WBCで露呈した野球超大国アメリカの品格<後編>

 ゲームの公正さを担保する審判だってそうだ。今回37人の審判がゲームを裁いたが、このうち22人がアメリカ人。これで公正さが保たれるだろうか。  3月12日の日本対米国戦ではとんでもない“事件”が起きた。3対3と同点の8回、1死満塁で岩村明憲がレフトへ浅いフライを打ち上げた。普通の外野手ならタッチアップを見送るケースだが、レフトのランディ・ウィン(ジャイアンツ)は“弱肩”で知られている。当然、日本ベンチにはその情報が入っていたはずだ。

WBCで露呈した野球超大国アメリカの品格<前編>

<As it turned out, Team USA was not the best baseball team in the world.>(おわかりのように米国は世界一のチームではなかったのだ)『ロサンゼルス・タイムズ』 <This is no American’s Game.>(もはや<ベースボールは>アメリカだけのものではない)『ニューヨークポスト』  奇跡とも呼べる日本の優勝で幕を閉じたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第1回大会。予想に反して本命の米国は2次リーグで姿を消した。1次リーグではカナダに6対8で敗れるなど、チームの仕上がりの遅さが指摘されてはいたが、まさかここまで弱いとは……。

打倒神戸製鋼 57点差の逆転劇 土田雅人<後編>

 試合後のレセプションで神戸の伊藤剛臣に、こう言われたんです。「土田さん、悔しくないのですか。ラグビーは勝ち負けですよ」って。  その言葉を聞いて、急に悔しさが込み上げてきた。それでも、その時は「いや、チャンピオンチーム相手にここまでやれたんだから……」と切り返したのですが、帰りの新幹線の中では、もう腹が立って……(笑)。ただ、逆に言えば神戸の選手たちがウチを意識せざるをえなくなった証拠でもあるわけです。  そういうこともあって01年のシーズンは完全に神戸を射程距離に入れていました。自信をつけたのは6月に行われたウェールズ戦ですね。最大で22点リードされていたのをひっくり返し、45対41で勝った。

打倒神戸製鋼 57点差の逆転劇 土田雅人<前編>

 エリート軍団といわれながら、ここぞという局面で勝負弱さがのぞき、神戸製鋼や三洋電機に、ことごとく煮え湯を飲まされてきたサントリーを初の日本一に導いたのが33歳の時。青年指導者としての鮮烈なデビューだった。  しかし、土田が監督の座を退くと、再びチームは低空飛行を余儀なくされる。平尾ジャパンのコーチを経て、2000年に37歳で再び監督に就任、「打倒神戸」を目標に掲げ、2年目の01シーズン、社会人選手権、日本選手権でともに宿敵・神戸製鋼を撃破し優勝。パス主体の継続ラグビーは、見る者にラグビーの魅力を再認識させた。  続く02シーズンの社会人選手権も東芝府中を38対25で破って優勝。日本選手権こそNECに逆転負けを喫したものの、優勝請負人・土田雅人の手腕には目を見張る思いがした。 「勝利」という目標と「継続ラグビー」という理想、二兎を追い、二兎をしとめた男の指導哲学に迫る――。

望郷のターフ 御神本訓史

 騎手わずか9人という、日本一小さな競馬場が昨年の夏、55年の歴史に幕を閉じた。  島根県、益田市営競馬場。  最終日となった8月18日には、1日としては過去最高の4621人が入場し、馬券の売り上げ高も6231万円を記録した。 「子供の頃から大好きで、憧れを抱いて入った場所だけに、そりゃ寂しかったですよ」

アヤックスの機能美が破綻するとき。<後編>

 後半に入っても、ピッチの風景は変わらない。アヤックスが7割近くボールを支配し、グラウンダーで短いパスを素早くつないでグレミオDF陣をペナルティエリア内に封じ込める。時折、ハーフコートマッチの様相を呈するワンサイドの攻め。しかし、アジウソンを司令塔とするグレミオの堅牢は崩れない。

