今年、W杯が開催されるブラジルでプレーする日本人フットボーラーがいる。須藤右介、27歳。日本では名古屋グランパス、横浜FC、松本山雅FCでプレーした。JFL時代の松本では11年シーズンにキャプテンとしてJ2昇格に貢献。ポジションはボランチで、時にはセンターバックを務めることもある。須藤は12年シーズン限りで松本を退団。13年はブラジルに渡り、ベルナンブーコ州サルゲイロにある「サルゲイロAC」でプレーした。実は、須藤は13年も松本との契約が残っていた。彼は契約を自ら解除して、ブラジルに渡ったのだ。なぜ、須藤は安住の地を離れ、地球の裏側でプレーすることを選んだのか――。
(写真提供:須藤右介)
 安定よりもロマンを求めて

 12年シーズン、須藤はリーグ戦で2試合の出場にとどまった。自分では好調と感じていたが、出場機会には恵まれず、出ても出場時間は多くなかった。練習ではレギュラーと控え組は別行動となることもあり、「どうアピールすればいいんだろう」という悩みを抱えていた。
「12年はなかなか表舞台に出られないような状況でした。翌年も同じチーム体制でいくことが決まっていたので、いいプレーをしてレギュラーを掴んでやろうという気持ちもありました。しかし、正直、難しいんじゃないかな、という思いもあったんです。自分に少し自信がなかったということですね……」

 その中で須藤にはある考えも浮かんでいた。
「ある程度の歳を重ねてきた今の自分には、もっと見える世界があるんじゃないか、と思ったんです。国内で安定したお金をもらいながらプレーするのもひとつかもしれませんが、ロマンを追いかけるというか、日本と違ったところでサッカーを見て、そこで結果を残したいという気持ちになったんでしょうね」

 12年シーズン最終節が終わって間もなく、須藤は松本のGMに契約解除を申し出た。
「違う世界も見たいので、海外に行きたいんです。契約も1年残っていますけど、解除させてください」
 チームは須藤の申し出を受け入れ、彼との契約を解除した。

 同時期、須藤は契約する代理人に、海外でプレーしたいと告げていた。
「僕は南米のサッカーが好きなので、どこか南米のリーグに行きたいと思っていたんです。ちょうど、代理人も南米に強いパイプを持っている方だったので、南米のチームを探してほしいとお願いしました。すると代理人は『わかった。ちょっと当たってみるから、少し待ってくれ。でも、日本よりは格段に収入も減るし、航空代をチームが肩代わりしてくれるかどうかも交渉次第だよ』と。それから松本と契約を解除した後、1カ月ほど待っても連絡はありませんでした。さすがに不安になりましたね。『契約解除するんじゃなかったかな』って(笑)」

 翌年の1月に入ってようやく連絡が来た。紹介されたのは、ブラジルのチームだった。しかし、そのチームはブラジル全国選手権に所属していなかった。ブラジルのサッカーには主要なタイトルが3つある。ブラジル全国選手権、州リーグ、日本の天皇杯に当たるコパ・ド・ブラジルだ。全国選手権では文字通り、ブラジル全土のチームが、1部から4部のディヴィジョンに分かれて、それぞれの頂点を決める。州リーグは、同じ州内のチームで行うリーグでブラジルにある27すべての州にリーグがある。須藤が紹介されたチームは州リーグだけに参加しているため、全国選手権のように州以外の強豪と戦う機会はほとんどない。須藤は「もう少し上のレベルの環境でプレーしたい」と代理人にリクエストした。

 2月になり、再び代理人から連絡が入った。またしてもブラジルのチームを紹介された。
「『ヘルナンブーコ州のサルゲイロという街のチームだ』と言われて、州は知っていましたけど『サルゲイロってどこ?』と思いましたね(笑)。調べてみると、すごく小さな街なんですが、サッカー熱が熱いということがわかりました。ACサルゲイロの試合には、街の人々がみんな集まるんです。全国選手権にも所属していましたし、サルゲイロに行くことを決めました」
 2月20日、須藤は「ロマン」を求め、ブラジルへ飛び立った。

 未知の土地で受けた衝撃

 まず須藤はサンパウロに向かい、そこから国内線でブラジルW杯日本対コートジボワール戦の会場であるレシフェに到着した。そして、レシフェから車で7時間かけて、ようやくサルゲイロに到着した。
「なんだ、ここは?」
 時差ぼけでふらふらになった須藤が目にしたのは砂ぼこりが舞い、サボテン等の植物が点在している光景だった。道端では馬が走っていた。須藤は「いやぁ、いきなり衝撃を受けましたね」と苦笑しながら当時を振り返った。
(写真提供:須藤右介)

 また、強烈な暑さにも面食らった。サルゲイロは「セルトーン」と呼ばれるブラジルでも有数の熱帯地域だったのだ。蒸し暑さはなく、日陰に入ると涼しいが、須藤が最初に訪れた2月は、40℃近くまで上昇する日もあった。

「寒くなることはほとんどないです。パーカーを1枚持っていれば大丈夫。一番寒い時期に雨が降ると、『少し寒いな』と思ってパーカーを羽織るくらいですからね。ダウンジャケットやマフラーなどは必要ありません。常にみんなサンダル、短パンにTシャツ姿ですよ(笑)」

