10月17日午前、横浜F・マリノスの関係者から一本の電話が入った。
 耳を疑った。
 ジュビロ磐田、マリノスで黄金期を築いてきた元日本代表MFの奥大介が沖縄・宮古島で交通事故を起こし、命を落としたのだ、と。
 今年の夏から宮古島のホテルで料理人を目指して再起を図っていたという。まだ38歳。あまりに早すぎる。

 筆者は奥のことを「大ちゃん」と呼ばせてもらっていた。スポーツ新聞社でマリノス担当をしていた03年以降、親しくさせてもらった。
 最後に会ったのは、12年6月。奥を兄のように慕ってきた久保竜彦の引退原稿を書くために、直接話を聞きにいった時だ。横浜FCで強化部長を務めていた彼は忙しい合間を縫って、インタビューの時間をつくってくれた。

 奥がパスを出し、久保が決める。それがマリノスの必勝パターンだった。
「大ちゃんにとってどのシーンが一番、思い出深い?」
 そう尋ねると、彼は迷うことなく03年11月、アウェーのベガルタ仙台戦を挙げた。

 筆者の脳裏にも、鮮烈に残っている。久保のハットトリックの1点目。カウンターからドリブルでゴール前に迫った奥は、相手2人を引き付けておいて、左からフリーで走り込んできた久保にボールを送る。そのパスを久保がは利き足の左足アウトサイドでシュートを打ち、GKの手をかすめるようにしてゴールに突き刺した。
 
 奥は思い起こしながら、こう言った。
「あれは俺とタツしか共有できないと思いますよ。タツが落として、ノールックでタツにまた戻して……そしてタツがアウトサイドで左に巻くシュートを打ってね。2人で相手を崩して、最後にアウトで巻いてっていうのは鳥肌が立ちましたね」

 奥は攻守にとにかくよく走った。
 華麗なテクニックもさることながら、チームの勝利のために持てる力を試合のなかですべて発揮しようとする人だった。小さな体ながら、意志が強く、最後まで勝負をあきらめない人だった。

 仲間に慕われ、みんなから「大ちゃん」「大さん」と呼ばれていた。人の相談に乗ることも多かったように思う。人見知りの久保も「大さん」と慕い、大きな信頼を寄せていた。
 味方との信頼関係。
 それがあったからこそジュビロでマリノスで、連係の軸になってきたのだと思えてならない。

 奥の男気をうかがうことのできるエピソードがある。
 06年のドイツW杯出場を目指していた久保が、W杯メンバーから“サプライズ落選”した日。大好きな酒を断ってメンバー入りを目指してきた久保に、「きょうだけは飲もうや」と一日限定の解禁日にして“残念会”を催したことがあった。

 その夜のことは久保の心情も察して、奥はあまり多くを語ろうとしなかった。だが、久保の引退を機に、そっと打ち明けてくれた。
「あの日のことですか……タツは『ショックじゃないですよ』って強がっていましたけど、飲み方が半端じゃなかったんです。アイツ、とことん飲んでいましたね。相当、ショックなんやろうなと僕は思いましたよ。タツがW杯の舞台に立つのを、俺自身も凄く楽しみにしていたんですけどね」

 特に、なぐさめの言葉を掛けたわけでもない。最後まで付き合い、タクシーに乗せるまでずっと久保の傍にいた。
 奥がマリノスから戦力外通告を受けて横浜FCに移籍すると、久保はマリノスからの残留要請を断って奥とともに横浜FCに移籍している。

 奥は横浜FCに移籍した07年限りで引退し、多摩大目黒高サッカー部の指導者となった。いつか会って話をした時には「監督になって、サッカーをいろんな角度から見ることができて面白いんですよ」とやる気に満ちた表情で語っていたのが印象的だった。

 しかしその後、横浜FCのフロントに入って強化部長を務めたものの、体調不良を理由に退団する。事件もあった。あれだけ好きだったサッカーから、大ちゃんは離れていった。
来年2月1日、横浜FCの三浦知良、ジュビロ磐田監督の名波浩が発起人となって、追悼試合が行なわれるという。

 いつも機能美の中心にいた、ひたむきかつ魅せる奥大介のプレーが色褪せることはない。合掌。

(このコーナーは第1木曜日に更新します)
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