場所は、サンパウロからクルマで3時間ほど走ったところにある小洒落たワインバーだった。最初の質問に対する答えを聞いて、「このインタビューはダメだ」と思った。
 子供のころのアイドルは誰だったのか、という挨拶代わりの質問に対して、彼は侮蔑の念を隠そうともせずにこう言ったのだ。
「その質問が憧れのサッカー選手を聞いているのであれば、答えることはできない。サッカー選手をアイドル視するほどわたしは愚かじゃなかったからな」
 こちらが言葉を失っていると、彼はニヤリと笑って続けた。
「人間としての憧れ、という意味であれば、チェ・ゲバラだったがね」
 それが、“ドトール”ソクラテスだった。

 最初の答えがあまりにも素っ気なかった分、笑顔とのギャップはとてつもなく大きかった。一気に緊張から解き放たれたわたしは、美しかった82年のブラジル代表について、82年ほどには美しくなかった86年のセレソンについて、それこそ止めどなく質問を浴びせ続けた。彼は、水のようにワインをがぶ飲みしながら、そのことごとくに刺激的な答えを返してくれた。互いに半ば酩酊状態になりながら続けた6時間あまりのインタビューは、わたしにとって生涯忘れえぬ思い出のひとつである。

 たとえば、82年のイタリア戦について。
「守備を固めるべきだったとオスカールが言っていただと? 馬鹿馬鹿しい。攻めなくて何がブラジルだというんだ。そんなことを言うから、あいつはチームの中で嫌われてたんだ」
 たとえば、82年と86年の違いについて。
「82年は予選からメンバーを固定して戦った。86年は最後まで固定できないまま大会を迎えてしまった。そこが大きな違いだった」

 たとえば、宿敵アルゼンチンについて。
「世界広しといえども、ペレとマラドーナを同列に論じるような世間知らずはあいつらだけだろうな。82年、確かに我々はイタリアに負けたが、アルゼンチンは木っ端みじんにしてやった。それだけでわたしはあの大会に満足できる」
 ちなみに、彼が「アルゼンチン」という単語を口にする際には、ほぼ例外なくちょっとした“装飾”がなされていた。橋下大阪市長が「教育委員会」という言葉を口にするときにしたような“装飾”である。

 セレソンを愛し、アルゼンチンに敵意をむき出しにした男は、いま、ゲバラとの邂逅を果たせているだろうか。その場にいて、彼の表情と“装飾”を確認できないのが、なんとも残念である。

<この原稿は11年12月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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