「勝たなきゃいけない試合。でも、ここがゴールじゃない。それ以上を求めていました」
 男子史上初の全日本ラクロス選手権5連覇を成し遂げたFALCONSのMF長谷川玄はそう言い切った。元来はお調子者。勝利に沸き、はしゃいでもおかしくはない。試合終了の笛が鳴り、優勝が決定した瞬間、長谷川は淡々とヘルメットを脱いだ。決して、うれしくないわけではない。ただ、目先の勝利だけではなく見据える未来がある。

 長谷川には、隼のようなスピードも、ロケットのようなシュート力もない。それでもここぞの決定力、的確なポジショニングなど、キラリとセンスが光る。冷静なゲームメイクで中盤を支配した彼の存在感は学生王者・慶應義塾大学との決勝でも際立っていた。第1Q、残り1分でFALCONS1点リードの場面。ゴール前でボールを持った長谷川は、わずかに空いたスキを見逃さなかった。対峙した相手DFに近付くと、反転して、スルリとかわす。クロスを振り下ろし、放ったシュートはゴール左に突き刺さった。長谷川は得点のシーンの前から、2本のミドルシュートを放ち、相手DFのチェックに探りを入れていた。冷静な視野からQの終了間際の効果的な得点が生まれた。

 さらに彼のポジショニングの良さは、20年以上、ラクロスの試合を撮り続けているカメラマンの海藤秀満の証言が、それを物語っている。
「派手なプレーをする選手は他にたくさんいる。だけど、彼は自然とファインダーの中に入ってくるんです」

 MFという“天職”

 長谷川がラクロスに出合ったのは、日本体育大学に入学してからだ。それまではラクロスという競技を知らなかったが、仮入部する友人について行ったのがきっかけだった。男子のラクロスはアルミニウム製のスティック(クロス)を手に持ち、ヘルメットやグローブなどの防具を着用する。トップ選手のシュートは時速160キロを超えることから、“地上最速の格闘球技”と呼ばれている。長谷川はすぐに、展開がスピーディーで、激しいラクロスの虜になった。

 長谷川が自ら「一番楽しいポジション」と語るMFはボールを奪ったら、前線基地で構えているAT(アタッカー)につなぎ、自らも敵陣へと侵入する。いざピンチとなれば自陣に戻り、DFを助ける。攻守両面で多くプレーに関わることができる。だから彼には「MFが試合をコントロールする」という自負がある。
「それこそATがやりたいことも、DFがやりたいこともできる。この両方をできる、おいしいポジションだと思います」

 日本代表の大久保宜浩ヘッドコーチ(HC)はMFとしての長谷川をこう評価している。
「何でもこなせる万能型。まわりを生かせるし、まわりと絡める。HCとしては使いやすい選手ですね」

 いわばラクロスにとって、核となるポジションであるMF。“天職”を見つけた長谷川は、そこから着々と力をつけ、日本のトッププレイヤーとなったのだ。

 がむしゃらに掴みとった“日の丸”

 2006年のシーズンに、長谷川は初のW杯を経験した。その頃、すでにU-21の代表の大会を2度経験していた長谷川だったが、フル代表では代表予備軍という位置づけだった。関東地区の選抜として、練習をしていると、代表の関係者に声をかけられた。
「今度代表の練習会に来い。ただし練習生としてな」。長谷川はてっきり人数合わせで呼ばれているものだと思っていた。

 ところが、当時の深澤哲雄日本代表HCは長谷川にこう告げたのだ。
「ここに入った以上、オマエも選考に入ってるからな」
 それまでは、10年のW杯出場を思い描いていた長谷川だが、その言葉を機に、頭の中の数字は「10」から「06」に書き換えられた。“(06年W杯日本代表に)絶対になってやる”と、長谷川の闘志に火がついたのた。

 ただ現実は厳しいものだった。日体大では中心選手だったとはいえ、代表においては“新入り”に過ぎない。代表の志向するスタイル、チームの決まりごとなど、それを追いかけるだけで精一杯だった。先輩から「何やってるんだ、オマエ!」などと叱られたことも一度や二度ではなかった。ミーティングで「君の代わりはいくらでもいる」と面と向かって言われたこともある。

 当時を振り返って、「この頃が一番きつかった」と苦笑する。それでも歯を食いしばり、必死についていった。持ち前の運動能力をいかし、ランニング系のトレーニングではチームNo.1になった。がむしゃらに突き進み、日の丸のユニホームを勝ち取った。

