「地獄でした……」

 そう多田羅英花が振り返るのは5年前の出来事だ。彼女はインドネシアのパレンバンでリオデジャネイロオリンピックの出場権をかけたアジア選手権大会に臨むはずだった。

 

 しかし、現地で多田羅に待っていたのは他の日本代表をサポートする役回り。レースに挑むことすら許されなかったのだ。大会期間中は帰国することもできず、朝早く起きておにぎりを握る日々を送った。気持ちを切り替えることなどできなかった。日本にいる母親には泣きながら電話をした。現在もメンバーから外された理由を直接聞けていない。それほどまでに多田羅のショックは大きかった。

 

 多田羅の気持ちは切れていた。「“もう引退しよう”と思い、日本に帰ってきました」。帰国から間もなくして、壮行会を開いてもらった母校の武庫川女子大学へ挨拶に出向いた。大学には「今後のことは時間を置いて決めようと思います」と報告したものの、胸の内は“現役引退”に大きく傾いていた。

 

 大学時代に指導を受けたカヌー部の橋本千晶コーチには直接挨拶をした。

「ダメでした……。もうカヌーはいいです。辞めようと思っています」

 それを聞いた橋本コーチからは諭すような語り口で、こう返ってきた。

 

「逃げちゃダメや」

 

 思わず多田羅はハッとした。

「私は大学に入ってから伸びた選手。そのきっかけをくださった橋本コーチの言葉は胸に響きました」

 自然と涙が溢れてきた。それで悔しさが洗い流されたわけではないが、一度は消えかけたカヌーへの思いが再燃したのだった。

 

 2016年のリオオリンピックに出場できた日本代表はスラロームの5人のみ。多田羅と同じスプリントからは1人も出場権を得ることができなかった。地球の裏側で行われたオリンピックで日本のカヌー界を変える快挙を成し遂げた。スラローム男子カナディアンシングルで羽根田卓也が銅メダルを獲得したのだ。

「羽根田さんはクールな印象の方でしたので、周りの目を気にせず涙を流されている姿に驚きました。“それくらい、覚悟を持って挑まれたんだな”と思いましたし、“どれだけの壁を乗り越えてこられたんだろう”とも考えました」

 

 種目は違えど、同じカヌー選手として多田羅が刺激を受けないはずがない。どれだけの壁を乗り越えるのか――。それは彼女自身に向けられたテーマとも言えるのかもしれない。

 

 揺らいだ気持ち

 

 日本カヌー界が沸いたリオオリンピックから2年後、4年に1度のアジア競技大会がインドネシアのジャカルタとパレンバンで行われた。多田羅は日の丸を背負い、女子カヤックペア500mに小野祐佳(秋田県体育協会)と共に出場した。カヌー競技の開催地パレンバンは奇しくもリオオリンピックアジア最終予選と同じ場所だった。

「アジア大会が、リオオリンピック最終予選の地と知った時は、嫌でもあの出来事は思い浮かびました。インドネシアに到着して選手村に入ってからも、“あの部屋で選手変更を発表されたな”“あ、あのベンチに座ってお母さんに泣きながら電話したな”と、たくさん思い出しました」

 

 ここは彼女が越えなければならない壁のひとつだった。多田羅と小野のペアは見事3位に入り、銅メダルを獲得。多田羅は国際大会で初めて表彰台に立った。

「アジア大会は、本当に必死でした。“ペアを組んで下さった先輩の足を引っ張ってはいけない”。その思いだけでした。ペアでの出場が決まってからは、毎日緊張で胃が痛くて、レース前日は“明日のレース、腕がちぎれてもいい。ゴールして死んでもいい。でもメダルだけは絶対”と考えるうちに朝になっていました。ゴール後のことは、実は良く覚えていません。ただずっと涙が止まらなくて、“ちゃんと頑張ればできないことなんてないんだ”と思いました」

 

 翌年、ハンガリーのセゲドで行われた世界選手権はカヤックフォア500mのみの出場となった。この大会でB決勝1位以上またはアジア最上位で、オリンピック内定を得られたが、多田羅らはB決勝5位に終わった。

「大会前はもちろん、オリンピック枠を勝ち取ることを目標に挑みました。世界選手権で内定は勝ち取れませんでしたが、ここで私の挑戦が終わるわけではないので、“次はアジア!”と気持ちを切り替えました」

 気持ちを切らすことなく、視線は前を向いていた。

 

