「レギュラーとしてもう一度勝負したい」
 橋本は2009年のオフ、大きな決断をする。15年間在籍したロッテからのFA宣言だ。前年に国内のFA権を取得した橋本は、その時も権利を行使するか迷っていた。キャッチャーというポジション柄、宣言すれば阪神や福岡ソフトバンクなどが獲得に乗り出すと報じられていた。
 不本意な横浜での2年間

 しかし、09年はバレンタイン監督の説得もあり、1年契約でチームに残留した。05年にロッテを日本一に導いた指揮官は、この年限りで退団することがシーズン前に決まっていた。
「バレンタイン抜きに僕の野球人生は語れない。その監督が最後なら、もう1年頑張ってみようという気持ちになりました」

 そしてこのオフ、今度はチームを離れる決心をする。移籍先は横浜。当時、2年連続で最下位に沈んでいたチームは尾花高夫監督を迎え、巻き返しを図っていた。その扇の要として期待されての入団だった。

 ところが――。希望を抱いた新天地は失望の連続だった。チームには、いわゆる負け犬根性がはびこり、雰囲気は弛緩していた。最も許せなかったのは、試合に向けて準備するベンチ裏の部屋が喫煙スペースになっていたことだ。
「タバコを吸うなとは言わないけど、吸う場所やタイミングを考えてほしかった。こっちが素振りをしているのに隣でタバコを吸っていたり、守備の最中に吸いに行く人がいましたから」

 何より、そのことについてフロントや監督・コーチ陣が指摘をしないのも気になった。選手とのコミュニケーションも希薄でフラストレーションは溜まる一方だった。
「バレンタインとはいろいろ衝突したことがあったけど、ちゃんと選手に声をかけて、話し合いの場を持ってくれる監督でした。選手としては“自分のことを気にかけてくれる”というのは非常にありがたいし、モチベーションになる。でも、横浜はまったく違った。これではひとつにまとまらないし、勝てるチームにはならないなと感じました」

 それでも自身がマスクを被り、バットでも引っ張れれば、まだ良かっただろう。だが、移籍1年目は4月に右肋骨を骨折して、いきなり離脱。2年目は腰痛のため、1軍でプレーすらできなかった。横浜はその間、最下位から抜け出せず、11年オフ、DeNAへ身売りされた。
「横浜には獲っていただいて感謝しているだけに、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
 チームの柱として千葉からやってきた橋本には不本意すぎる2シーズンだった。

 若手の指導経験がプラスに

 横浜から戦力外通告を受け、故郷の球団でプレーした今季、愛媛は4年ぶりの後期優勝を果たした。監督の星野おさむは、同じく入団した元NPBのベテラン右腕・河原純一とともに「練習への取り組むひとつとっても若い選手のいいお手本になった」と効果を語っていた。橋本にとっても地元での優勝はロッテ時代の日本一とは違う感慨があったという。
「僕自身のことより、若いヤツらが優勝で喜んでいる姿を見られたのがうれしかったですね」

 自身の練習の傍ら、橋本はNPBで培った技術や経験をどんどんチームに伝えていった。「キャッチャーのことはキャッチャー経験者が教えるのは一番」と、練習では若いキャッチャー陣を率先して指導した。ルーキーキャッチャーの宏誓は「キャッチングやブロッキングの仕方はもちろん、ピッチャーをどう生かすかを教えてもらった」と明かす。

「橋本さんには“そのピッチャーのいいボールを知ることが大事”と教えていただきました。“そのボールを生かすにはどうすればいいかを考えよう”と。たとえばストレートに自信があるピッチャーなら、逆に緩いボールを使うことで、より速く見せることができる。僕がマスクを被っていても、試合中にベンチでアドバイスをいただいて思い切ってリードできるようになりました」

 着実にステップアップした宏誓は橋本を上回る72試合に出場。扇の要として星野監督からも「後期優勝の陰のMVP」と評価される働きをみせた。後輩の活躍には橋本も「宏誓は、この1年でものすごくうまくなった。キャッチャーらしくなってきた」と目を細める。そして「選手への伝え方とか、ものすごく勉強になりました。指導する立場を経験できたのは今後の野球人生にプラスになる」と四国での1年間を振り返った。