 そしてW杯の舞台、カナダ・ロンドンへと乗り込んだ日本だったが、世界の壁に打ちのめされる結果となった。前回の5位により、トップシードのブルーディビジョンに入った日本は、同組のカナダ、オーストラリア、イラコイナショナルズ(アメリカとカナダの先住民族による部族連邦)、イングランド、アメリカに5連敗を喫したのだ。
 順位決定戦に進むためのプレイ・イン・ゲームでアイルランドに勝利し、なんとか全敗は免れた。しかし、5位決定戦ではイングランドに再び敗れ、日本は6位に終わった。

 悔し涙と、ひとつの決意

 翌年、長谷川は大学を卒業し、クラブチームのFALCONSに入団。教員として勤務する傍ら、練習をこなし順調に力をつけていた。2年目の08年には主力として、全日本選手権初優勝に貢献。自身としても初の日本一を経験した。翌09年には、全日本選手権の決勝では3得点をあげる活躍で連覇を達成し、MVPを獲得。さらにその年に日本代表HCに復帰した大久保から主将に任命されるなど、日本ラクロス界の中心的存在となっていった。

 10年、イングランド・マンチェスターで行なわれたW杯では、日本は3位を目標に掲げていた。前回大会は6位だったため、今回もブルーディビジョンに入った。初戦の前回王者のカナダには4−17で敗れた。ドイツに勝利するが、イングランドには延長戦の末、惜敗した。第4戦に負けると、準決勝へ進むためのプレイ・イン・ゲーム進出の可能性はほぼ絶たれる。その対戦相手は、前回3位のオーストラリアだった。

 準優勝を4度経験しているオーストラリアは、ラクロスの歴史が130年以上もある伝統国だ。その5分の1にもみたない歴史の日本が、11−9で勝利し、ジャイアントキリング(番狂わせ)を起こす。長谷川は2得点の大活躍を見せた。第1Qに先制点を決め、均衡状態が続いた第2Qでは両チーム唯一の得点を奪い、価値あるゴールで勝利をもたらしたのだ。

 ディビジョン最後のアメリカ戦では敗れ、2勝3敗でブルーディビジョンの3位となった。プレイ・イン・ゲームではオランダに勝利し、初の準決勝進出を果たした。ただ準決勝はアメリカに5−20の大敗。長谷川の記憶では、守備の機会がほとんどで、チャンスは数回あった程度だったという完敗だった。

 試合直後は、“負けたか……”というぐらいの感想だった。しかし、ストレッチをしながら、頭に浮かんだのは“今日は何もしてないな”という屈辱的な思いだった。すると、せきを切ったように感情が溢れ出てきた。長谷川は子供のように泣きじゃくった。
「まわりは誰ひとり泣いていなかったんですけど、ひとりでずっと泣いていました」

 続く3位決定戦ではオーストラリアに屈した。日本は目標の表彰台にあと一歩届かなかった。大会を振り返れば、過去最高の順位に、オーストラリアからの初勝利と、日本の躍進は明らかだった。だが、本当の強さを手にしたとはいい難い。順位決定戦ではオーストラリアに、勝てなかった。加えて、大会直前にイラコイが出場を辞退しているなど、運もあった。大久保HCも「(ディビジョンでの)オーストラリア戦も、弱者としての勝利。本当の4位とは言えない」と厳しかった。そして長谷川の胸には世界トップのアメリカやカナダと勝負ができなかったという悔しさが残っていた。そして、その悔しさが長谷川を動かした。

「このまま日本に閉じこもっていても、ダメだ」
 大会が終わったその日、長谷川は日本を出ることを決意した。

 豪州での武者修行

 他国の選手や、海外に行った日本人から情報を踏まえた上で、行く先はオーストラリアに決めた。クラブチームがしっかりと根付いており、クラブハウスやグラウンドがあるなど環境面が整っていたのも魅力だった。現地でプレーする女子プロラクロスプレーヤーの山田幸代の協力の下、ステイトリーグ(国内リーグ)3連覇中のウィリアムズタウンへの移籍が決まった。ウィリアムズタウンでは毎週土曜日に試合があり、2日前の木曜日に毎回、出場選手発表が行なわれた。日本では当たり前のようにレギュラーで試合に出ていた長谷川も、セレクションである毎回の練習でアピールしなければならなかった。

 長谷川は開幕からトップチームに帯同し、10試合に出場を果たした。ただし課題も浮き彫りになった。得点はわずかに1。11試合目になると、2軍にあたるディビジョン1に降格した。コーチからは「オマエはシュート力がない。点をとれるように、下でそこを養ってこい」と言われた。

 ディビジョン1では9試合で20得点をマークする活躍を見せたが、最後までトップ昇格は叶わなかった。「強いチームでもまれたかったので、悔しいですけど、この経験が今に、つながってはいるのかなとは思います」と、長谷川はこの経験を前向きにとらえている。

