格闘技の強さを語るとき、柔道やプロレスには関節技があるが、相撲にはそれがない。よって相撲よりも柔道やプロレスのほうが強い、というひとがいるが、これはまったくのウソ。一瞬のうちに決めてしまう相撲の関節技は最も実戦的といっても過言ではない。 とったり、逆(さか)とったりはその代表的な技といっていいだろう。 相手が差しにくる瞬間、その手首をつかみ、ヒジを決め上げるや引きずるようにして捻り倒すとったりは最近の土俵でもしばしば見かけるが、だれにでも決められるほどヤワな技ではないようだ。
大相撲の決まり手の数は、現在87手ある。その中には、一度も使われていない決まり手も存在する。かつて相撲界には、栃錦や栃赤城など多彩な決まり手で勝ち名乗りを受けた力士がいた。近年では“技のデパート”と呼ばれた舞の海か。しかし、今の土俵を見ると、彼らほどの個性派力士は存在しない。今年の五月場所は、八百長問題を受けて、技量審査場所となった。技量が問われる今場所、新たな技巧派力士の出現に期待したい。 そこで、滅多に見られることのない大相撲の技の数々を、1992年の原稿で紹介しよう。
高木琢也といえば、現役時代 “アジアの大砲”と呼ばれた日本を代表する大型FWだった。しかし、指導者になってからは一変し、守備的なスタイルを掲げている。2006年の開幕直後、J2の横浜FCの監督に就任すると、まずチームの守備意識を高めさせた。それが功を奏し、クラブは15戦無敗の快進撃をみせ、見事J1昇格を果たしたのだ。 そして今、高木はロアッソ熊本の指揮を執る。昨季は、前年度J2ワースト2位の失点を喫していた守備陣を建て直し、クラブを初の1ケタ順位(7位)へと押し上げた。今季J1昇格を目指す高木の指揮官としての哲学を、3年前の原稿で振り返ろう。
今やプロ野球界屈指の守備の名手と言われる宮本慎也は、適応能力の高いプレーヤーだ。 レギュラーに定着したプロ3年目以降、ショートストップとして6度のゴールデングラブ賞を獲得した宮本は、2008年のシーズン途中からサードにコンバートされた。それまでショートストップとして、不動の地位を築いていた彼も、03年以来ゴールデングラブ賞からは遠ざかっており、多少の衰えも感じられていた。しかし、宮本はサードでも堅守ぶりをみせた。翌年から2年連続でゴールデングラブ賞に輝き、再び名手として返り咲いたのだ。 40歳になった今もなお、堅固な守備を見せている宮本。その職人技と称される守備の原点を、03年の原稿で振り返る。
東日本大震災を受け、真っ先に被災地への支援を呼びかけたアスリートがいる。エドモントン、ヘルシンキ世界陸上選手権男子400メートルハードル銅メダリストの為末大だ。 為末はこれまでにも、フィールド外において積極的な活動を行っている。2007年には、陸上競技のPRのために「東京ストリート陸上」を開催。オフィス街・丸の内に特設コースを作った大会は大きな注目を集めた。また、昨年には、資金難に苦しむマイナースポーツ選手をサポートする社団法人「アスリートソサエティ」を設立するなど、アスリートの地位向上に貢献を果たしている。 そんな為末の競技にかける思いを象徴するレースがある。サムライ・ハードラーが見せた熱き魂の走りを、過去の原稿で振り返ろう。
田澤純一はNPB(日本プロ野球組織)の指名を回避して、メジャーリーガーとなった初の日本人プレーヤーだ。2008年、NPB入りを拒否した田澤は、ボストン・レッドソックスと3年契約を結んだ。その決断は、NPBがアマチュア選手の海外流出防止策を設けるほど、異例のことだった。 田澤はアメリカに渡ると、1年目からメジャーデビューを果たし、初勝利をあげた。 しかし、さらなる飛躍を期待された彼に苦境が訪れる。2年目の開幕直前、右肘じん帯の損傷が見つかり、結局そのシーズンは手術とリハビリで1年を棒に振ることとなったのだ。今季は契約最終年を迎え、先発ローテーション入りを目指す。正念場に立たされた彼は、果たしてメジャーの一線で活躍できるのか。 そこで、レッドソックス入団前の田澤に対する期待と不安を、08年の原稿で振り返り、その可能性を探る。
山瀬功治といえば日本代表経験もあり、鋭いドリブル突破を武器に相手守備陣を切り裂くアタッカーだ。しかし昨季、そんな山瀬に悲劇が訪れた。それは、チームからの突然の戦力外通告だった。失意の底に落ちた彼は、気持ちを新たに川崎フロンターレと契約。初タイトルを目指すチームとともに逆襲を誓う。 山瀬はこれまで幾度となく逆境をはね返してきた。新人王を獲得した翌年には、右ヒザ前十字じん帯断裂。その3年後には左ヒザの前十字じん帯も断裂した。それでも彼は、ピッチに帰ってきた。 絶望の淵から這い上がった山瀬のメンタリティーを、2005年の原稿で振り返る。
