是枝亮(北翔大学スポーツエアロビック部)<前編>「新境地へ踏み出した一歩」

 2013年5月、ブルガリアの地で是枝亮は、これまで一度も経験したことのない感覚を味わっていた――。  今年、是枝は初めてシニアの男子シングル部門でのFIGワールドカップに参戦した。4月の東京大会に続いて出場したのが、シングルでは初の海外となったポルトガル大会。是枝はそこで銅メダルを獲得した。さらにその1週間後のブルガリア大会では銀メダルに輝く。FIGワールドカップで2大会連続でのメダル獲得は、日本人男子初の快挙だった。だが、結果以上に是枝にとって大きかったのは、ブルガリアの決勝でつかんだ“自信”と“手応え”だった。

第15回 中村一知(巨人・グラウンドキーパー)<前編>「プロの原点を支える」

 現在、セ・リーグの首位を独走し、連覇を狙う巨人には、阿部慎之助、坂本勇人、長野久義、内海哲也、澤村拓一、山口鉄也……と、日本を代表するメンバーがズラリと顔をそろえる。そんな彼らもまた、プロ入り後のスタート地点は「ジャイアンツ球場」だった。1月の新人合同自主トレーニングでは、ドラフト1位から育成選手まで、全員がジャイアンツ球場で同じメニューをこなす。つまり、巨人生え抜き選手にとって、そこは原点でもある。そのジャイアンツ球場の整備・管理をしているのがグラウンドキーパーだ。今回は、一軍を目指して汗を流す選手たちを陰で支えるグラウンドキーパーに迫る。

浦野博司(セガサミー野球部)<後編>「グラブに込められたプロへの思い

 浦野博司が野球を始めたのは小学3年の時。地元のスポーツ少年団に入った。きっかけは偶然が重なったものだった。浦野には2歳上の兄がいる。その兄に浦野はいつもライバル心を燃やしていた。サッカーチームに入っていた兄は、弟から見ても巧かった。「サッカーでは勝てない」。幼心にそう悟った浦野は、兄とは違うスポーツをやろうと思った。そこで祖父が勧めた陸上への道を考えていたという。一方、父親は息子に野球チームに入るよう促していた。

第14回 ニッタク(日本卓球)<後編>「試行錯誤の先にある光」

 4年前、日本卓球(ニッタク)のラバー開発・提供が、ある男子選手の復活を後押しした。選手の名は張一博。中国・上海出身で、高校時代に来日し、2008年に日本国籍を取得している。日本代表として世界選手権にも出場するなど、日本男子卓球界を牽引する選手のひとりだ。張が08年に帰化したのは、日本代表になりたいという強い思いがあったからだ。だが、彼はその頃、ある課題にぶつかっていた。それがラバーだった。

浦野博司(セガサミー野球部)<前編>「消えかかったプロへの灯」

「よし、今日はいける」。セガサミー野球部のエース浦野博司は、マウンド上で静かに自らのピッチングへの手応えを感じていた。  6月2日、第84回都市対抗野球大会東京都2次予選・第2代表決定戦。この試合に勝てば、セガサミーの都市対抗本戦出場が決まる大事な一戦だった。相手は今年のドラフト上位候補の吉田一将擁するJR東日本。同じくドラフト上位候補の浦野とのエース対決は、プロ6球団のスカウトが視察に訪れるほど高い注目を浴びた。そんな中、浦野は初回の先頭打者を三振に切ってとった。4日前とは違う自分を浦野は感じていた。

第13回 ニッタク(日本卓球)<前編>「『佳純ベーシック』で世界の8強」

 2012年ロンドン五輪、日本卓球界に新たな歴史が刻まれた。団体女子で日本チームが決勝進出を果たし、銀メダルに輝いたのだ。男女合わせて史上初のメダル獲得が決定した準決勝のシンガポール戦、最後のダブルスでのマッチポイントで相手サーブのリターンエースを決めたのは、チーム最年少の石川佳純だった。石川は個人シングルスでもベスト4に進出するという快挙を成し遂げた。今回はその石川をはじめ、国内のみならず世界の卓球界を陰で支えている企業のひとつ、日本卓球(ニッタク)の用具開発に迫る。

