「小学生の頃から自分は“ダブルス向きだな”と思っていました」。そう語る早川賢一は、遠藤大由と組む男子ダブルスで全日本総合選手権を連覇し、国際バドミントン連盟(BWF)の世界ランキングでも3位(21日現在)とワールドクラスに位置するダブルスプレーヤーである。高校までは、シングルスでも全国大会で好成績を収めてきたが、ダブルス選手として生きていく思いは揺らがなかった。
「Be you(君らしくあれ)」――フルタイムレフリー平林泰三が、今も大事にしている言葉だ。平林にこの言葉を贈ったのは、世界トップ3のレフリーとして長年君臨したニュージーランド人のコリン・ホークだ。 「当時、レフリーマネージャーだったコリンさんに、そう言われたんです。『人のまねをする必要もないし、特に気を遣う必要もない。君は君らしくいなさい』と。レベルが高くなればなるほど、レフリーの世界も厳しくなる。だから最終的には人がどうとかではなく、自分自身を持っていないとダメなんだ、ということを教わったんです」 アジア人初のフルタイムレフリーとなって、まだ1年にも満たない頃のことだった。
「シャー!」「ナイッショー!」と体育館にこだまする声。言葉の主は、日本ユニシス実業団バドミントン部男子チームの早川賢一だ。「楽しくワイワイやりたい」と、練習中でも明るく大きな声を響かせる早川は、コートでひと際目立つムードメーカーである。今年5月にインド・ニューデリーで行われた国・地域別対抗団体戦の男子トマス杯では、日本代表のキャプテンとしてチームを牽引し、初優勝に貢献した。仲間たちと楽しそうにシャトルを追いかけ、練習に励む姿は“世界一”となった今でも変わらない。
日本ラグビー界に新風を巻き起こし続けている男がいる。日本で、そしてアジアでフルタイム(プロ)レフリー第1号となった平林泰三だ。彼のレフリー経歴は、まさに華麗である。18歳でC級ライセンス、31歳でインターナショナルマッチを担当することができるA級ライセンスと、いずれも国内では最年少での資格取得を実現。さらに31歳でU−19W杯、翌年にはU−21W杯でレフリーを務めた平林は、世界でも高い評価を得て、2007年3月には念願であった120年以上の歴史を誇る欧州6カ国対抗戦でのタッチジャッジ(線審)に抜擢された。これらすべて、アジア人初の快挙である。今や世界に活躍の場を広げ、日本ラグビーの発展にも寄与する平林。アジアではフルタイムレフリーのパイオニア的存在である彼が追い求めるレフリングとは――。
試合本番に向けてのコンディショニングと聞くと、すぐに思い浮かぶのがフィジカル的要素であろう。疲労を残さず、いかに万全な状態へともっていくことができるか、と考えるのが一般的だ。だが、実はここで忘れてならないことがある。メンタル的要素だ。なぜなら、「身体と心はつながっている」からである。
「今はみんながオリンピックでのメダル獲得を“無理”だと思っているかもしれませんが、自分自身はそうは思わない。自分が歴史を作り、誰もが敵わないと思うような大記録を打ち立ててやりたい」。今春、日本新記録を連発し、好調を持続している十種競技・右代啓祐は五輪という大舞台でのメダル獲得に自信を覗かせる。元々、右代はハイジャンパー(走り高跳び選手)だった。その彼が混成競技への転向を決めたのは、高校2年の冬である。“デカスリート”(十種競技選手)右代啓祐の誕生には、ある人物が深く関わっていた。
今春、日本陸上界において、前人未到の大記録を2度もうちたてた男がいる。十種競技の右代啓祐だ。4月に和歌山で開催された日本選抜陸上和歌山大会では、自身が持つ日本記録を70点更新する8143点をマーク。さらに右代は、6月に長野で行なわれた日本選手権混成で8308点を叩き出した。彼が日本新を出したのは実に3年ぶりのことだ。それも短期間に立て続けの記録更新である。周囲が驚いたのも無理はない。27歳の今、なぜ右代は進化し始めたのか――。きっかけは、2010年から右代の専属トレーナーを務める中西靖にあった。
