ロンドン五輪が閉幕した翌日、帰国までの時間を利用してトットナム・ホットスパーの“スタジアム・ツアー”に申し込んでみた……のだが、渋滞に巻き込まれ開始時間に遅れてしまう。「日本から来たんだ」と懇願してもまるで相手にされずに門前払い。五輪期間中はついぞ出くわすことのなかったぶっきらぼうな対応に「ああ、これぞロンドン」と妙な感心をしつつ、せっかくなのでクラブショップをのぞいてみることにした。
 世界中から観光客がやってくるチェルシーやアーセナルといった同じロンドンのビッグクラブとは違い、スパーズのショップに足を運んでいるのはほとんどと言っていいぐらい、地元のファンである。だからなのだろうか、70年代や80年代のいわゆる復刻版ユニホームなども売られていた。

 売り場の中には、チーム関連の書籍を集めたコーナーもあった。興味深かったのは、一番目立つところに陳列されていた、おそらくは一番の売れ筋商品と思われる単行本が、日本にも馴染みのあるアルゼンチン人のものだった、ということである。

 オジー・アルディレス。

 彼がスパーズに渡ったのは、78年のW杯アルゼンチン大会の直後。技術レベルの高いアルゼンチンの中でも極めつきのテクニシャンだったオジーは、同じくアルゼンチンからやってきた同僚のリッキー・ビジャとともに、低迷の続いていたスパーズに久々のタイトルをもたらす。熱狂的なことで知られるスパーズのサポーターにとって、2人のアルゼンチン人は救世主にもたとえられる存在だった。

 そんなときに起こったフォークランド紛争――。

 当時、イングランドでプレーしていたアルゼンチン人選手はオジーとリッキーの2人のみ。対戦相手のファンからは、容赦のない罵声も飛んだ。やがて、アルゼンチン軍兵士として出征していたオジーの肉親が戦死したという報も入る。もはや、2人がスパーズでプレーを続けるのは不可能に近い状況だった。そんな中、スパーズのサポーターが伝説的な垂れ幕を掲げる。

“オジーが残ってくれるなら、フォークランドなんかくれてやる!”

 結局、オジーは一時的にパリSGへレンタル移籍するものの、紛争が終結するとすぐさまスパーズに戻り、再びファンから愛される存在となった――。

 ロンドン五輪の3位決定戦で韓国人選手が起こした事件を、英国の高級紙は「五輪の輝きを曇らせた」と手厳しく批判した。政治に翻弄され、しかし乗り越えようとして声を上げたスパーズのファンは、自ら政治の分野に手を突っ込んだ韓国人選手の行動を、どう見るのだろうか。

<この原稿は12年8月23日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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