まずは楽観論が語られ、続いて選手、あるいは通から「そんなに甘いものではない」という声があがる――大雑把にいうと、W杯本大会の組み合わせが決まってからの日本はそんな流れになっていた。
 悪い流れではない。

 楽観したくなる人たちの気持ちはわかる。地元ブラジルはいない。前回優勝のスペインもいない。急速に地力を増しつつあるドイツもいない。つまり、同じグループ内に勝てそうもない相手はひとつもない。

 一方で、そうした空気を戒めたくなる人の気持ちもわかる。アジアでも四苦八苦だったくせに。たかだか5回目の出場のくせに。相手の詳細を知らないくせに。

 わたし自身、その日の気分によって楽観主義に傾くこともあれば、とんでもないと自分を戒めたくなることもある。ただ、初めてW杯に出場した時のことを思えば、日本もずいぶん遠いところまで来たものだと思う。

 アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカ。日本にとって初めてのW杯は、グループ1位を狙うならばともかく、決勝トーナメント進出のできる2位狙いならば、まずまず「おいしい」といえる組分けだった。

 だが、あの時の日本にそんな空気は皆無だった。

 当時の岡田監督は大会前の目標として「1勝1分け1敗」を公言し、それは、さしたる反発もなく受け入れられた。指揮官が戦う前に自分たちの「1敗」を予想したにもかかわらず、激怒する人も呆れる人もほとんどいなかったのが当時の日本だった。

 勝てるわけが、なかったのだ。

 わたしは、日本人の苦手な肉体接触を伴う競技であるにもかかわらず、柔道が国際競争力を保ち続けている理由の一つに、「周囲の無責任な期待」があると思っている。一般的な日本人は、世界の柔道の趨勢などほとんど知らない。にもかかわらず、五輪に出場する日本人選手は無条件に金メダルが期待され、できることならば「一本」での勝利が求められる。選手にとってはたまったものではないが、しかし、その重圧が日本柔道を日本柔道たらしめていたのだとわたしは思う。

 ブラジルやドイツのサッカーがそうであるように。

 楽観論の根底にあるのは、自分たちのサッカーに対する自信である。無知で、無責任で、無根拠かもしれないが、強い国であるほどによく聞かれる声でもある。

 わずか15年前、日本にとってW杯は出場することだけが目標だった。来年、日本代表はおそらく史上初めて、決勝トーナメント進出をノルマと見なす国民が多数派になった状態で本大会に挑む。勝っても負けても、いままでとは違う喜びと痛みを経験できるW杯である。

<この原稿は13年12月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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