予想できない未来の中に明るい光も
今年も3月11日がやってきた。
調べてみると、3月11日が木曜日だったのは、あの震災以降、初めてのことだった。次の機会は27年。そこまで毎週木曜日掲載のこの連載が続いているかわからないし、人生、何が起こるかわからない。ごく個人的に、10年前を振り返ってみる。
地震が襲ってきたとき、わたしはお台場にあるCS放送のスタジオで「バルサTV」の収録をしていた。およそ地盤が固いとは言い難い場所の、しかも高層ビルの中。スタジオは激しく揺れ、収録は中断された。
まず真っ先に頭に浮かんだのは、関東大震災であり、阪神淡路大震災の映像だった。ペシャンコに潰れた家屋と、燃え盛る炎。だから、控室に戻ってテレビをつけた時は、まず安堵と、白状すれば拍子抜けのような気分にもなった。カメラが映す東京の家は、ビルは、どこもつぶれていなかったし、街が火の海になることもなかったようだから。
スタジオの機材はまったくの無事だったこともあり、まもなく収録は再開され、無事に終わった。帰路についたのは夕方4時ころだったと思う。
スタジオを出て初めて、異変に気付いた。
レインボーブリッジが封鎖されていた。いや、厳密にいえば、首都高速の部分だけが封鎖されていた。
歩道には人が溢れていた。
普段のレインボーブリッジで歩行者を見かけることはほどんどない。そんな橋の歩道が、はるか先まで人で溢れていた。そして、クルマの進む速度は、冷たい雨の中をとぼとぼ歩く歩行者の方たちと変わらないレベルでしかなかった。
いつもであれば30分ほどで着く自宅に戻ったのは、夜の8時ぐらいだったか。
玄関のガラスにヒビが入っていたが、家はほぼ無傷だった。留守番していた3匹の犬も元気いっぱいで、間もなく、仕事に出ていた妻も帰って来た。東北地方を襲った津波について知ったのは、家のテレビをつけてからだった。
福島が大変なことになったらしいことも――。
あのとき、予想もできなかったことはいくつもある。
まさか数カ月後、女子日本代表がW杯を制するとは。それも、ただ勝つだけでなく、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ上での優勝をなし遂げるとは。国民栄誉賞を獲得しようとは。
グアルディオラ監督のもと、至高の領域に到達していたバルサが、次第に輝きを失い、ついには80億円とも言われる借金を抱えるクラブに成り下がろうとは。中心選手だったイニエスタが、日本でプレーするようになろうとは。
復興を旗印に掲げた日本が、東京五輪の開催権を獲得しようとは。その五輪がまずは延期となり、ついには海外からの観客を受け入れない方針での開催を模索するようになろうとは。
時はうつろう。未来はやっぱり予想できない。
今年の9月には、女子プロサッカー“WEリーグ”が開幕する。あの震災から10年たって、ようやく日本女子サッカーの土壌が耕されようとしている。
前途を不安視する声も聞く。ただ、10年前のW杯に臨む直前の彼女たちは、不安視どころか、ほぼ誰からも期待されていない存在だったことを改めて思い出す。
わからない未来には、明るいものだってある。21年のわたしたちは、そのことも知っている。
<この原稿は21年3月11日付「スポーツニッポン」に掲載されています>