走る、投げる、跳ぶ――。陸上競技の三大要素全てをこなさなければならないのが、十種競技である。2日間で100メートル、400メートル、1500メートル、110メートルハードル、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げ、走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳びの計10種目の合計得点を争う。いわば陸上のオールラウンダーが挑戦する競技であり、ゆえに頂点に立つ者を「キング・オブ・アスリート」と呼ぶ。現在、日本の王座に君臨しているのが日本選手権5連覇中の右代啓祐だ。身長196センチ、体重95キロの恵まれた体躯を生かし、投擲種目を得意とする右代は、アジア、そして世界の “キング”の座を虎視眈々と狙っている。
「かっこいいなぁ。あんなふうに滑れたらいいな」 村岡桃佳が、まだ小学生の頃のことだ。家族と一緒にスキー場を訪れた村岡は、チェアスキーを習っていた。すると、そのすぐ傍を猛スピードで滑り降りてくる選手がいた。現在、チェアスキーのアルペンで世界トップに君臨する森井大輝だった。この時から森井は、村岡の憧れの存在となった。そして実際に競技を始めてからは、尊敬する先輩となった。 「今では森井さんの滑りにそっくりだね、とよく言われるんです」 森井仕込みのカービングターンが、村岡の最大の武器となっている。
「負けん気の強さで言ったら、2人はそっくりですよ」。竹村吉昭が語る「2人」とは、2年後のリオデジャネイロ五輪で活躍が期待される渡部香生子、そして2000年シドニー五輪で銀メダルを獲得した中村真衣だ。小学6年から15年間、中村を指導した竹村。アトランタ、シドニーと2大会連続で五輪出場に導き、メダリストにまで育て上げたその功績は大きい。だが、竹村にはたったひとつだけ、後悔に近い思いがある。 「あの時、もし中村にたった一言、アドバイスをしていたら……」 シドニー五輪の決勝を振り返るたびに、そんな思いがふと沸き起こってくるのだ。
「何でこんなにも緊張しないんだろう」。村岡桃佳は、自分自身に違和感を感じていた――。 2014年3月8日、村岡にとって初めてのパラリンピックがロシア・ソチで開幕した。村岡のパラリンピックデビューは大会3日目のスーパー大回転だった。いつもならスタート直前まで吐き気をもよおすほどの緊張感に苛まれる彼女だが、その日はなぜかリラックスしていた。村岡はそんな自分が不思議でならなかった。 「今考えると、それ自体がもう普通ではなかったんだと思います」 この後、思わぬ結末が、村岡を待っていたのである。
今年4月に行なわれた競泳日本選手権。そこには1年前とは違う表情の渡部香生子がいた。15歳でロンドン五輪(2012年)に出場した渡部は、4年後のリオデジャネイロ五輪でのメダル獲得に大きな期待が寄せられている。しかし、昨年の日本選手権では五輪で出場した200メートル平泳ぎでまさかの予選落ちをし、周囲を驚かせた。そんな渡部が今年は一転、100メートルと200メートルの平泳ぎ、200メートル個人メドレーの3冠に輝いた。特に、平泳ぎはともに高校新をマークしての初制覇。ロンドン五輪メダリストの鈴木聡美をおさえての価値ある優勝に、「渡部時代の到来」もささやかれている。その渡部の躍進を語るうえで欠かすことのできない人物がいる。竹村吉昭コーチだ。
「戦う気持ちで、僕たちは相手を上回っていなかったと思います」 遠藤航がこう振り返ったのは、10年と12年に出場した「AFC U−19選手権」のことだ。U−19日本代表は、いずれも準々決勝で敗退し、「FIFA U−20W杯」の出場権を逃した。対戦相手は体を投げ出しながらボールを奪いに来た。対して日本の選手は、厳しい言い方だが足先だけで対応し、球際の競り合いで後手に回った。たかが“気持ち”、されど“気持ち”――。あと1センチ、体を寄せていれば、足を伸ばしていれば、結果は違っていたかもしれない。遠藤はアジアを勝ち抜く厳しさを2度も肌で感じた。しかし、彼は「負けたことがプラスになることもある」と、次に向かっている。16年リオデジャネイロ五輪だ。