 チームからは残留要請もあった。他のチームからの勧誘もあったという。「すごくうれしくて残りたい気持ちも確かにあった」が、“武者修行”は1年という区切りと決めていた。それは自分が経験したものを日本代表や国内のラクロスに落とし込み、14年のW杯を迎えたかったからだ。

 MWCで変わった周囲の反応

 オーストラリアから帰国後、長谷川はFALCONSに復帰した。母校・日体大のHCを務めながら、選手として技術を磨いていた。そんな中、「第2回マルハンワールドチャレンジャーズ」(MWC)に応募したのは、マイナースポーツであるラクロスの環境を変えたいとの思いがあった。

「個人ベースで考えれば“ラクロスがうまくなりたい”というのが一番です。ただ、自分だけが頑張っても、まわりや環境が変わっていかなかったら、ひとりで突っ走っているだけになってしまう」

 この環境を変えることは、トップ選手の使命だと感じていた。自分で積んできた経験をいかし、普及活動につなげていければと考えた。
「ラクロスをやっている人だけで集まって頑張るのではなく、ラクロスを知らない人にラクロスを知ってもらわないと、それ以上がないと思いました」

 MWCでは、最終オーディションの14名に残り協賛金50万円を獲得した。得た物は資金だけではなかった。ラクロス以外の競技でも、同じような思いを抱える選手たちに出会った。“ただラクロスをやっていればいい”というだけではいけない。その思いを一層強くしたのだった。

 そしてMWCの波及効果はすぐに現れた。新聞やインターネットなどのメディアで取り上げられたことで、周囲の反応が明らかに変わった。それまではブログやSNSで試合の予定を報告すると、友人や読者から「頑張って」「見に行けたら行くわ」といった程度だったのが、MWC後は「どんな試合するの?」「どんな相手とするの?」と訊ねられるようになった。
「微妙なところかもしれないですけど、今までだったら試合の詳細についてまで聞かれなかった。そういうリアクションが出てきたことは、変わった部分なのかなと。オーディションの結果がどうであれ、残したものは大きかったと感じました」

 “見る”側から“見られる”存在に

 普及活動のためには、自身の発信力を高めなくてはならない。アスリートとして結果を残し、目立つような存在にならなければ、その影響力は期待できないだろう。

 まず求められるのは、14年にアメリカ・デンバーで行われるW杯での好成績だ。日本はイングランドで届かなった表彰台を狙う。そのライバルは、オーストラリア、イラコイ、イングランドだ。オーストラリアには1勝。イラコイにいたっては、未だ勝利はない。それでも長谷川は「やるからにはトップを目指さないと意味がない」と鼻息を荒くする。ライバルにギリギリで勝つのではなく、普通にやることをやって勝つ。そして2強のアメリカ、カナダに真っ向勝負をしたいとの思いがある。

 前回大会では悔しい思いをした。W杯の閉会式は上位3カ国・地域のみがグラウンドに出て表彰される。結局、アメリカ、カナダ、オーストラリアの3カ国がそこには立っていた。チームメイトとともに長谷川は観客席でそれを観ていた。
「やはりあそこに立ちたいという思いは強いです。オリンピックみたいに表彰台に立つわけではないんですけど、見られている側と、見ている側というのは全然違うんです」

 高校時代の夢は、「大物になる」。目立ちたがり屋な長谷川らしいが、それを実現することでラクロス界を変えることに繋がっていくだろう。そのためには世界の耳目を集めるような存在にならなくてはならない。ラクロスを背負ったひとりのプレーヤー。彼が辿り着く先を、刮目せよ。

(おわり)

(次回はラート・堀口文選手を紹介します。3月20日更新予定です)


長谷川玄(はせがわ・げん)プロフィール>
1984年10月28日、神奈川県生まれ。小中高は野球、バスケットボール、陸上競技を経験する。日本体育大に入学後、ラクロスを始める。2006年、大学4年生でW杯初出場。カナダ・ロンドン大会で全7試合に出場し、2得点をあげる。大学卒業後にクラブチームFALCONSに入団。08年に全日本選手権で初優勝を経験。翌09年はMVPの活躍で連覇に貢献した。10年にはW杯イングランド・マンチェスター大会で、4得点の活躍を見せるなど、主将としてチームを牽引し、過去最高の4位入賞に貢献した。11年にはオーストラリアへと渡り、ステイトリーグ強豪のウィリアムズタウンでプレーした。帰国後、12年にFALCONSに復帰すると、全日本選手権男子史上初の5連覇達成に貢献する。ポジションはMF。173センチ。
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『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(2012年8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(杉浦泰介)
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