2020年東京オリンピック・パラリンピックまで140日を切った。1964年東京パラリンピックでは赤十字語学奉仕団が通訳ボランティアとして活躍した。そのOB・OGは、<障がいのある人に対する偏見のない心をレガシーとして後世に残すため>、2018年に「一般社団法人64語学奉仕団のレガシーを伝える会」を設立した。代表理事である吉田紗栄子氏は1964年大会でイタリア選手団の通訳ボランティアを務めた。現在は「NPO法人高齢社会の住まいをつくる会」の理事長を兼ねており、一級建築士でバリアフリー建築の先駆者だ。1964年東京パラリンピックを経験した吉田氏が願うバリアのない社会とは――。その思いを訊いた。

 

伊藤数子 吉田さんは1964年の東京オリンピックやパラリンピックに通訳やボランティアとして参加されました。それぞれどのようにして関わられたのでしょうか?

吉田紗栄子: 1964年のオリンピックとパラリンピックは同じ通訳でも関わり方が違いました。オリンピックは駒沢競技場の陸上ホッケー会場に配属され、英語通訳を担当しました。パラリンピックは友人から「障がい者のオリンピックのボランティアをしない?」と誘われ、引き受けました。パラリンピックではイタリア選手団の通訳ボランティア担当になったんです。

 

二宮清純: イタリアと縁があったのでしょうか?

吉田: はい。1960年のローマオリンピックは現地に住んでいたので、開会式や競技も観戦しました。

 

二宮: アベベ・ベキラ選手が"裸足"で走り、金メダルを獲った大会ですね。

吉田: ええ。父がローマに赴任していたこともあり、私は高校を1年休学するかたちで現地に住んでいました。実はホッケーにも縁があり、ローマ大会で我が家はホッケーの日本代表チームに差し入れをしたり、自宅に招いて日本食を振る舞うなど交流があったんです。4年後の東京オリンピックでは、その時の役員の方や選手の方々にまたお会いすることもできました。

 

二宮: 当時は「国際ストーク・マンデビル競技大会」という名称で開催されていましたが、ローマ大会が第1回パラリンピックと位置付けられています。

吉田: それまで私は障がいのある人の国際スポーツ大会の存在を全く知りませんでした。ある時、知人に「オリンピックの後には障がいのある人のオリンピックがあるのよ」と教えていただいたんです。残念ながらローマでは直接会場で観ることはかないませんでしたが、今でいうパラリンピックを知ったきっかけでした。

 

 一生の仕事

 

伊藤: 一口に通訳と言っても、言葉を訳す以外にも様々な役割を担ったと想像できます。

吉田: そうですね。東京パラリンピックでは選手が「まちに行きたい」と言えば、車の手配や案内もしました。それに加え、ベッドメイキングから食事のサポートなど必要なことは全部やりましたね。

 

二宮: 吉田さんは自身がサポートしたイタリア選手団を「非常に明るく、日本人選手との違いに驚いた」とおっしゃっていましたね。

吉田: はい。それに聞けば、彼らは健常者と変わらぬような生活をしているというんです。私が抱いていた障がいのある人のイメージとは全然違いましたね。

 

二宮: そうしたパラリンピックでの経験がきっかけでバリアフリー建築に興味を持たれたのでしょうか?

吉田: そうですね。元々、大学で建築を学んでいました。私は当時大学3年で卒業論文のテーマは既に「北欧と日本のデザインの共通性」に決めていたんです。ところが、パラリンピック開催前の光景を目の当たりにしたことで大きく変わってしまったんです。

 

二宮: と言いますと?

吉田: 自衛隊の人たちが選手村のバリアフリー工事を行っていたんです。選手村敷地内の建物は入口に辿り着くまでに階段がある構造でした。そこで車椅子を利用する選手のためにスロープを取り付けたんです。他にも室内で幅が足りないところがあれば扉を取り払っていました。その時に障がいのある人のための建築を知り、驚きました。パラリンピックをきっかけにバリアフリー建築に興味を持ち、卒論のテーマを「車椅子利用者のための設計」に変えました。

 

二宮: それほど人生を変える出会いだったんですね。

吉田: ええ。私の座右の銘はパラリンピックの父と呼ばれるルートヴィヒ・グットマン博士が残した「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」という言葉です。パラリンピックを経験し、バリアフリー建築の重要性を知りました。建築の道に進み、それが一生の仕事になっていますから、本当に大きな出会いでした。今もその言葉は大事にしています。

 

(後編につづく)

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吉田紗栄子(よしだ・さえこ)プロフィール>
一般社団法人64語学奉仕団のレガシーを伝える会代表理事。1943年、東京都出身。日本女子大学家政学部在学中の1964年東京オリンピック・パラリンピックで通訳を担当。日本赤十字語奉仕団のメンバーとしてイタリア選手団付き語学ボランティアを務める。1966年に日本女子大学卒業。以後、障がいのある人々や高齢者の住環境設計を手掛ける。バリアフリー建築の先駆者として、「住まいのリフォームコンクール」高齢者・障害者部門優秀賞など数々の賞を受賞した。2001年にNPO法人高齢社会の住まいをつくる会の理事長に就任。2018年に一般社団法人64語学奉仕団のレガシーを伝える会を設立し、代表理事を務める。現在は有限会社ケアリングデザイン一級建築士事務所の代表も務めている。


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