17日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチオリンピックが、23日(現地時間)に幕を閉じた。1998年長野大会を除く、国外開催のオリンピックでは初の出場を果たした“スマイルジャパン”ことアイスホッケー女子日本代表は、通算5戦全敗で最下位に終わった。しかし、下を向いている暇はない。最後の7、8位決定戦でのドイツ戦、試合終了の合図は、ソチ大会の終わりを告げるとともに、4年後のスタートを切る合図でもあったはずだ。そして、それはレフェリー中山美幸にとっても、同様である。4年後を見据えた戦いは、既に始まっているのだ。
「死にもの狂いでやろうと決めています」 2014年シーズンがスタートし、湯浅剛は今年にかける強い思いをそう口にした。 「車椅子バスケットを始めて3年目の今年は、もう甘えてられません。ヘッドコーチからも『今年だぞ』というふうに言われていますし、自分としても勝負の年だと思っています」 主力にベテランが多いチームにとって、26歳の湯浅は待ち望んでいた若手のホープと言っても過言ではない。自らの成長がチームの底上げとなる。湯浅はそのことをしっかりと自覚している。
7日に開幕したソチオリンピック。注目のひとつは、“スマイルジャパン”こと女子アイスホッケー日本代表だ。過去、日本の女子アイスホッケーがオリンピックの舞台を踏んだのは、1998年長野大会の1度限り。今回は、それ以来の出場だ。実は、その“スマイルジャパン”よりも一足早く、長野以来のオリンピックの舞台を踏んだ女性がいる。レフェリーの中山美幸である。2010年2月、カナダ・バンクーバーで開催された冬季オリンピック。中山は女子アイスホッケーのラインズマンを務めた。それは海外開催のオリンピックとしては、日本人女性初の快挙だった。
「一番驚いたのは、パスセンスの高さですね」 天理大の小松節夫監督は立川理道に初めて会った時の衝撃をこう振り返る。立川のパスを小松は「球持ちがいい」と評する。相手のプレッシャーをギリギリまで引きつけ、よりベストな選択のパスを通す、という意味だ。 「パスを放る瞬間までボールが手に張り付いている。単純にパスの精度が高く、遠くに放れる選手はいますが、立川のように球持ちのいい選手はそうはいません。これは教えてもなかなか身につかないものですからね」
「そんな資料、破ってしまえ!」 渡辺啓太が全日本女子チームの専属アナリストに就任したばかりの頃のことだ。当時、全日本女子チームを率いていた柳本晶一監督に、渡辺はそう言われたことがある。それはプロとは何たるかを痛感させられた出来事だった。
日本ラグビー界の宝と言われる選手がいる。24歳の立川理道だ。ポジションは司令塔・スタンドオフ(SO)およびセンター(CTB)。長短のパスで攻撃をかたちづくり、時には力強いランで自ら突破口をつくる。トップリーグのクボタスピアーズに所属し、今では日本代表にも定着した。昨年6月に歴史的初勝利を挙げたウェールズ戦に先発で出場し、15年のイングランドW杯で主力としての活躍が望まれている。
2012年8月11日、全日本女子バレーボールの歴史に輝かしい1ページが刻まれた。ロンドン五輪3位決定戦、最大のライバル韓国相手にストレート勝ちを収めた全日本女子は、1984年ロサンゼルス五輪以来、実に28年ぶりとなるメダル(銅)を獲得した。ひとり、またひとりとコートの中央に走りより、12人の精鋭たちが喜びを爆発させるその歓喜の輪の中に、満面の笑みを浮かべる彼の姿があった――。全日本初の専属アナリストとして、女子チームを支えてきた渡辺啓太だ。
石川県七尾市にある「松平スポーツ」に隣接する卓球場。ここが松平健太の原点である。「松平スポーツ」は両親が経営する卓球用品店。店の隣りの卓球場では、国体選手だった父親の指導の下、卓球教室が開かれていた。そこに健太は5歳から通い、既に卓球を始めていた2人の兄とともに、技術を磨いていった。松平兄弟にとっては、学校帰りに卓球場へ向かうコースが、遊び場のひとつだった。
栄光の裏には、必ずそれを支える裏方がいる――12月10日、Jリーグアウォーズで横浜F・マリノスの中村俊輔がMVPを受賞した。2度目の選出は史上初の快挙。さらに35歳での受賞は史上最高齢だ。自己最多の10ゴールをマークし、キャプテンとしてチームを牽引したことが高く評価されての選出だった。35歳にしてなお、高いパフォーマンスを維持し、輝きを放った中村。彼は授賞式の後のミックスゾーンでこう語っている。 「いいシーズンを送ることができたのは、チームメイトもそうですし、優秀なスタッフがいたからこそ。試合後、クラブハウスに戻ってから、プールに入って、ストレッチして、(ジムの)バイクを漕いで、交代浴して……それらが終わるのを1時間以上も待ってくれているスタッフがいる。そういう温かい人たちに囲まれた環境でできたことが、いいプレーができた一番の要因だったと感謝しています」
