リッチモンド・キッカーズのテストには、前年度のチームに所属していた選手たちも参加していた。中には、ブラジル人、カメルーン人、ドイツ人もいた。育ってきた文化、背景の違った選手たちの中でサッカーをすることに広山は懐かしく、愉しみを感じた。
 もちろん、日本のクラブでもブラジル人選手とプレーした経験はあった。しかし、自分が外国人選手としてプレーをするのは、また異なった感覚である。これまでの経歴、プレースタイルを知らない外国人選手たちに、自分のプレーを認めさせなければならない。そうした、緊張感を味わったのは久し振りのことだった。
(写真:リッチモンド・キッカーズとの契約を勝ち取った広山)
 かつて、広山はジェフユナイテッド市原(現千葉)からパラグアイのセロ・ポルテーニョに期限付き移籍した後、こんな風に語ったことがある。
「日本にいると、周りの目もあって、自然とプレーを限定してしまうことがあるんです」
 ジェフ時代の広山は、サイドプレーヤーとして縦への突破を期待されていた。状況判断に優れているので、簡単にボールを失うことはないという信頼もあった。そのため、自分が行けると思った時だけ、前を向いた。ところが、パラグアイでは違った。サイドプレーヤーでさえ、大切なのは得点だった。広山は時に強引にミドルシュートを打ち、得点を決めた。ジェフでは自分でプレーの幅を狭めていたことが分かった。

 リッチモンドのテストでも、前線に上がり次々と得点を決めた。自分を縛っていた軛から逃れたようだった。それまで所属していたザスパ草津では、得点よりも中盤での試合コントロールを期待されていた。
――経験ある選手として、周りを活かすプレーをしてくれ。
 という監督の考えを理解したつもりだった。しかし、期待に添うようにプレーしているうちに、選手として?角?がとれていた。テストを受けながら、広山はそのことに改めて気が付いた。

 テスト前に抱いていたアメリカサッカーのイメージと実際の感覚のギャップも、彼の関心を引いた。大柄な選手が多いアメリカでは、簡単にボールを前線に放り込むのかなと広山は想像していた。ところが、監督は「きちんとボールを繋げ」と指示を飛ばした。「アメリカでプレーしてみたい」。その思いが強くなっていった。

 南米や欧州では、現場を仕切る監督の他、経営側として現場を管理するゼネラル・マネージャー(GM)的な人間がいる。2人の意志疎通がうまくいかない場合、GMが選手を獲得しても、監督が気に入らず、試合に使わないという事態も起こる。逆にGMが強大な権力を持っている場合(時に会長が、GM的な動きをする。この場合が最も厄介であることが多い)、彼が勧める選手はチーム戦術を無視しても使わなくてはならない。しかし、リッチモンドの監督と話していると、選手起用は現場に一任されており、そうした悪習はないようだった。

 クラブの人間から聞かされた、アメリカの独立リーグの経営も興味深かった。広山は招待選手としてテストを受けることが出来たが、もし招待されなければ、一般のトライアウトに参加しなければならなかった。トライアウトには200人を超える人間が集まるのだという。
「中には、サッカーをしたことがないような人間もいるし、スニーカーで来る選手もいるんだ」
 クラブの男は苦笑した。こうしたトライアウトで参加費を徴収し、クラブは運営資金に充てていた。
(写真:リッチモンド・キッカーズは練習場の他、専用のスタジアムがある。世界的に見ても、かなり恵まれた環境といえる)

 ザスパは規模が小さく、スタッフ全員が何の仕事をやっているのか、選手も知っていた。スタッフは複数の役割を掛け持ちするのが当然となっていた。ジェフ市原、セレッソ大阪という、実業団からの歴史あるクラブとはずいぶん様子が違っていた。今度は、サッカー大国になりつつある、アメリカのクラブがどのように動いているのか、広山は肌で感じたいと思っていた。

 リッチモンドのテストを受けて、広山が日本に戻ったのは、2011年2月末のことだった。その後はニューヨーク在住の中村武彦(「LeadOff Sports Marketing」GM)の力を借りて、契約を詰めた。
 USL(ユナイテッド・サッカーリーグ)のシーズンは4月からの半年間である。契約は2シーズンとした。住居は、練習所から歩いて5分程度のところにあるマンションをクラブが賃貸し、家具も揃えてくれることになった。
 希望の背番号も尋ねられた。ゼロからやり直すつもりだったので、何番でもいいと答えると「9」に決まった。これまで広山は、7番や11番が多く、ストライカーの印象が強い9番をつけるのは初めてだった。テストの時に得点を決めたので、フォワードの選手だと思われたのかなと、おかしかった。これもまた新しい経験だった。

 欧米では、自動車は生活必需品である。広山はこれまでも自動車の貸与を契約に入れていた。03−04シーズンに所属していたモンペリエHSCでは、クラブのスポンサーとなっているルノーのディーラーに行き、気に入った車をその場で乗って帰ったこともあった。
 だが、リッチモンドでは、自動車の提供は断られた。出来ることは努力するが、出来ないことは約束しない――南米のクラブと違って、駆け引きがないのが楽だった。英文でのメールをやりとりして、無事に契約を結んだ。後は、アメリカの就労ビザを取得して、4月の開幕に合わせてチームに合流するだけだった。

 その矢先、2011年3月11日、東日本大震災が起こった――。
 その日、広山は千葉県袖ヶ浦市の実家に戻っていた。母親が亡くなってから、実家は空き家となっていた。広山は、夭折した父親が建てたこの家には思い入れがあった。家の手入れをしていると、近所の人たちが、魚や野菜などを持って来てくれた。高校卒業以降、広山はこの家に住んでいない。不在の期間も母親が近所の人たちから支えられていたことを改めて実感した。
 福島を震源地とする地震は、千葉県の湾岸部にも深い爪痕を残したが、幸いにも広山の自宅近辺の被害は軽かった。
 しかし、その時は気が付かなかったが、広山にとって震災は確実に、そして深刻な問題となっていた。ビザである。パラグアイでは観光ビザで登録、試合出場が可能だったが、当然のことながらアメリカは国内の労働者の権利を守るために、試合出場にはビザの取得が義務づけられている。プロのスポーツ選手に与えられる「P1」という就労ビザが必要だった。そのため広山は、東京のアメリカ大使館にビザ取得のための面接を申しこんでいた。

 ところが――。
 福島第一原子力発電所の事故で放射能汚染を恐れた在留アメリカ人が大使館に殺到していた。そのため、広山の就労ビザの面接は無期延期となったのだ。このままだと、シーズン開幕どころか、数カ月以上合流に遅れることになる。調べてみると、大阪のアメリカ大使館では面接を受け付けていた。すぐに面接の予約を入れることにした。しかし前日、妻の名前が面接リストに入っていないことが分かった。クラブにメールを入れて、大阪のアメリカ大使館に、緊急面接を要請する連絡を入れてもらった。まだ小さな息子と妻を日本に置いてアメリカに行くことは、広山には考えられなかったのだ。

 3月28日、大阪まで車で行き、夫婦でアメリカ大使館に並んだ。上層部には話が通っていたようで、2人とも無事に面接を受けることができた。ビザは2日後に届いた。結局、ビザ取得まで、アメリカのクラブとやり取りした英文メールは100通を超えることになった。
 4月4日、広山はニューヨーク経由でリッチモンドに到着した。彼を追って、ぼくがリッチモンドに向かったのは、それから約2カ月後、5月末のことだった。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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