古くからのファン、特に日本代表を応援していたファンにとって、10月は哀しい思い出が詰まった月でもある。
 木村和司が伝説的なFKを決めながら、韓国に地力の差を見せつけられたのは85年10月26日だった。2年後の10月26日には、雨の国立でほぼ手中にしかけていたソウル五輪への切符を失った。そして、あまりにも有名な“ドーハの悲劇”は10月28日の出来事だった。
 W杯はもちろん、五輪ですら手の届かなかったあの時代、欧州や南米のサッカーは途方もなく遠くに位置する夢舞台だった。

 なぜあの頃、日本のサッカーはあんなにも弱かったのか。世界はおろか、アジアのライバルにも蹂躙されていたのか。プロがなかった、環境が整っていなかった、という点は間違いなくある。だが、一足先にプロリーグを発足させていた韓国も含め、当時のアジアに成熟した、そして世界に通用するプロリーグは存在していなかった。いわば、レベルの低いイコール・コンディションの中、それでも日本は低迷を続けていたのである。

 日本に才能が生まれていなかったのか。そんなこともない。すでに底辺の競技人口は野球を超えていた。高校選手権では、毎年のようにファンを驚かせるスターの誕生があった。いまになって振り返れば、生まれた時代が違えば世界のスーパースターになることも可能だったのでは、と惜しまれる才能もいた。

 なのに、勝てなかった。

 21世紀に入り、日本人選手はどんどんと欧州に飛び出すようになった。かつては若年層の頃から将来を嘱望された選手のみに与えられた機会だったが、近年では高校時代、あるいはプロに入ってからさほど評価の高くなかった選手も、海を渡るようになった。

 日本代表の岡崎も、そうした選手の一人である。

 滝川二時代の彼は、ほとんど無名に等しい存在だった。多くのJリーガーを送り出してきた恩師でさえ、岡崎がプロで成功するのは簡単なことではない、と見ていた。個人的にも、高校時代の評価では、先にドイツに渡った高原あたりとは比べ物にもならなかった、という印象がある。

 だが、彼はエスパルスで結果を残し、日本代表に名を連ね、ブンデスリーガでプレーするようになった。

 今年の10月26日、岡崎は対ブラウンシュバイク戦で2得点をあげた。一昔であれば大騒ぎになっていたであろう活躍を、日本のメディアはごくごく落ち着いた表現で伝えた。

 違いは、そこにあるのかもしれない。日本人にとって、欧州は夢の舞台から現実の舞台となった。誰にでも努力次第で手の届く舞台となった――そう考えるようになった日本人が増えたこと。そこが、かつての日本との最大の違いなのかもしれない。そんなことを思った、今年の10月下旬である。

<この原稿は13年10月31日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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