nakamura6「面白い子がいるなぁ」。中学3年時の中村信一郎を一目見て、当時、高松工芸高校陸上部の顧問を務めていた荒川雅之(現・小豆島高)は惹き付けられた。香川県高松市にある屋島陸上競技場で2人は出会う。そこで荒川は「ノビノビとしたダイナミックで柔らかい走りが魅力でした」と中村の走りに惚れ込んだ。だが、彼の潜在能力はまだ花開いてはいなかった。

 

「走るのが好きだった」

 

 中村が陸上を始めたのは小学1年時のことである。5歳上の姉が地元の屋島クラブに入ったこともあり、母・博美はその送り迎えに末っ子も連れて行ったのだ。クラブに入れるのは小学4年から。当時の中村はクラブに入れる年齢ではなかったが、競技場の隅っこで見よう見まねで走っていた。それを見ていたクラブのコーチに「一緒にやってみるか?」と声をかけてもらい、短距離と走り幅跳びを習うようになっていった。

 

 純粋に走るのを楽しんでいた小学生時代。足は速く学校の運動会ではアンカーを務めた。母・博美によれば、いつもいいところで回ってきて、最後に追い抜いて1着になることも少なくなかったという。毎年、県立丸亀競技場で行われるエスビーちびっ子健康マラソンでは1年で2位に入ると、2年から5年連続で優勝を果たした。

 

 屋島クラブでは6年になると全国小学生陸上競技交流大会の走り幅跳びで9位に入った。記録は4メートル69。入賞までは、わずか1センチの差だった。「9番だったんですが、清々しかったというか、やりきった感はありましたね」。中村は華奢な身体付きで、背も小さかった。体格で劣る自分は、短距離や幅跳びでは通用しない。そう思い始めてもいた。

 

 龍雲中学に進むと、陸上部に入る。種目は800メートルと1500メートル。スプリンターから中距離ランナーへと転じた。「元々、長い距離を走るのは好きだった。中学に入ったら距離を延ばしたいなとは思っていました」。同校のOGである姉2人は、いずれも全国中学校体育大会(全中)へと出場していた。しかし、末っ子である中村には、全国への壁は厚かった。

 

 恩師と出会い、磨いたスピード

 

 冒頭の出会いは、中村が殻を破れずにいた時のこと。彼自身が「ターニングポイント」と振り返るシーンだった。荒川は龍雲中陸上部の顧問に連絡し、中村を週に1、2回ほど高松工芸高の練習に参加させた。

「身体的な素質もあるんですが、頭も良い。理解力もありましたね。話がすぐに伝わるというか。自分でいろいろ考えたり、工夫できる能力もありました」

 

nakamura7 メキメキと力をつけていった中村は、3年時についに全中へ出場を果たした。800メートルで2分0秒29の自己ベストを出したものの、予選敗退だった。同タイムで着差あり。紙一重で準決勝進出は叶わなかった。それでも3年間で初めての全国大会の舞台に立つことができた。過ごした時間は多くなくとも「荒川先生のもとでやっていれば、結果は出るんじゃないかと」と信頼は揺るぎないものになりつつあった。

 

 一方の荒川も、中村が高松工芸高へと来てくれることを望んでいた。

「是非来てほしかった。彼が来ることでうちの起爆剤になると信じていました。彼をエースに据えたいと思っていたんです」

 

 そのまま“相思相愛”の師弟関係は続く。中村は高松工芸高に入学すると、さらに走る距離を延ばしたい想いを封印する。荒川の指導は高校1、2年までは800メートルと1500メートルをメイン種目とさせたからだ。狙いはこうだった。

「彼の持っている伸びやかな走りが距離を踏むと、ロボットみたいに硬い動きになってしまう。ある程度はスピード重視して、その動きを保ったままで5000メートル、それ以上の距離にいってほしいと思っていました」

 

 当時、学生界の記録も平均値はグングン伸びていて、高速化が進んでいた。荒川には中村に「日本のトップレベルでやってほしい」という思いがあった。そのためにはスピードは必須だと考えていた。中村本人もそれを理解し、受け入れた。「先生の考えで、スピードを身につけるには若いうちにやっておいた方がいいと。長い距離はやりたかったんですが、先生を信じてやるしかなかった」

 

 高校1年は走る度に自己ベストを出すような勢いだった。800メートルで全国高校総合体育大会(インターハイ)に出場。秋の国民体育大会(国体)では少年Bの3000メートルで4位入賞を果たした。香川県の高校記録を意識して走り、8分24秒96で8年ぶりの記録更新を見事に実現させた。ハイペースにも前方で食らいつき、6番手でラスト100メートルを迎えた。直線勝負の叩き合いで2人を抜き去る。磨いたスプリント能力を発揮してみせたのだった。

 

 ノリにノッていた1年とは違い2年になると食中毒、インフルエンザと不運に見舞われた。思うような結果は残せなかった。3年時には荒川が異動したことにより、指導者が代わり戸惑った部分も少なからずあった。インターハイでは1500メートルの9位が最高。全国高等学校駅伝競走大会の香川県予選では、個人では区間賞の活躍を見せたものの、優勝には手が届かなかった。結局、中村は3年間、都大路を駆け抜けることは一度もなかった。

 

「僕が他の選手をカバーするほどの力がなかった」。誰かを責めるようなことはしない。ただ自分の力のなさを悔やんだ。中村が自らを成長させるために選んだ次のステージは、名門校・早稲田大学だった。小さい頃から憧れていたエンジのW。その重みを纏って、「箱根を走る」という夢は加速していく――。

 

(第3回につづく)

 

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nakamura5中村信一郎(なかむら・しんいちろう)プロフィール>

1993年4月14日、香川県高松市生まれ。小学1年時から陸上を始め、6年時には全国小学生陸上競技交流大会の走り幅跳びで9位に入った。龍雲中、高松工芸高時代はいずれも中距離で全国大会出場。11年、早稲田大学に入学すると、2年時に出雲駅伝で学生駅伝デビューを果たす。14年の箱根駅伝に10区を任され、15年は1区を走った。今シーズンは全日本インカレの1万メートルで日本人2位の5位入賞。出雲駅伝では区間7位と振るわなかったが、全日本大学駅伝では1区を3位で襷を渡し、チームの4位入賞に貢献した。身長174センチ。体重57キロ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 


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