に輝く。その後、所属先の変更やケガなどもあって伸び悩むが、10年にITUワールドカップ石垣島大会で国際レース初の表彰台(2位)を経験。アジア大会では金メダルを獲得する。11年は9月のITU世界選手権シリーズ横浜大会で日本人過去最高の10位。10月の日本選手権では初優勝を収め、ジャパンカップランキングでも1位を獲得した。ITU世界選手権シリーズの最新ランキングは37位。ロンドン五輪日本代表の最有力候補。身長175センチ、体重63キロ。
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(石田洋之) 
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