長岡萌映子(富士通レッドウェーブ)<後編>「好プレーを生み出す“逃げない強さ”」

インタビュー中、19歳とはおよそ想像がつかないほどの落ち着きぶりを見せていた長岡萌映子。ほとんど表情を崩さなかった彼女が、一度だけ感情を表に出した時があった。彼女が今でも尊敬してやまない恩師の話に及んだ時だった。札幌山の手時代のコーチである上島正光だ。高校3年間、叱られたことは数えきれないほどあるが、褒められた記憶は皆無に等しい。だが、そんな上島に長岡は一度だけ握手を求められたことがあった。

第12回 伊東裕樹(サービスマン)<後編>「ソチへの期待――佐々木の成長とライバル出現」

 伊東裕樹が佐々木明を担当し始めたのは、佐々木が大学1年の頃だ。それから13年。今でもなお、伊東は佐々木明というスキーヤーに惚れ込んでいる。 「明はね、フリースキーがとても巧いんですよ。競技者なんだから当然だと思うかもしれませんが、フリースキーって意外に難しくて、きれいに滑れる人ってなかなかいないものなんですよ。でも、明はゴムのように柔らかくて、それでいて滑りが大きく見える。パッと見てかっこいいな、と思えるんです」  日本人離れした優雅でダイナミックな佐々木の滑りに、伊東は日本人初の五輪でのメダルの夢を本気で追い続けてきた。そして今も――。

長岡萌映子(富士通レッドウェーブ)<前編>「さらなる高みを目指して」

 高校2年時にはインターハイ、国民体育大会、ウインターカップの三冠を達成。翌年には17歳で日本代表入りし、ロンドン五輪アジア最終予選に出場。同年、ウインターカップで連覇達成――長岡萌映子は、これまで数々の栄光を手にしてきた。将来は日本の女子バスケットボール界を背負って立つ存在として、大きな期待が寄せられている。実業団1年目の昨シーズン、彼女は全試合に出場し、チーム一のポイントゲッターとして活躍した。全チームのヘッドコーチおよび報道関係者からの投票で決まる「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」にも輝いた。しかし、彼女にとっては決して満足のいくシーズンではなかった。高校時代とは違う、実業団の厳しさを痛感した1年だった。

第11回 伊東裕樹(サービスマン)<前編>「信頼あってこそ――佐々木明との“喧嘩”」

「サービスマン」と言えば、スキー板のチューンナップをし、ワックスがけを行なう、車で言えば整備士というイメージを持っている人は少なくないだろう。もちろん、それらも大事な仕事である。だが、サービスマンの役割は、そうしたマテリアル面だけにとどまらない。練習や試合会場まで自らの運転で選手の送迎もすれば、選手の身体的・精神的な状況を把握し、時にはコーチやトレーナーと選手とのパイプ役や相談役も務める。アルペン競技のレース時には、スタート地点まで選手に帯同し、無事にスタートさせるのもサービスマンの役割である。つまり、プレッシャーや興奮状態の中、選手はサービスマンと交わした会話や激励の言葉に送り出されてスタートを切るのだ。これがいかに重要で難しい任務であるかは、想像に難くない。今回はそんな知られざるサービスマンの姿を追う。

山縣亮太(慶應義塾大学体育会競走部・短距離)<後編>「走りを究める求道者」

 ある日、2歳上の兄が陸上の大会で入賞し、賞状をもらって帰ってきた。小学校3年の山縣亮太の目には、それはとても大きく見え、そして眩しく映った。「来年は僕が賞状をもらう!」。そう決意した。そして1年後、山縣は広島スポーツ交歓大会の小学校4年生の部の100メートルに出場し、ぶっちぎりで優勝。ひときわ小さな少年の圧勝劇に会場はどよめいたという。山縣は賞状どころか、メダルまで獲得した。1年前、兄の背中を追いかけ始めた弟は、その兄を一気に追い越したのだった。