アヤックスの機能美が破綻するとき。<前編>

 フットボールはチェスに似ている。いや、チェスはフットボールに似ている、といった方が正しいかもしれない。  父親が子供にチェスを教える時、最初にいう言葉はいつも決まっている。 「あらゆる局面で数的優位をつくれ」  モダンチェスの現場において、いきなり敵陣深く攻め入り、クイーンやキングを追い詰めるという戦術は存在せず、地道に8個のポーンを収集にかかる。  この前線の二等兵をいかに攻め落とすかが前哨戦のカギであり、敵陣をカタストロフに陥れ、キングの首をはねるシナリオの断片をそこに見出すことは難しい。

森・西武野球は何を残したか<後編>

 92、93年と2年連続で日本シリーズを戦った森祇晶と野村克也。イメージで語れば前者が「勝負の鬼」であるのに対し、後者は「野球の鬼」である。将棋の世界でいえば、大山康晴名人と升田幸三名人の関係に似ている。「勝負の鬼と将棋の鬼が戦ったら、最終的に勝負の鬼が勝つ」。米長邦雄名人のセリフである。今回、紙一重の差で「野球の鬼」が「勝負の鬼」に勝ったが、2人のイメージが入れかわったとは思わない。

森・西武野球は何を残したか<中編>

 西武で11年間にわたってピッチングコーチを務めた八木沢壮六(現千葉ロッテ監督)が森野球を分析する。 「森さんの野球は、まず1点をとる野球。森さんは“守りの野球”を標榜していますが、点が入ってないことには、守るものがないでしょう。  初回からでもバントを使うのは、とにかく1点を先にとり、相手にプレッシャーをかけるため。相手が点を追いかけるパターンになれば、それに対応する形で、いろんな手が打てる。そういう状況になって初めて3人のリリーフ投手もいきてくるわけです。西武からロッテにきて、西武の1点がいかに大きくのしかかるかということが分かりました。今後、西武に勝つには、とにかく先に点を与えないこと。それが鉄則です」

森・西武野球は何を残したか<前編>

 日本シリーズ20連勝という森監督の不敗神話にピリオドが打たれた。このシリーズ、ライオンズは先取点を奪った3試合を全てものにし、先取点を奪われた4試合を全て失った。結論をいえば、今年のライオンズには試合を引っくり返すだけの力がなかった。徳俵で相手の寄りをこらえるだけの力はあっても、寄り返し、反対側の土俵の外に相手を投げ捨てるだけの底力は持ち合わせていなかったのである。

「魔術師の告白」。 星野伸之<後編>

星野 何となくコツを覚えたきっかけは、フォアボールを避けようとしたことです。たとえばワンスリーやノーツーというカウントで、一番嫌うのは、バッターにボールを見送られることです。フォアボールになってしまいますから。全力で投げてボールがボールひとつはずれたりすると最悪ですよ。

「魔術師の告白」。 星野伸之<前編>

 タテジマのユニフォームを着ると痩身がさらに際立って見える。この痩身のサウスポーが珍プレーの主役となったのは今から7年前のことである。  対ライオンズ戦。ブルーウェーブのスターターとしてマウンドに上がった星野伸之のボールを、あろうことかキャッチャーの中嶋聡(現ライオンズ)はミットでなく素手で捕り、そのまま投げ返してしまったのだ。

開花した才能 城島健司<後編>

「この人は右に曲がるのか、それとも左に曲がるのか。最初のうちはわからなかったのですが何度もやっているうちにピタッと当たるようになってきた。コツを心得ると意外に簡単で、歩き出す前、爪先がちょっと左を向いたり、首がパッと右に向いたりするんです。

開花した才能 城島健司<前編>

「永井さんと星野さんがいなければリーグ優勝はできなかったんです。もし、ここで打たれたとしても、誰も文句は言いませんよ」  日本シリーズが始まる前、福岡ダイエーホークスのキャッチャー城島健司は3戦目、4戦目の先発が決まっていた永井智浩と星野順治にやさしい顔でそう告げた。