「天才は卓球界にいっぱいいます。それに僕より努力している人もいっぱいいる。だから僕はどちらの面においても中途半端なんです」 そう自分を分析するのは、卓球全日本代表の松平健太(早稲田大学)だ。今年5月、フランス・パリで行われた世界卓球選手権大会の男子シングルスで元世界ランク1位の2人を撃破し、ベスト8にまで上りつめた。準々決勝で当時の世界ランク1位に敗れ、日本勢34年ぶりのメダル獲得はならなかったが、「松平健太」の名を世界に轟かせた。大会前は58位だったITTF世界ランキングは現在、自己最高の15位にまで浮上している。
中村俊輔35歳、中澤佑二35歳、マルキーニョス37歳、ドゥトラ40歳――今シーズンの横浜F・マリノスは、主力メンバーに35歳以上の選手が4人と、J1の全18チームの中で最も主力の平均年齢が高かった。いつのまにかつけられた愛称は“おっさん軍団”。正直、「1シーズンもつのか」という見方もあったことは否めない。ところが、“オーバー35”の4人はそろって、シーズンを通してほとんど休むことなく、フル出場。その甲斐あって、今シーズンのF・マリノスは、ほぼ固定したメンバーで安定した力を発揮した。果たして“おっさん軍団”を支えたものとは何だったのか――。
「2年目のジンクス」――昨年、プロ2年目を迎えた内山靖崇は勝てない試合が続き、自信を失いかけていた。前半は好調だった。春は亜細亜、筑波とフューチャーズで2回優勝し、地元開催の札幌フューチャーズではテニスを始めた時からの憧れだった同郷の先輩、鈴木貴男を準々決勝でストレートで破り、そのまま決勝へ進出。優勝こそならなかったものの、大きな手応えをつかんでいた。順調にランキングも上がり、内山は夏以降、フューチャーズよりもワンランク上のカテゴリーの大会、チャレンジャーにも出場するようになった。ところが、途端に負けが混むようになったのだ。しかも、1、2回戦での敗退が続いた。 「なんとかして勝ちたい……」 焦りばかりが募り、もがけばもがくほど、内山はトンネルの奥へと迷い込んでいった。
いよいよ残り約1カ月と迫ってきた第90回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。佐藤尚にとっては、指導者としてちょうど20回目の箱根となる。彼が母校である東洋大学駅伝部の監督となったのは、今から19年前のことだ。当時、東洋大は低迷時期にあった。箱根でシード権を取れない年が続き、改革を求めて指導者を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが、佐藤だった。彼は地元の秋田県でサラリーマンとして働く傍ら、秋田工業高校で陸上部のコーチをしていた。
小学5年で松岡修造に類稀な才能を買われ、中学1年からの4年間は錦織圭と同じIMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーに留学。世界各国から選ばれた凄腕のプレーヤーたちとともに腕を磨いた。14歳で同世代の強豪が集うエディー・ハー大会で日本人選手初の優勝達成。18歳の時には4大大会などと並ぶ最高グレードの大会である世界スーパージュニアでシングルス、ダブルスの2冠を獲得。こうした輝かしい実績を手に、2011年にはプロに転向した。錦織に続く若きホープとして、将来を嘱望されている。それが内山靖崇だ。
日本の正月の風物詩ともなっている「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。来年1月には90回を迎えるこの大会に、70回以上出場しているのが東洋大学だ。今や、毎年のように優勝候補に挙げられている同大だが、初めて総合優勝を手にしたのは、今からわずか4年前の2009年のことだった。60年以上も辛酸を舐め続けてきた同大を強豪校に押し上げたひとりが、指導者として、スカウトとしてチームに携わってきた佐藤尚コーチである。今回は佐藤コーチの選手の力を見抜く“目”に迫る。
17年間、“ミスター”こと長嶋茂雄の専属広報を務めた小俣進。彼がプロ野球の世界に足を踏み入れたのは1973年のことだ。左投手として藤沢商業高(神奈川)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て、小俣はドラフト5位で広島に入団した。3年後の76年、交換トレードで巨人に移籍する。前年、巨人はV9時代を築き上げた川上哲治の後を継いで、長嶋が巨人軍の監督に就任していた。だが、1年目は球団史上初の最下位に転落。長嶋が血眼になって常勝軍団復活への道を模索していたことは想像に難くない。小俣はそのピースのひとつとして呼ばれたのだ。実際、貴重な左の中継ぎとしてチームを支え、3年ぶりの優勝に貢献した。これが、巨人、そして長嶋との深い縁の始まりだった。