 そして今年3月の香川・府中湖での日本代表選考会は女子カヤックシングル500mで1位となった。ライバルに100分の3秒差で競り勝ち、東京オリンピックアジア予選を兼ねたアジア選手権(タイ)への切符を手にした。地元の香川でのレース。多田羅の関係者も応援に来ていた。「勝てたこともうれしかったですが、お世話になった皆さんの前でいいレースをできたことがうれしかったです」。レース前は“勝てるのか”という不安に苛まれ、ウォーミングアップの記憶がないほど緊張していた。それだけにホッと胸をなでおろしたはずだ。

 

 しかし、レース後、多田羅の耳にはこんな声が聞こえてきたという。

「多田羅でいいのか?」

 選考会で1位に入ったにも関わらずだ。「最初はダメージが大きくて泣きました」。彼女が受けたショックは計り知れない。気持ちは後ろ向きになりかけた。

 

 恩返しの舞台

 

 選考会後、悩みを抱えたまま参加した鹿児島の伊佐合宿で、日本代表スタッフの枦木駿氏からこう言葉をかけられた。

 

「自分を信じてあげられるのは自分しかいない」

 

 枦木氏の言葉は今も多田羅の心の支えとなっている。「つらい時には自分に言い聞かせています」。新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京オリンピック、同アジア予選も1年延期となった。代表コーチが母国に帰るなどの事情もあり、今年は枦木氏から技術面の指導を受け、フォーム改良にも取り組んだ。フォームについては、昨年12月の伊佐合宿に現地スタッフとして参加していた枦木氏から既に指摘を受けていた。「ポイントを少し教えてもらったぐらい。その少しだけでも良くなっている感覚がありました」と多田羅は当時を振り返る。

 

「パドルを頑張って漕いでいればスピードに繋がると思っていたんです。ただガムシャラに漕いでいた感じでした」

 言い換えれば、力任せに水面を叩くようなフォームを、より効率良く推進力に繋げられるものに変えたのだ。口にするのは簡単だが、15年でつくりあげたフォームのテコ入れは容易ではなかったはずだ。それでも自らの可能性を信じ、更なる壁を越えるために選択した。

 

 9月の石川・小松市の木場潟カヌー競技場で行われた日本選手権は、新フォームを試す格好の場であり、「多田羅でいいのか?」という声を封じ込めるためにも優勝が必要だった。女子カヤックシングル500m。スタートから勢いよく飛び出した多田羅はロンドンオリンピック代表の大村朱澄(城北信用金庫)の追い上げを振り切り、優勝した。

「3月は枦木さんに教わったテクニックを“これかな”と不確かな状態でなんとか勝てた。半年後の日本選手権は自信を持って臨めました」

 

 東京オリンピック同様に1年延期となっていた来年3月のアジア予選で優勝すれば、文句無しの代表内定となる。多田羅のカヤックシングル500mのベストタイムは1分55秒台。まずはアジア制覇のため、約3秒の短縮を目指している。フォームは完成形に達したわけではない。「今取り組んでいるテクニックを無意識レベルで究めたい」と、合宿などで試行錯誤の日々が続いている。

 

 波のある競技人生だった。幾度も心が折れかけたことがある。そのたびに周囲の支えを受け、壁を乗り越えてきた。

「両親やこれまで私を指導してくださった先生やコーチ、いろいろな方々のサポートがあって今の私がいる」

 だから多田羅は感謝の思いを忘れない。

 

 恩返しの舞台となるのは、彼女が集大成と位置付けている東京オリンピックだ。

「オリンピックへの挑戦は東京が最後になると思います。自分が納得するかたちで終えたい。私は人に恵まれてきました。お世話になった人たちに、私がオリンピックに出て、日の丸を背負って戦う姿を見てもらいたい。今は東京オリンピックの決勝に出ることが目標です。日本開催なので恥ずかしいレースはできません」

 今は前しか見ない。壁を越えられることを信じ、ひたすら前へ進むのみだ。

 

(おわり)

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多田羅英花(たたら・ひでか)プロフィール>

1992年9月2日、香川県坂出市生まれ。中学からカヌーを始める。白峰中3年時に全国優勝。高瀬高3年時でジュニアの日本代表、武庫川女子大学2年からはシニアの日本代表に選ばれている。大学3、4年時には全日本大学選手権で複数種目を制し、2年連続MVPを獲得した。18年にインドネシア・ジャカルタでのアジア競技大会カヤックペアで銅メダルに輝いた。今年3月の国内代表選考でカヤックシングルで1位に入り、東京オリンピックの出場権をかけたアジア予選の代表入りを果たした。9月の日本選手権では同種目で初優勝。身長158cm。

 

(文/杉浦泰介、写真/本人提供)

 

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