1963年12月8日、“昭和の大スター”力道山は東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団員と些細なことでケンカになり、腹部を刺される。そして、その1週間後、入院先の病院で化膿性腹膜炎で死去した。39歳だった。
 スーパーヒーローの衝撃的な死を巡っては、50年近くが経とうとしている今でも、さまざまな憶測が飛び交っている。力道山の息子であり、現在は日本人現役最年長レスラーでもある百田光雄は、その時、何を見て何を感じたのか。家族だからこそ知っている秘話を当HP編集長・二宮清純が訊ねた。
二宮: 力道山が刺された時は、どこにいらっしゃったのですか?
百田: 僕はリキアパート(力道山の建てた高級マンション)の最上階にあった自宅の自室にいました。夜中なのに外がものすごく騒がしいなと思っていると、「お父さまがちょっとケガしたから」という話を聞きました。そこで下の階に下りて、ダイニングルームに座っていた父に会いました。だけど、人もいっぱいでバタバタしているので、挨拶だけして自室に戻ったんです。
 しばらくたつと、また下の方が騒がしい。ベランダから下を覗いてみると、1階から大勢の人が上がってくるのが見えました。それがどうやら事件を起こした人間と、所属団体の親分が父のところに謝罪に来たタイミングだったようなんです。リキアパートの入り口にはプロレスの合宿所があったので、父が刺されたことを聞いたレスラーたちが彼らを取り囲んで一触即発の状態でした。警察が仲介に入って、何とかその場は収まったのですが、「なんか大変なことになったな」と感じました。

二宮: 刺された直後、自宅でお会いになった時の力道山の様子は? 痛そうなそぶりはしていましたか?
百田: いやいや。そんな感じはまったくないです。父はたとえ家族の前だろうと弱みを見せる人間ではありませんでしたから。もちろん痛みはあったでしょうが、それを表情に出したり、口に出したりはしなかったですね。だから医者も軽傷だと勘違いした面もあるのかもしれません。平然としていたら、「大丈夫なのか」と思ってしまいますよね。

二宮: 力道山の死因には諸説あります。手術ミスだったという話もあれば、炭酸飲料を飲んで傷を悪化させたという話もあります。
百田: 父はサイダーが好きでいつも飲んでいました。おそらく刺されてからも飲んだはずです。ただ、一番、父にとって不幸だったのは刺し傷が小さかったことでしょう。本当は刃が根本まで刺さって腸まで達していたにもかかわらず、腹部の筋肉が発達していたおかげでギュッと表面の傷口が締まっていた。それで医者も傷の深さが分からず、腸の中まできちんと確認しなかったようなんです。つい最近、麻酔を担当された医師の方が「あれは医療ミスだった」と家族に漏らしていたとも伺いました。まぁ、いずれにしても、それが父の運命だったのでしょう。今さら、どうこう言う問題ではないと思います。

二宮: 他にもたくさん病院がある中で山王病院で治療を受けたのはなぜですか?
百田: 山王病院の院長先生は、父が相撲時代からお世話になっていた方だったからです。やはり父は「自分がスター」という意識があったため、事を大きくしたくないとの思いがあったのでしょう。ただ、山王病院は当時、産婦人科がメインだったので、あいにく常駐の外科医がいなかった。なので当日は応急手当だけで、いったん家へ帰ってきちゃったんです。そして再度、山王病院へ外科の先生が来られたので、病院へ行って手術をしました。

二宮: 手術を受けてからの入院中の様子は?
百田: 亡くなるまで毎日、お見舞いに行きました。病院での父はものすごくおとなしかった。普段だったら、「こんなもの、どうってことない」と強がるタイプなのに、口数がものすごく少なかったです。僕に対しても、いつもはとても怖いのに「オマエ、ちゃんと勉強しとけよ」程度のことしか言わなかった。今になって思えば、父らしくなかったですね。

二宮: 力道山と最期に交わした言葉は覚えてますか?
百田: いや。亡くなる日は、ほとんど誰とも口を利かないような状態で、目だけがギョロッと動いていた記憶があります。先生からは「今日はもう容体も安定してますので、お帰りになって問題ないかと思います」と言われました。そこで自宅に戻ったところ、夜になって「急遽、病状が変化した」と。病院に着いた時にはもう亡くなっていました……。

二宮: ということは、そのわずか数時間で何かが起きたと?
百田: 最終的な死因は腹膜炎ですから体の中では、その前から異変が起きていたのではないでしょうか。だけど、父は「痛いかゆい」と口に出すタイプじゃなかった。かなり我慢をしていたのかもしれません。だから余計に口数が少なかったのかなという気がしますね。

二宮: 結果的には最期までヒーロー力道山を演じ続けたことが、命取りになってしまったと?
百田: やっぱり「スター」としての自覚は常に持っていましたからね。当時の父に密着していた新聞社や雑誌社の方からは「力道山がだらしなく崩れた姿を見たことない」と言われます。たとえば移動で電車に乗ると普通は居眠りをしたりするものですが、父が姿勢を崩すほど爆睡していた様子は一度もなかったと。しかも、カメラを向けた途端、必ず笑顔を向けていたそうです。確かに父を撮った写真で疲れたような顔を見せたものは一切ないんですよね。そういう徹底したプロ意識は誰にもマネできないくらい素晴らしかったと思います。

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