第10回 山家正尚(メンタルコーチ)<後編>「“スマイルジャパン”誕生秘話」

 今年2月の最終予選を勝ち抜き、来年開催されるソチ五輪出場一番乗りを果たしたアイスホッケー女子日本代表。その彼女らの愛称として決定したのが、当初からチームが希望していた“スマイルジャパン”だ。21歳の若き主将・大沢ちほはこう述べている。 「最終予選という大きな舞台でも、いつものように笑って、楽しくできた。だから希望していた愛称に決定して、とても嬉しい」  この “スマイルジャパン”誕生秘話に欠かすことのできない人物がいる。昨年11月にチームのメンタルコーチに就任した山家正尚だ。

山縣亮太(慶應義塾大学体育会競走部・短距離)<前編>「9秒台はゴールではなく通過点」

「そこに壁を感じているわけではないですし、自分の中でのゴールではない」  慶應義塾大学体育会競走部に所属する山縣亮太は、100メートルを9秒台で走ることを「あくまでも通過点」と言い切る。20歳の彼が頭角を現したのは、昨夏のロンドン五輪だ。男子100メートルで日本人として3大会ぶりに準決勝進出を果たした。予選で叩き出した10秒07の自己ベストは、日本歴代4位タイ(当時)であり、五輪に限れば日本人の最高記録だった。

第9回 山家正尚(メンタルコーチ)<前編>「“スマイルジャパン”五輪最終予選の舞台裏」

「大丈夫。僕は選手たちを信じている。彼女たちなら、きっとやってくれるよ」  2013年2月8日、アイスホッケー女子日本代表はスロバキアで行なわれたソチ五輪最終予選の初戦に臨んだ。相手はノルウェー。世界ランキングは日本11位、ノルウェー10位と、実力はほぼ互角だった。ところが、第2ピリオド途中まで0−3。予想外の点差に、スタンドからはため息がもれた。だが、メンタルコーチの山家正尚は「絶対に大丈夫」と言い切った。選手たちを信じ切るだけの自信が、山家にはあった。

眞田卓(車いすテニスプレーヤー)<後編>「“初心”からスタートの超大作ドラマ」

「なんでこのタイミングなんだろう……」  眞田卓は、そう思わずにはいられなかった。昨年5月、眞田は正式にロンドンパラリンピックの代表選手となった。ところがその直後、韓国で行なわれたチームカップで、右手首を痛めてしまったのである。パラリンピックを目指し始めた1年目、2011年から痛みが発症していた右肩をカバーしていたこともその要因として考えられた。パラリンピック開幕まで、残り約3カ月。本来であれば、本番に向けて身心ともにギアを上げていかなければならない大事な時だった。しかし、その時の眞田は“エンスト”を起こさないよう、ケガとの折り合いをつけることの方を優先せざるを得なかったのである。

第8回 大木学(帝京大学ラグビー部アスレティック・トレーナー)<後編>「チームを救った“準備”」

「リハビリが遅れている原因は、どこにあるのだろう……」  昨年7月、アスレティック・トレーナー大木学は、ある選手の状態が気になっていた。当時、2年生の権裕人だ。彼はレギュラーになるべく選手であり、4連覇には欠けてはならない選手の一人として考えられていた。だが、春にハムストリングスの肉離れに見舞われ、リハビリが続いていた。しかも、回復の進行は大木が予想していたものよりもはるかに遅れていた。

眞田卓(車いすテニスプレーヤー)<前編>「1年間の空白が生んだ世界への軌跡」

 あの衝撃は、半年以上経った今も少しも薄れてはいない。2012年ロンドンパラリンピック、男子ダブルス1回戦。そこで目にしたのは、車いすテニスではそれまで一度も目にしたことのないパワーショットだった。フォアハンドから繰り出されるそのショットは、とても小柄な日本人選手のそれとは思えないほどのスピードと威力があった。 「こんなすごい選手が日本にいたんだ……」  大会前に取材しなかったことが悔やまれた。そして、彼が次のリオデジャネイロ大会を目指すことを強く願った。どうしても取材をしたい衝動に駆られていたのだ。そのプレーヤーこそが、眞田卓だった。