「六大学の審判員をやってくれないか」 早稲田大学野球部の先輩からそう言われたのは、林清一が31歳の時だった。早稲田実業高校、早大、大昭和製紙と野球を続けてきた林だったが、きっぱりと野球から身を引き、家業を継ごうと東京に戻ってきた矢先のことだった。一度は断ったものの、「やってみるか」と軽い気持ちで引き受けた。その時はまさか、27年も続けることになるとは……。そして審判がいかに激務であるか、まったく予想していなかったのである。
2014年のJ2リーグ、湘南ベルマーレの勢いが止まらない。開幕から13連勝を飾り、1年でのJ1復帰へ邁進している。その中心としてチームを支えているのが、DFの遠藤航だ。プロ5年目の21歳はここまでフルタイム出場を続け、4ゴール。第11節の水戸ホーリーホック戦ではJ1、J2通算100試合出場を達成した。遠藤は2016年リオデジャネイロ五輪を目指すU−21日本代表でもリーダー的存在として期待されている。同年代の日本人選手の中で、屈指の実力と経験を誇る遠藤だが、現在のステージに立つまでには、様々な巡りあわせがあった。
「私たちはルールの番人ですから」。詰め寄る記者に、審判委員幹事(当時)の三宅享次は、落ち着き払った態度でそう言い切った。その言葉に、隣席の林清一も深くうなずいた――。 1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)−豊田大谷(愛知)の試合後、甲子園史上初の“延長サヨナラボーク”宣告をした球審・林のジャッジが物議を醸した。翌日、スポーツ紙の一面には林の顔と名前が掲載され、高校野球連盟には林への抗議の電話が殺到した。だが、それでも自らが行なったジャッジに、林の気持ちが揺らぐことはなかった。そこには、審判員としての信念があった。
日本男子卓球界で昨年、最も飛躍した選手が2人いる。27歳の塩野真人と、次期エースの呼び声高い23歳の松平健太である。特に周囲を驚かせたのは、塩野である。それまで全日本選手権でのベスト16が最高成績だった塩野は、国際大会では1勝も挙げていなかった。そんな塩野が、昨年はワールドツアーで2勝を挙げる活躍を見せた。188位だった世界ランキングは、今や26位にまで上がっている(4月4日現在)。この塩野の快進撃の要因を語るのに、欠かすことのできない人物がいる。2010年から卓球男子日本代表のフィジカルコーチを務める田中礼人だ。
「私も競輪やりたいなぁ」。石井寛子は高校で自転車競技を始めた頃、漠然と競輪選手に憧れていた。ただ当時、プロがあったのは男子だけだった。それまでは小中学校と陸上部に在籍しており、12年後、まさか自分がプロの競輪選手として活躍しているとは、この時はまだ知る由もなかった――。
「フィジカル強化の必要性」――2001年から12年ロンドンオリンピックまで卓球日本男子ナショナルチームの監督を務めていた宮義仁(現「2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト(タレント発掘・育成コンソーシアム)」コーディネーター)のレポートによく出てきた言葉だ。 「世界選手権やアジア大会など、毎年国際大会を戦う中で、大会後の反省文に毎回出てくるワードが、“フィジカル強化”でした。卓球は、一瞬のパワーを何度も出さなければならない。しかし、日本人選手は俊敏性はあっても、一瞬のパワーを出し続ける体力がなかった。卓球に見合ったフィジカルを身につけなければ、世界に太刀打ちはできないと感じていたんです」 そこで、宮は協会に専属のフィジカルコーチ採用の必要性を訴えた。協会もそれに賛同し、10年4月、3カ月の研修を経て代表初の専属フィジカルコーチが誕生した。それが、田中礼人である。