山武司(東北楽天)は、史上3人目となるセ・パ両リーグで本塁打王を獲得した日本を代表する長距離砲だ。中日、オリックス、楽天と3球団にわたって積み上げてきた通算本塁打数は実に391。42歳となった現在も主力として活躍を続けている。そんな輝かしい実績を持つ山だが、オリックス時代の2004年オフには自由契約となる屈辱を味わっている。引退をも覚悟した彼を拾ったのは、翌年からプロ野球に新規参入することが決定していた楽天だった。そこで2人の指導者と出会い、打撃開眼した山は、07年に本塁打王、打点王の二冠王を獲得し、見事にホームランバッターとしての復活を遂げた。 40歳を超えてなお進化を続ける山。その復活劇の裏側を、07年の原稿で振り返ろう。
水谷隼といえば日本卓球界のエースだ。1月に行なわれた全日本選手権で男子史上初の5連覇を達成した。日本で敵なしの強さを誇る水谷は、昨年の国際卓球連盟(ITTF)プロツアー・グランドファイナルで日本人初Vの快挙を成し遂げた。ITTFの世界ランキングでも7位に入り、強豪と肩を並べている。5月の世界選手権では日本人として32年ぶりとなるシングルスのメダルを目指す。 数々の記録を塗り替え、天才と称される水谷のプレースタイルを、08年の原稿で振り返る。
今野泰幸はアルベルト・ザッケローニ監督の就任後、全試合にスタメン出場を果たし、怪我人続出の日本代表の最終ラインを支えている。センターバックに加え、サイドバック、ボランチと複数のポジションをこなせるユーティリティ性を持ち、代表にとって貴重な存在だ。 活躍の場を広げる一方で今野は昨年、2つの挫折を味わっている。1つは、名を上げるチャンスのあった南アフリカW杯を直前の親善試合で負傷し、わずか数分間の出場にとどまったこと。もう1つは、所属するFC東京がリーグ戦16位に終わり、J2降格の憂き目にあったことだ。苦汁を嘗める形となった今野は今季、ザックジャパンでの定位置確保とクラブのJ1復帰を目指す。 昨年の雪辱に燃える今野のパーソナリティを、06年の原稿で振り返りたい。
サイ・ヤング――メジャーリーグ最高の投手に贈られる賞に名を刻む、前人未到の511勝投手こそ、実はレッドソックスの偉大なるOBなのだ。 サイ・ヤングがアメリカン・リーグの創設にともない、セントルイス・カージナルスの前身セントルイス・パーフェクトズからボストン・レッドソックスの前身ボストン・アメリカンズに移籍したのが1901年。そのときの3000万ドルというトレードマネーは、当時としては破格の金額だった。何やら今回の松坂のケースを彷彿とさせる。
話を松坂に戻そう。彼がメジャーリーグ移籍を球団に正式に訴えたのは04年オフの契約更改交渉の席。「早ければ早いほうがいい」という松坂に対し球団側は「基本的に出すつもりはない」と釘を刺したものの「周囲が認める成績を残せば本人の意志を尊重する」と含みも残した。FA権を取得するのに、松坂はまだ4年の年月を必要としていた。 この頃、西武球団は激震に見舞われていた。グループの中核企業である西武鉄道による有価証券報告書の虚偽記載が発覚し、球団オーナーでもある堤義明コクド会長は経営の第一線から退いた。翌年3月には証券取引法違反容疑で逮捕された。
ポスティング・システムは1998年12月に生まれた日本プロ野球からメジャーリーグ(MLB)への移籍制度の1つだ。これまで8人の日本人選手がポスティング・システムを利用しMLB球団と契約した。中でも最も注目されたのは06年オフ、松坂大輔がボストン・レッドソックスへ移籍した際のポスティングだった。松坂獲得のため、レッドソックスが用意した資金は約60億円。日本人として初めてポスティングを利用したイチロー(シアトル・マリナーズ)のケースと比べ、その額は約4倍にも高騰していた――。 空前のマネーゲームが日米を沸かせた07年の原稿で振り返り、ポスティング・システムが抱える様々な問題点と両国球界が進むべき道を今一度、探ってみたい。
プロデビュー後14戦無敗のままフェザー級日本王者となった粟生隆寛は、わずか24歳の若さで世界のベルトを巻いたエリートボクサーだ。現在は階級を上げ、2階級制覇を目指しており、26日のWBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチに挑む。 数々の世界チャンピオンを輩出した名門・帝拳ジムに所属する粟生のボクサーとしての原点を、3年前の原稿で振り返る。
1993年に導入されたフリーエージェント(FA)制は様々な問題を抱えながら、今日まで至っている。FA権の取得年数やFA補償制度、故障者の特例措置など、山積みする課題を解決するために、未だに議論が続いている。FA制は移籍の活性化を促す一方で、選手の年棒高騰を生み球団経営を圧迫している現状もある。FA制が導入されて17年、今一度、日本球界変革前の93年の原稿を振り返り、FA制の「理想と現実」を再考してみたい。