第7回 大木学(帝京大学ラグビー部アスレティック・トレーナー)<前編>「V4に導いた“超回復”」

 2013年1月13日、日本の学生スポーツ界に新たな歴史が刻まれた。第49回ラグビー全国大学選手権大会・決勝。帝京大学が筑波大学を39−22で破り、史上初の4連覇を達成したのだ。この快挙の裏には、さまざまなスタッフの献身的な支えがあった。岩出雅之監督が「同志」と呼ぶ彼(女)らの尽力なくして、4連覇はなかったと言っても過言ではない。今回はその一人、アスレティック・トレーナー大木学に、4連覇への軌跡を訊いた。

中村亮土(帝京大学ラグビー部)<後編>「忘れられぬペナルティーキック」

「ラグビーをやっている限り、忘れたくないというか、忘れられないキックですね」  そう中村が振り返るワンプレーがある。  4年前、2009年冬の出来事だ。全国高校ラグビー1回戦、鹿児島実−国学院栃木。中村は鹿実のSOとしてグラウンドに立っていた。

第6回 花谷遊雲子(管理栄養士)<後編>「選手の“本気”に挑む“覚悟”」

 管理栄養士・花谷遊雲子にとって、忘れられない“勝負”がある。 「花谷さん、相談があるんです。今の私のダイエット方法では、続かないと思うんです」  2004年、4年後の北京五輪の代表候補選手を決める選考会を2週間後に控えていた頃のことだ。あるシンクロナイズドスイミングの代表候補選手が、減量に苦しんでいた。それまでは自らアドバイスを求めに来るような選手ではなかったという。その彼女が、初めて花谷に悩みを打ち明けたのだ。それだけ北京五輪にかける思いは強かった。

中村亮土(帝京大学ラグビー部)<前編>「ジャパンの若き逸材」

「大学レベルでは突出している。国際レベルの選手として、今後の進歩を興味深く見守っていきたい」  日本代表を率いるエディー・ジョーンズヘッドコーチ(HC)が、そう名前をあげて期待を寄せる選手がいる。帝京大学ラグビー部のSO中村亮土だ。先の大学選手権で史上初の4連覇を達成した原動力となった3年生である。このほど発表された日本代表メンバーにも名を連ねた。

第5回 花谷遊雲子(管理栄養士)<前編>「マーメイドジャパン、新たな挑戦」

 昨年のロンドン五輪、シンクロナイズドスイミング日本代表はデュエット、チームともに5位という結果に終わった。正式種目となったロサンゼルス五輪以来、初めてメダルなしという事態に、今後への不安の声も少なくない。だが、日本のシンクロは今、大きな転換期を迎えている。そんな中、今回のロンドン五輪、日本代表は新たな挑戦をしていた。その挑戦を身体づくりの面からサポートしてきたひとりが、管理栄養士・花谷遊雲子である。

齊藤裕太(ボクシング・スーパーフライ級全日本新人王)<後編>「世界一強い父親を目指して」

「もう絶対に負けられない。新人王を獲る!」  齊藤裕太がこう決意したのは2011年7月3日。長男の太一君が誕生した日である。3戦目を2ラウンドTKOで勝利し、7月29日の東日本新人王1回戦に向けて練習を積んでいた時だった。試合前ということもあり、深夜の出産には立ち会えなかったが、報告を受けて病院に飛んでいった。齊藤は「いやぁ、もう感動しました」と愛息との初対面の瞬間を笑顔で振り返った。

第4回 山口義彦(グリーンキーパー)<後編>「FIFA、中田英、ベンゲル……世界に認められたピッチ」

「ボールが普通に転がること」――これがグリーンキーパー山口義彦の理想の芝生である。その山口にとって、今でも忘れられない言葉がある。それが2001年のコンフェデレーションズ杯での中田英寿のコメントだ。当時、アジア初のサッカーW杯日韓大会を1年後に控え、山口たちは世界の舞台にふさわしいピッチにするべく、試行錯誤の日々が続いていた。そんな中、当時日本代表のエースからの何気ないひと言が山口に大きな自信を与えたのだ。

齊藤裕太(ボクシング・スーパーフライ級全日本新人王)<前編>「天性のハードパンチャー」

 話している時の表情は柔和で、とても命を懸けて戦っている男とは思えない。だが、グローブをつけると、一転してその目は鋭くなる。プロボクサー・齊藤裕太、25歳。北澤ボクシングジム(以下北澤ジム)所属の2012年スーパーフライ級全日本新人王である。

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