 一回りも年齢の離れたアイランドリーグの選手たちとともにプレーでき、得るものは少なくなかった。「いい仲間たちと野球ができた」と橋本は感謝する。それゆえにNPBを狙う若い選手たちの姿を歯がゆく感じることもあった。
「このリーグにも能力のある選手はいますよ。飛距離が出せる選手もいれば、150キロの速球を投げる選手もいる。でも、その長所の使い方をわかっていない。練習ではできるのに、試合になるとダメという選手も多い。単に投げたり、打ったり、走ったりするだけではなく、もっと野球について深く考えて取り組んでほしいですね。まだ若いのに、もったいないなと感じることがよくあります」

 「声がかからなかったら引退」

 もちろん、橋本はまだ現役を諦めていない。シーズン通して、ほぼ万全の体で試合に出られたことでNPB復帰への手ごたえはつかんだ。懸念されていた腰も痛みはない。いよいよ勝負はNPBの合同トライアウトだ。今年は11月9日に仙台、21日に千葉・鎌ヶ谷で行われる。過去、このトライアウトを経てNPBに戻ったのはアイランドリーグでは山田秋親(福岡レッドワーブラーズ−ロッテ)の例があるのみ。再びNPBのユニホームに袖を通すための道のりは決して平坦ではない。

 このオフは、宇和島東でともにプレーしていた選手たちも大きな転機を迎えている。先輩の平井正史(中日)、後輩の岩村明憲(東北楽天)はともに所属球団から戦力外通告を受けた。高校時代、クリーンアップを組んだ宮出隆自(東京ヤクルト)は現役を引退。2軍打撃コーチに就任する。時代の流れとはいえ、愛媛の高校球界で名をはせた選手たちがトッププロのフィールドから見られなくなってしまう可能性もある。
「平井は最低あと1年、橋本は2年、岩村は3年はできる。もう一花、咲かせてほしいよね」
 宇和島東時代の上甲監督も教え子たちの復活を心から願っている。

 リーグチャンピオンシップで香川オリーブガイナーズに敗れ、故郷のユニホームを着てのシーズンは終わった。しかし、橋本は今も故郷でトライアウトへ向け、汗を流している。NPBにアピールするには、アイランドリーグ選抜の一員としてNPBの秋季教育リーグ(みやざきフェニックス・リーグ)に参加する手段もあったが、地元に残ってトライアウトに賭ける道を選択した。

「やることをすべてやって、ダメだったら仕方がない。もし、どこからも声がかからなかったら引退ということになるでしょう。海外でプレーする道も今のところは99%考えていません」
 退路は断った。見据えているのはトライアウトで最高のパフォーマンスをみせることだけだ。愛媛から始まり、愛媛に戻ってきた野球人生。その集大成を1打席、いや1球にこめる。

(おわり)
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<橋本将(はしもと・たすく)プロフィール>
 1976年5月1日、愛媛県出身。宇和島東高時代は甲子園に4度出場。3年春にはベスト8に進出する。94年のドラフト会議で千葉ロッテから3位指名を受けてキャッチャーとして入団。ケガもあって1軍に定着できない日々が続いたが、6年目の00年に77試合でマスクを被り、打撃でもプロ初本塁打を放つなど結果を残す。04年からはボビー・バレンタイン監督の下、里崎智也と併用で起用され、05年にはリーグ優勝、日本一に貢献した。10年にFA権を行使して横浜に移籍。11年は腰痛が悪化したこともあり、1軍出場がなく戦力外に。今季は地元のアイランドリーグ・愛媛でプレーした。NPBでの通算成績は実働13年、727試合、打率.234、44本塁打、229打点。アイランドリーグでの成績は63試合、打率.276、4本塁打、34打点。身長179cm、88kg。背番号10。

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(石田洋之)
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