作り上げるのは難く、壊すのは易しい。いかなる伝説的なチームであろうとも、結果が伴わなければ不協和音が噴出する。敗戦、それも零敗を続けてしまった日本代表がおよそ一枚岩には見えなくなってきているのも、当然と言えば当然である。
 前日付のスポニチでは、結果を重視したいと口にする選手と、内容にこだわるザッケローニ監督の“温度差”が指摘されていた。喜ばしいことではもちろんない。ただ、これが逆だったら、つまり監督が結果にこだわり、選手が内容を追求したいと考えているとしたら、事態ははるかに深刻なものになっていただろう。

 なぜザッケローニ監督は高い支持を得ていたのか。彼の目指すサッカーが、日本人であることをエクスキューズにしなかったからだとわたしは思っている。日本人だからできない。日本人だから運動能力で劣る。日本人だからこういうサッカーをやるしかない――長く日本サッカー界に巣くっていた劣等感と、彼は無縁だった。日本人でもできる、いや、日本人だからできるというスタンスこそが、未開発だった日本人選手の可能性を大きく開花させたのである。就任直後、まだ指導が浸透しているはずもないアルゼンチン戦で素晴らしいパフォーマンスが見られたのは、戦術うんぬんではなく、選手たちの意識にあった重しのようなものが取っ払われたからに他ならない。

 そんな監督が、ここにきて「内容より結果だ」と言い出していたら――。

 チームが崩壊する理由はひとつではないが、“監督のブレ”はその最大の要因の一つである。変えてはいけないものが変質した時、チームの求心力は一気に失われる。そして、内容を高めることが結果を残す最良の手段だとしていた監督が、結果のために内容を度外視するようなことがあれば、日本代表の危機はより深刻なものになっていただろう。

 選手が結果にこだわるのはかまわない。というより、こだわらない選手などチームに必要ない。FWであればより多くのゴールという結果に、DFであればクリーンシートという結果に、どんどんこだわってもらいたい。

 ただ、惨敗を恐れて自分たちの持ち味を放棄するようなことがあれば、それは“いつかきた道”でしかない。ブラジルでやりたいのは南アフリカでやったようなサッカーなのか。まったく違うサッカーなのか。監督の腹が固まっている以上、選手たちも意識を揃えていく必要がある。

 わたし自身、今回の遠征に結果を求めようとは思わない。欲しいのは内容という名の手応え、ブラジルで怯えずにすむ自信の源である。ただし、結果だけでなく内容も伴わないようなことがあれば、協会は16年ぶりの決断を下すべきだ、とも思う。更迭、という名の決断である。

<この原稿は13年11月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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