44日間に渡ってオーストラリアで行われた第5回ラグビーW杯はルーツ国イングランドの優勝で幕を閉じた。5回目のW杯にして初めて、エリス杯が北半球にもたらされた。 決勝の対オーストラリア戦は劇的な幕切れとなった。延長残り1分のところでイングランドSOのウィルキンソンが芸術的なDG(ドロップ・ゴール)を決めた。穏やかな楕円球の軌道が2本のポールの間を通過した瞬間、全ては終わった。歴史に残る100分間の死闘だった。
日本代表監督に就任したオフトが、真っ先に衝突したのがラモスだった。 当時のラモスは選手たちのボス的存在であり、誰からも一目置かれていた。もっといえば不動の10番ラモスを抜きにして、チーム構成など描けないというのが日本サッカーの現実だった。
アトランタ五輪でのブラジル撃破、悲願のワールドカップ(フランス大会)初出場、そしてワールドユース選手権準優勝と、目覚しい進歩をとげる日本サッカー。その礎を築いたのは誰か、と問われれば、私は迷うことなくハンス・オフトというオランダ人の名前をあげる。 今じゃ日本サッカーにおける慣用句となっている「アイコンタクト」「トライアングル」「「サポート」「スモール・フィールド」「コンパクト」「タスク」「ピクチャー」といった用語は、いずれもオフトが持ち込んだものだ。
「頭が真っ白になりました」 金メダルの感想を、鈴木桂治はこう述べた。 「長い4年間だったか?」と問うと、「今考えると短かったですね」と答えた。 忘れられないのは4年前のシドニーでのワンシーンだ。鈴木桂治は井上康生の練習パートナーとして同行を許された。
「自然体でやりますよ」 アテネに出発する前、鈴木桂治は私にこう言った。相手を過度に意識しない。秘策に頼らない。そのことを自らに言い聞かせて決戦の地に向かった。 24歳がこうした境地に至ったのには理由がある。福岡での敗北が“良薬”の役割を果たした。不必要な“斜眼帯”を取り払ったと言うこともできる。
金メダルを無造作にズボンのポケットに突っ込んだままベッドに横たわった。翌朝、目が覚めて不安になった。 「昨日のことは夢だったんじゃないか……」 慌ててズボンのポケットをまさぐった。ひんやりとした手触りとともに黄金色の輝きが目に飛び込んできた。 「……ああ、オレは本当に勝ったんだ」 金メダルを掌にのせて、しばしの間、昨夕の感激の余韻に浸った。宿舎に差し込む日射しが、心なしかいつもより眩しく感じられた。
第3回ワールドリーグ戦には、カール・クラウザーやミスターXに混じって、もうひとり実力派のアイク・アーキンスも参加していた。当時を知る関係者によるとアーキンスは本物のギャングであり、気心の知れた日本人レスラーには、ハリウッドのトップ女優であるバージニア・メイヨとのツーショット写真を見せびらかしていたという。当時、ギャングでも、ハリウッドの女優と付き合える者は、幹部クラスに限られていた。
さて、リングスに目を移してみよう。<メガバトル>の参加外国人はクリス・ドールマン(オランダ)、ディック・フライ(同前)、ヘルマン・レンティング(同前)、ハンス・ナイマン(同前)、ウィリー・ピータース(同前)、ディミータ・ペトコフ(ブルガリア)、ソテル・ゴチェフ(同前)、アンドレィ・コビィロフ(ロシア)、ヴォルク・ハン(同前)、ウラジミール・クラブチェック(同前)、グロム・ザザ(グルジア)、ゲオルギー・カンダラッキー(同前)の12名。オランダ、ブルガリア、ロシア、グルジアの4カ国からの参加ながら、国際色豊かなトーナメントに見えたのは、これら4カ国には格闘技王国のイメージがあると同時に、プロレスからは疎遠のニュアンスが強く、ために他団体のプロレス会場では味わうことのできないテイストを存分に提示することができたからに違いない。
リングス初のトーナメント戦である<メガバトルトーナメント>はリングス・オランダのボスであるクリス・ドールマンが子分のディック・レオン・フライをレッグロックで破り初代の覇者となった。ドールマンをして“泣く子も黙る赤鬼”とはよく言ったもので、その武骨な面構えからは、いかにもアムステルダムの夜の暗がりを取りしきる用心棒の元締めの威厳がにじみ出ていた。加えて溶岩が冷却してできたような体付きも、相手を威嚇するには充分だった。
野球のマイナーリーグを舞台にしたケビン・コスナー主演の映画がある。 題名も『マイナーリーグ』。 ハンバーガーをかじりながら街から街へとバスで移動し、球場に着いても観客はパラパラ。実力次第でメジャーリーグに昇格できるものの、結果を残せなかったものには「クビ」の宣告が待ち受ける。この作品は、そうしたマイナーリーガーの悲哀を描いた秀作である。