甦ったトス 〜竹下佳江〜<後編>

 一柳はJTを率いて6年目のシーズンを迎えようとしていた。自らもセッター出身ということもあり、早くから竹下の能力に目をつけていた。  また当時のJTにはセッターが西堀育実だけしかおらず、Vリーグに昇格するためには竹下の能力とキャリアが必要だと考えていた。

先駆者の流儀 松下浩二

 プロ卓球選手。  日本でたったひとりの肩書きである。  正式に言えばレジスタード・プロプレーヤー(認定プロ選手)。日本卓球協会が86年に競技者規定を設けて以来、初めてその適用を受けた。「日本では自分ひとりしかいないでしょう。だから使命感はありますよ。いい成績を残し、賞金を稼がなければ、後に続く人が出てこなくなる。卓球のステータスを上げるためにも、自分が頑張らなければいけない」  きりっとした口調で、松下浩二は言った。

苦境と栄光 内柴正人

 お家芸と呼ばれる柔道にあって、鬼門と呼ばれるクラスが男子66キロ級だった。  旧65キロ級時代含め、世界の層が厚いこのクラスで、日本人が五輪で金メダルを獲得したのは‘84年ロサンゼルス大会の細川伸二まで遡らなければならない。  一階級下の60キロ級には今回のアテネで五輪3連覇を達成した野村忠宏がいる。その野村に比べれば、内柴正人の世界での実績は、いささか心許ないものがあった。

巨人・松井秀喜の、“進化する怪物”<後編>

 そして今年、最も変わったと思われる点はレベルスイングの時間が長くなったということである。ダウンスイングでボールをとらえにいき、レベルの部分でボールに力を伝え、最後、アッパースイングでボールを運び去る――これがバッティングの基本だが、今の松井はこのレベルスイングでの時間が際立って長く感じられるのである。

巨人・松井秀喜の、“進化する怪物”<前編>

 草野球に、ひとり元プロ野球選手がまじると、たとえホームランを打たなくても、バットの振りの速さやスイングの音だけで彼我の違いが実感できるものだ。  ちょうど今、ジャイアンツの松井秀喜がそんな感じである。彼がバットを振ると、他の選手のスイングの速さや音がアマチュアのそれに見えてしまう。精鋭揃いのプロにあっても、ひとり彼だけは“別格”という印象を受ける。

背番号「3」の再臨<後編>

 26年ぶりの「背番号3」を目の当たりにして、なぜ、少年時代、あれほどまでに長嶋茂雄が好きだったのか、やっと謎が解けた。つまり「背番号3」は躍動の象徴だったのだ。「3」という背番号そのものが美しいのではなく、ミスターの躍動感に魅かれたのであり、もっといえば背番号は3でも5でも6でもよかったのだ。どうやら私たちは、少なくとも私は背番号という味気のない記号を愛したわけではなかったらしい。今にして思えば、それを確認するのに、随分と遠回りをしてしまったような気がする。

背番号「3」の再臨<前編>

 球場へ向かう道は県外からの車であふれていた。渋滞の中には九州各県はもちろん、遠く東北や関東のナンバープレートを付けた車も見受けられた。  2月12日。宮崎キャンプが始まって12日目の土曜日、今日こそ長嶋茂雄が「背番号3」を披露するというウワサがまことしやかに流れていた。  ただ、それだけの話である。

ラガーマンの決断 ラグビー・村田亙

「オレも、もう少し若かったらなァ……」  人生の大切な局面において決断できなかった理由を、年齢のせいにする人間に仕事のできる者はいない。  日本一のラグビー界においてプロ第一号となり、フランスのラグビーリーグでプレーする村田亙が本場のラグビーを意識するようになったのは、‘91年の第2回ワールドカップ直後のことだった。

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