 環境もさることながら、年俸もまたJリーグ時代の半額と、大きなギャップがあった。

「お金のことは気にならなかったです。まあ、数字を耳にした時は、その安さに驚きはしましたけど(笑)。でも、日本から鳴り物入りで入団する選手でもなかったですからね。とりあえず向こうに行って、結果を出せば金額は上がるでしょうし、あとは他のチームのスカウトに見てもらえるチャンスがすごくたくさんある。別のチームのスカウトの目に留まるくらい、そして年俸が上がるくらいのパフォーマンスを見せればいいと思っていました」

 未知なる大地で、須藤の新たな挑戦が始まった。

 日本サッカーにはない表現

 就労ビザ取得や他の手続きに時間を要するため、最初の3カ月は公式戦に出場できないことはわかっていた。須藤はその間に、ブラジルの文化・サッカーを観察し、順応しようと心掛けた。
「日本とはサッカーのスタイルも違うし、当然、言葉も異なりますからね。ブラジルではどういうプレーが好まれて、逆にダメなのか。日本との違いを見極めて、吸収しようと考えました」
(写真提供:須藤右介)

 ブラジルの公用語はポルトガル語である。須藤は事前に生活に必要なレベルの言葉を話すことはできるようにしていた。だが、現地に着いてみると、まず相手の言葉を聞きとることに苦労した。それでも何とか理解しようと心掛けたことで、徐々に言葉の問題は解消されていった。理解の早さに、周囲からは「日本人は頭がいいんだな」と感心されたという。

 また、須藤は日本とブラジルでは使われているサッカー用語に違いがあることにも関心を抱いた。たとえば、「マノン(Man on)」。これは日本では、味方選手がパスを受ける時に、死角から敵にプレッシャーをかけられている状況で周囲が「敵が来ているぞ」と注意を促す時の言葉だ。これがブラジルでは「ラドロン(Ladrao)」と言われている。ラドロンの意味は「泥棒」だ。
「つまり、『お前の持っているボールを盗みに泥棒が来ている』ということなんでしょうね。同じ状況では、『オーメ(Homen)』と言う選手もいました。オーメは『人間』という意味、日本語にしたら『人間! 人間!』と連呼しているわけですよ。これは『近くに(他の)人間がいるぞ』という意味合いで使っていたんです。他にも日本にはない表現があるので、すごく新鮮でしたね」

 だが、表現の違いには面食らうこともあった。須藤は当初、チームメイトから「ジャポン」という愛称で呼ばれていた。言うまでもなく「日本」という意味である。
「選手たちは『日本人だから日本って言っているんだよ』と特に何も意識はしていないんですよ。でも僕には名前があるし、『仲間として認めてられてないんじゃないか』という気持ちもありました。ですから、とりあえず名前を覚えさせてやろうと必死に『ジャポンじゃない』と否定していたら『なんだ、ジャポンと言われるのが嫌なのか?』とある選手に聞かれたんです。『好きではないよ。ジャポンって国名だぜ。じゃあ、俺は君たちのことを“ブラジル”と呼ばなきゃいけないのか』と言って、ようやく『ああ、確かにそうだな』と理解してくれました(笑)」

 また、須藤は“名前問題”の中で、日本人とブラジル人の性格的な違いも感じたという。
「日本人は馬鹿にされたら真面目に返す人が多いと思うんです。少なくとも僕はそういうタイプでした。でも、ブラジルではそれを軽く受け流す、もしくは言われた以上の言葉を返すんです」
 その違いをはっきり感じとれた出来事があった。ある日、須藤と数人の選手たちはウォーミングアップの一環で、ボール回しを行っていた。すると、ひとりの選手が須藤に「おい、ジャポン」と話しかけた。そこで須藤はこう返した。

「なぁ、ジャポンって国のことだぜ。意味、知っているのか?」
 言い返された選手は、返す言葉に困り、苦笑を浮かべるしかなかった。それを見ていたチームメイトは「須藤、もっと言え!」と腹を抱えながら笑っていた。

「周囲の反応を見て、ブラジル人たちの文化はこういうことなんだなと。怒って言い返すのではなく、少しいなしたように返す。それで周囲は盛り上がるし、当事者同士も気まずくなるというよりも、逆にコミュニケーションがどんどん深まっていくんです」
 郷に入りては郷に従え、ということか。

 こうして須藤自身は着実にブラジルの文化に順応していった。しかし、その一方で須藤はあるトラブルにも見舞われていた。チームに合流して3カ月が経過しても、彼の選手登録は完了していなかったのだ。

<須藤右介(すどう・ゆうすけ)>
1986年5月7日生まれ、東京都出身。ヴェルディユース―名古屋―横浜FC―松本山雅―サルゲイロAC。05年、ヴェルディトップチームには昇格せず、名古屋に入団。08年に移籍した横浜FCでは09年シーズンは29試合に出場した。10年、当時JFLに所属していた松本山雅に加入。11年シーズンはキャプテンとして30試合に出場し、J2昇格に貢献した。12年シーズン限りで松本山雅を退団し、13年にブラジルへ。同年7月、サルゲイロACに入団。サルゲイロではコパ・ド・ブラジルでインテルナシオナルとの対戦を経験している。身長182センチ、78キロ。ポジションはMF。

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(文・鈴木友多)