7月の中頃、セ・リーグの打撃成績の欄から横浜・多村仁外野手の名前が消えた。さる6月29日、神奈川県内の高速道路を運転中に事故を起こし、左肩や目を強打した。調子が良かっただけにチームにとっても本人にとっても残念なアクシデントとなった。 事故を起こすまで、多村は打撃3部門で三冠王を狙える位置につけていた。6月28日の時点で打率3割4分4厘(1位)、21本塁打(1位)、53打点(4位)。守りもよくバットとグラブでチームを支えていた。
さて日本代表の再建を託されたイビチャ・オシムとはいかなる人物なのか。 彼は1978年、母国ボスニア・ヘルツェゴビナで指導者人生をスタートさせた。86年には旧ユーゴスラビア代表監督に就任。90年イタリア大会では同国をベスト8に導いている。 ジェフの前に監督を務めたシュトルム・グラーツ(オーストリア)でも欧州チャンピオンズリーグに3度出場するなど、その指導力は定評がある。
あれはいまから11年も前のことだ。その日はプロ野球のドラフト会議が行なわれていた。 1995年11月22日、東京・渋谷(当時)の日本サッカー協会では、まるでドラフト会議のお株を奪うような“大逆転指名”が行われた。
「オリンピック代表の監督はあくまでも反町(康治=前新潟監督)で、スーパーバイザー、総監督的な立場でオシムが……。あっ、言っちゃった」 ドイツからの帰国記者会見の席で、日本サッカー協会・川淵三郎キャプテン(会長)はポロリと次期代表監督の名前を口にしてしまった。
「中盤からも前からも選手が返ってくる。後ろだけで守り切れるわけじゃありませんから。その意味では誰というわけじゃなく、全員の守備の勝利ですよ」 試合後、表情を緩めることなく、秋田豊は言った。 20世紀最後のJリーグチャンピオンシップは鹿島アントラーズが制した。 横浜F・マリノスを相手に初戦0対0のスコアレスドロー。続く第2戦は3対0の完勝。アントラーズの鉄壁の守備網は最後まで崩れなかった。
今やかの 三つのベースに人満ちて そゞろに胸のうちさわぐかな 四国で初めてのオールスターゲーム。 四国霊場八十八カ所の五十一番札所・石手寺周辺を潤す石手川にかかる橋を渡ったあたりから、球場に向かう人々は足早になる。 目の前には「坊っちゃんスタジアム」。言うまでもなく、松山を舞台にした夏目漱石の小説『坊っちゃん』にちなんで名づけられたものや。
久方の アメリカ人のはじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも こんな摩訶不思議なアトラクション、ワシは生まれて初めてみたぞな、もし。 市長の中村時広ハンがマウンドに上がったのはええけど、いったい、なんぼ投げたんやろう……。7球? 8球? 演説する時よりも、よっぽど生き生きとしとったがな。
「ウ〜ン、日本に帰ってきてビデオを見ると、足とか全然上がってないんですよ。キレは全然よくないんですけど、最後の決めでどうにか一本をとったって感じですね。 やっぱり年齢は感じますよ。スタミナは確実になくなっているし、それを気持ちでどれだけカバーできるか。逆に気持ちさえ充実していれば、スタミナをカバーすることができる……」 今年10月、イギリスのバーミンガムで行われた柔道の世界選手権・81キロ級に出場した吉田秀彦は、決勝でモルドバのフロレスクを破り、この大会、初めての優勝を飾った。 しかも一本勝ち。伝家の宝刀内股の切れ味は、少しも錆びついていなかった。
「スター誕生!」 そう口にしたくなるような一発は4月6日、東京ドームの阪神戦で飛び出した。 5回表、巨人は4対0とリードを広げ、なおも無死満塁。 打席には19歳の坂本勇人。高卒2年目のショートストップだ。 カウント2−1から阪神・阿部健太が投じたインコース低目のストレートをすくい上げた。 コンパクトなスイングで振り抜かれた打球はレフトスタンド最前列に飛び込んだ。自身プロ1号は阪神の息の根を止めるグランドスラム。19歳3カ月での満塁アーチはセ・リーグ最年少記録というおまけまでついた。
工藤は語る。 「なぜ、そんなことをやったかというと、王(貞治)監督から“工藤、城島を一人前に育ててくれ”と頼まれたからです。 主戦キャッチャーが一人前にならない限り、そのチームが強くなることはありえません。当時、僕は36歳くらいだった。このチームであと何年できるかわからない。 野手は小久保裕紀、松中信彦らいいのが育ってきていたんだけど、キャッチャーがいなかった。それで城島に対しては意識的に厳しくやったんです」