いまや平成に入って四半世紀が経(た)とうかという時代である。学校での体罰を全面的に支持する人は相当な少数派になりつつあるに違いない。大阪の市立高校バスケ部で体罰による自殺者が出たあと、世論が「体罰けしからん」という声一色に染められたのは、当然といえば当然のことである。
 指導者のライセンス制度が導入された効果か、日本のサッカー界においては明らかに体罰は減少……というか絶滅の方向に進みつつある。ただ、「時代が体罰を許さないからやらないが、許されるのなら……」との思いをどこか捨てきれずにいる指導者は、まだまだ少なくないようにも思える。そうした人の多くは、自らが若いころに体罰を経験し、それが糧となって成長できたと考えている。

 彼らは、確かに肉体的な暴力を振るうことはしない。だが、言葉の暴力に関しては、「体罰ではない」というただそれだけの理由で、黙認どころか大手を振ってまかり通っている。怒鳴りまくるコーチにうなだれる選手という図式は、依然として健在である。

「体罰」はいけないが「罰」ならば構わない……というのであれば、日本のスポーツが抱える本質的な問題は何も変わらない。スポーツとは、本来権利である。楽しいから、やる。楽しくなければ、辞めたってかまわない。反論を許されず、一方的に罵(ののし)られるだけの選手たちは、一体どこに楽しみを見いだせばいいのか。

 そろそろ、「スポーツに罰はそぐわない」というか、指導者による罰が常識的な行為として容認されていることの異常さに気づくべきではないか。

 スポーツにおけるミスは、あるいは上達の遅れは、罪ではない。非行でもない。仲間に迷惑をかけてしまった、あるいは周囲より遅れてしまったという事実は、指導者が何もいわなくても、やっている選手自身が痛み、恥としてよく理解している。指導者に求められるのは、そうした思いを上達に向けたエネルギーに変換してやることであって、罵声を浴びせることでは断じてない。

 外国人と草サッカーをやってみて感じるのは、日本人からするといささか異様にすら感じられる勝利に対する執念と、草サッカーではいま一つムキになりきれない自分の存在である。それは、スポーツの楽しさを全面的に享受してきた人たちと、どこかの段階で体罰を振るわれ、罵られ、懲罰的な練習を強いられた人間の違いなのか、とも思う。

 いまの日本に、スポーツをやったことのない人間はほとんどいない。にもかかわらず、五輪招致への熱は、他の都市に比べて極端に低い。これは、日本人が欧米人ほどにはスポーツを楽しんでこなかったという証でもある。

<この原稿は13年1月17日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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