1993年4月1日、里内猛は留学先のブラジルから日本に帰国したのも束の間、5日後の6日には、鹿島アントラーズのイタリア遠征に帯同した。ミラノで飛行機を降り、バスに乗り替えて約4時間、アドリア海に面した宿舎に到着した。辺りはマリティマと呼ばれる一角だった。
(写真:互いに厚い信頼を寄せている里内とジーコ)
 イタリアについてすぐの8日に最初の練習試合が行われた。相手はイタリア北部に本拠地を置くマントヴァFCというクラブだった。マントヴァは1911年に創立した古いクラブで、当時は3部リーグに当たるセリエCに所属していた。前半終了間際、鹿島は長谷川祥之のゴールで先制した。試合は鹿島が終始押し気味だったが、ジーコの機嫌は優れなかった。その理由は、ある選手のプレーに納得がいかなかったからである。

 当時、鹿島の中盤に明治大学から入団したばかりの吉田康弘という選手がいた。小柄ではあったが、同じポジションのジーコが成長を期待していた選手である。ところが、マントヴァ戦での吉田の動きは精彩を欠いていた。ハーフタイムとなり、ジーコはしかめ面でピッチから出た。そして、ロッカールームに入ると、里内に向かって怒鳴った。
「里内、吉田はどうなっているんだ? ブラジルでちゃんと練習していたのか?」

 吉田は里内と一緒にサンパウロFCへ派遣されていたのだ。「吉田の動きが悪いのは、体重が増えているからだ。サンパウロでフィジカルコーチは何をしていたのだ!」とジーコはまくしたてた。

 この時、鹿島アントラーズの監督だったのは宮本征勝だった。ジーコはかねてから日本の指導者に対して「サッカーは日々変化しているのに、自分の現役時代の経験でしか教えられない」と不満を漏らしていた。ブラジルのメディアに鹿島での役割を尋ねられると、
「ぼくが全てやっている。監督? 彼はベンチに座っているだけだよ」と答えていた程である。

 また、神経質で負けず嫌いのジーコは、30代後半の自分の身体がかつてのように動かないことにも苛立っていた。それにも関わらずチームをまとめなければいけない。思い通りにいかない怒りは年上の監督ではなく、気心の知れた男――叱ってもめげない里内に向いたのだ。

「すいません」
 里内はジーコに頭を下げ続けた。イタリア遠征にはNHKのテレビクルーが同行していた。撮影カメラに気がついたジーコは、「スミマセン、オワリ、オワリ」とロッカールームの扉を閉めた。扉を閉めた後もジーコの怒りは続いた。 その様子は後に日本全国に放送された。
――お前、ジーコに怒られていたなぁ。
 放映後、様々な所から電話が入り、里内は苦笑いするしかなかった。

 このイタリア遠征で最も重要だったのは、クロアチア代表との練習試合だった。91年にユーゴスラビアから独立したばかりのクロアチア代表には才能ある選手が揃っていた。後にレアル・マドリード(スペイン)、アーセナル(英国)でプレーするフォワードのダヴォール・シューケル、ACミラン(イタリア)で10番をつけたズボニミール・ボバン、レアル・ベティス、レアル・マドリードでプレーした左利きのテクニシャン、ロベルト・ヤルニ……。当時のクロアチア代表は分離独立紛争の影響で国際サッカー連盟(FIFA)から公式試合を禁じられていた。だからこそ、極東の出来上がったばかりのクラブチームとの練習試合を引き受けたのだ。

 試合はジーコの古巣であるウディネーゼの本拠地・フリウリスタジアムが使われた。鹿島がこのスタジアムを使用できたのは、もちろんジーコがいたからである。約2年前に行われた90年イタリアワールドカップでも使用されていたスタジアムでプレーできることに里内は驚き、ジーコの影響力を改めて思い知った。

 しかし、試合は散々だった。雨の中の試合で、技術の差がより明らかになった。水たまりの中でもクロアチア代表の選手たちは、きちんとボールを止め、正確なパスを出した。鹿島は前半だけで1対4と圧倒された。試合に飢えていたクロアチア代表は後半に入っても攻撃の手を緩めることはなく、終わってみれば1対8――。この惨敗以降、ジーコは実質的な監督として、チーム作りに関わることになった。

 約3週間に及ぶイタリア合宿は密度の濃いものだった。セリエAの試合を観戦に行った日も練習は行われ、完全な休みは1日もなかった。ただ、そのおかげでチームは変わった。遠征終盤、鹿島はインテルナシオナル・ミラノと練習試合をした。インテルには、イタリア代表のゴールキーパーのワルテル・ゼンガ、ジュゼッペ・ベルゴミ、ニコラ・ベルティ、そして「トト」の愛称で親しまれたサルヴァトーレ・スキラッチら錚々たるメンバーがいた。その相手に1対1と引き分けた鹿島は明らかに成長していた。
(写真:Jリーグ開幕以降、鹿島は7度のリーグ優勝など、数々のタイトルを獲得している)

 イタリアに来た当初は、観光気分の選手がいなかったとは言えない。しかし、遠征中盤から雰囲気は引き締まり、緊張感のある集団になっていることを里内は感じた。ジーコもこのイタリア遠征が、チームがひとつにまとまるきっかけになったと後に語っている。

 そうして開幕を迎えたJリーグ――当時の鹿島は優勝候補とは言えない存在だった。ところがチームは開幕から勝利を積み重ね、ファーストステージを制した。惜しくも初代年間優勝は逃したものの、その後、鹿島はJリーグを代表する強豪クラブへと成長していった。

 ジーコはJリーグ初年度で現役を引退した。しかし、その後も鹿島、そして里内との繋がりは続いた。その2人の関係が再び強まり始めたのは、2002年日韓ワールドカップ後のことである。ジーコが日本代表監督に就任したのだ。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。
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