「最悪のシナリオでした」 長澤和輝がこう振り返ったのは、主将になって迎えた2009年の全国高校総体千葉県予選1回戦、幕張総合高校との試合だ。終始八千代高校が攻め込んだものの、終了間際にカウンターからゴールを奪われ、0−1で敗れた。全国の切符を逃した悔しさももちろんあっただろう。しかし、3年夏の総体は、多くの高校サッカー選手にとって将来を占う意味でも重要な大会だった。というのも、サッカーで強豪といわれる大学は、3年夏までの実績を考慮して新入生を採用することが多い。だが、長澤はそれまで各全国大会の出場経験がなかった。国民体育大会などへの選抜歴もない長澤にとって、大学に自身をアピールするには3年夏の総体が最後のチャンスだったのだ。
今年5月5日、東京ドームに“ミスター”が元気な姿を現した。昨年末に現役を引退した松井秀喜とともに、国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄。その人気の高さは、77歳となった今もなお健在である。その長嶋の専属広報を17年間務めたのが小俣進だ。現役時代から話題に事欠かない長嶋だが、果たして真の“ミスター”とは――。13年ぶりの現場復帰に始まり、“メークドラマ”、2度の日本一達成、アテネ五輪日本代表監督就任、そして脳梗塞によるリハビリの日々……さまざまな姿を見続けてきた小俣が“ミスター”を語る。
大学サッカー関東1部の専修大学は今季、史上4校目のリーグ3連覇に挑んでいる。その王者・専修大を、エース、そして主将として牽引しているのが攻撃的MFの長澤和輝だ。昨季は高いパフォーマンスで12ゴール、17アシストという驚異的な成績を残し、リーグ連覇に貢献。現在、複数のJクラブから熱視線を送られているプレーヤーだ。
数々のタイトルを手にし、順風満帆だった高校生活を終え、野々村笙吾が進学先に選んだのは順天堂大学だった。五輪出場選手を多数輩出している名門校で、野々村が入学する前年の全日本学生選手権(インカレ)でも優勝を収めるなど、大学体操界をリードしていた。強豪校でありながら指導方針は選手の自主性を尊重しており、彼の通っていた市立船橋高校と同じだったことも魅力のひとつだった。そして、何より野々村が順大を選んだのには、憧れの冨田洋之がコーチでいたからだ。
「どうやら今日も向かい風みたいだぞ」 日本体育大学駅伝部・別府健至監督はそう言って、原健介の肩をポンと叩いた。その表情には自信がみなぎっていた。原はその時、優勝を確信した。 「復路の朝、ロビーで監督に会ったら、笑顔なんですよ。『よし、今日も向かい風だぞ!』というような感じで。日体大にとって、向かい風は追い風だったんです」 前年の19位からの大躍進。30年ぶりの総合優勝。それは“奇跡”ではなく、“狙い通り”だったのである。
世界の頂点を知る者たちが、「彼」の才能を賞賛している――。近年、日本が生んだ世界に誇れる体操選手といえば、冨田洋之(順天堂大学体操競技部コーチ)と内村航平(KONAMI)である。その2人が自らを超えるべき選手と期待を寄せているのが、順大体操競技部の野々村笙吾だ。20歳になったばかりの大学2年生は、3年後のリオデジャネイロ五輪で、北京、ロンドンと2大会連続で逃した団体金メダル獲得のキーマンとして、目されている。
“地獄”から“天国”へ――。89年の歴史をもつ「東京箱根間往復大学駅伝」(箱根駅伝)は今や、年始の風物詩となっている。今年1月、その箱根を制したのは日本体育大学だった。昨年は同校としては史上最低の19位。まさに“地獄”を味わった。そこから大改革に乗り出し、30年ぶり10度目の栄冠を手にしたのだ。この原動力のひとつとなったのが、同校OBでもあるコンディショニングトレーナー原健介が提唱した「ベース・コントロール・トレーニング」(BCT)だ。いかなる時も崩れない走りをつくりあげたBCTとは――。古豪復活への軌跡を辿る。
是枝亮がエアロビック競技に出合ったのは小学2年の時だった。7歳上の姉が通っていた教室に母親と観に行った時、先生に「一緒にやってみない?」と声をかけられたことがきっかけで始めた。 「最初はマット運動がメインだったのですが、それが僕には楽しいと思えたんです」 野球やサッカーには目もくれず、是枝はエアロビック競技の世界にのめりこんでいった。
今から10年近く前のことだ。練習後のジャイアンツ球場では、中村一知らグラウンドキーパーたちによる整備が行なわれていた。その中にひとり黙々とピッチングフォームの確認をしているピッチャーがいた。入団間もない内海哲也だった。中村の脳裏にはその姿が今も焼き付いている。