白、黒、赤、青、黄、緑、橙――カラフルな彩りがバンクに華を添える。2012年6月に産声を上げた「ガールズケイリン」。1964年に一度は廃止された女子競輪が復活したのだ。そのガールズケイリンで眩いばかりの輝きを見せているのが、石井寛子だ。昨シーズンは新人ながら、初代ガールズ最優秀選手賞(MVP)の加瀬加奈子、この年の賞金女王の中村由香里というトップ選手を抑え、MVPを獲得した。12回の優勝は加瀬、中村と並ぶものだが、1月からレースに出場できる1期生の2人と、5月からデビューした2期生の石井ではレースの出場回数が違う。その“ハンデキャップ”を物ともしなかった事実が石井の圧倒的な強さを物語っている。
乾達朗は、2010年2月にシンガポール(S)リーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)に入団した。新潟Sのスタジアムは小さく、グラウンドはボコボコ状態。「こんなところもあるのか」と乾が驚くほど、日本の環境とはまったく違っていた。しかし、彼は悲観したわけではなかった。「それまでと違う環境でサッカーができることに、楽しさを感じていました」。所属先を探している間は、不安の中でサッカーを楽しむ余裕などなかった乾にとって、プロサッカー選手として、新たな環境で勝負できることが何よりも嬉しかったのだ。
9日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチパラリンピック。日本選手団は金3、銀1、銅2の計6個のメダルを獲得した。パラリンピックはオリンピック同様、4年に一度の大舞台、そして厳しい勝負の世界だ。メダル獲得に喜ぶ選手がいる一方で、悔しい結果に終わった選手もいる。アルペンスキー立位カテゴリーの小池岳太もそのひとりだろう。滑降と回転は途中棄権。スーパー大回転と大回転は9位。スーパー複合は10位。表彰台を目指していた小池にとって、決して納得のいく結果ではなかったはずだ。しかし、スキーブーツチューンナッパー広瀬勇人の小池への期待は少しも薄らいではいない。「岳太への期待は今にとどまらず、まだまだこれから」と可能性を感じているからだ。そこには、チューンナッパーだからこその視点がある。
9日に開幕した「明治安田生命J3リーグ」(J3)を戦うSC相模原にひとり、海外から日本に戻ってきた選手がいる。乾達朗、24歳。2009年にジェフユナイテッド千葉を契約満了で退団し、10年からシンガポールリーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)、ウォリアーズFCで計4シーズン、プレーした。11年にはリーグの最優秀若手選手賞、最優秀MF、ベストイレブンに輝いている。乾は今年1月、相模原に入団。サイドハーフ、トップ下で攻撃の中心としての働きが期待されている。
「なるほど……」。15年間、スキーブーツのチューンナップを手掛けてきた広瀬勇人の言葉を聞いて、はたとヒザを打った。スキー競技において、“チューンナップ”と言えば、おそらく大半の人がスキー板のことを想像するだろう。しかし、何か忘れていはしまいか。スキーヤーの身体とスキー板をつなげているもの――そう、スキーブーツである。このブーツにおけるチューンナップを重視する日本人スキーヤーはそう多くはいない。だが、広瀬は言う。「スキーヤーの能力とスキー板の性能を引き出すのがスキーブーツ」だと。たかがブーツではないのだ。
「罰があたったかな……」――救助のヘリコプターを待ちながら、湯浅剛はそう思っていた。 2010年1月、大学卒業を間近に控え、就職も内定していた湯浅は、父親と群馬県のスキー場に出かけた。ゲレンデ途中にはキッカー(ジャンプ台)があった。「ジャンプするのが好きだった」という湯浅は、キッカーめがけて勢いよく滑って行った。すると次の瞬間、空中でバランスを崩し、背中を激しく打ちつけた。起き上がろうとしても身体はまったく動かない。そして、両足に感覚はなかった。湯浅は自分に何が起きたのか、一瞬にして理解したという。そして、後悔の念がジワリジワリと広がっていくのを感じていた。