工藤は言ったものだ。 「関川のスイングを観察していたら、どこが苦手でどこが得意か、どんなコースを待っているか、どんなボールを狙っているかすべてわかりました」
「もう勝てないかと思った。勝つことがどれだけ難しいか、26年やってあらためて感じましたね。忘れられない1勝になります。家でかあちゃんが泣いてるらしいよ」 横浜のサウスポー工藤公康が2007年5月23日、グッドウィルドーム(現西武ドーム)での西武戦で移籍後初勝利をあげた。
念願の大関獲りは初場所に持ち越しになったとはいえ、貴花田が大鵬、北の湖級の逸材であることに異を唱える者はいまい。足腰が強い上に、まわしを切るのが途轍もなくうまく、先述した立ち合いの際の親指の向き以外におおきな欠点は見当たらない。完全無欠の素材といっていいだろう。
ビデオテープを何度も見ると気づくのだが、仕切り線よりも後方から仕切ることによって確かに出足が鋭くなった反面、バタバタといささか慌ただしい。土俵の上を走っているような印象は、大関、さらには横綱を目指す力士にしては少々、安定感に欠けるのではないか。自分より一回りも二回りも大きな力士と戦わなければならないというハンディがあるにしても、である。
数ある格闘技の中で、最も短時間で勝負のつくのが相撲である。参考までに言えば、九州場所千秋楽の中入り後、一取組あたりの平均所要時間はわずか9.4秒だった。「相撲は立ち合いがすべて」といわれる所以である。まさしく、攻撃こそ最大の防御、立ち合いでの“待った”の多さは、スポーツの種類こそ違うが陸上100メートル走のスタートのフライングに匹敵する。ともにミクロの単位でも相手より早く立ちたい、出たいという意識がフライングを生む原因と考えられる。
メディアの視線は松井にばかり集まっているが、どちらが全米を席巻するような活躍をするかとなれば、それは3年目を迎えるイチローだろう。ルーキーの年、イチローは打率3割5分、56盗塁、127得点で二冠に輝き、116勝というメジャーリーグ最多タイ記録に貢献してMVPまで獲得した。今季はそれを上回るパフォーマンスを披露しそうな予感が漂っている。
エキシビジョンゲームでの松井のバッティングを見ていて気になったことがもうひとつあった。それは三振がきわめて少ないことだ。3月18日現在、41打席で松井はわずか2つしか三振を喫していない。空振り三振にいたっては、わずかに16日のアストロズ戦での1度だけ。これもハーフスイングを空振りにとられたもので、豪快な空振り三振というイメージには程遠かった。
マリナーズのイチローが「天才」と呼ばれるのは、こうした芸当をいとも簡単にやってのけるからだろう。 3月7日(現地時間)のジャイアンツ戦、イチローはサウスポーのスコット・エアーから右中間スタンドに特大アーチを架けた。打球はきれいな放物線を描き、ピオリアの青空に溶けていった。打ったのは3打席目、カウント0−1からのストレートだった。
いくつか疑問が残る。ワンポイントではあったにしろ、なぜあの場面で疲れの残っていた川口をリリーフに起用したのか。ライオンズの森監督は「これで最終戦に川口は使えない」と判断し、「広島が勝ちに来てくれたので助かった」と本音を漏らしている。 果たして川口を使うべきだったか、最終戦に温存しておくべきだったか。どっちが正しい選択だったかは誰にもわからない。勢いに乗るカープとしては自軍に傾いた流れを止めたくなかっただろうし、当初から「7戦勝負」を打ち出していたライオンズとしては、カープの切り札である川口を最終戦前に引きずり出し、叩いておきたかったに違いない。先にも述べたが、川口の投入はまさに賭けであり、リトマス試験紙に落とした1滴の雫だったのだ。
とはいえ肉眼で見る限り、運命のボールは失投ではなかった。見逃せばインコース高目のボール球。3球勝負も川口の「焦り」と見るのは間違いだろう。バッター・イン・ザ・ホールのカウントでズバッと勝負球を投げ込むのは、川口のピッチングの真骨頂、むしろ、それこそが川口の持ち味だった。 にもかかわらず、なぜ川口は痛打されてしまったのか。打った鈴木が巧かったといえばそれまでだが、理由はそれだけではないはずだ。いくつかの必然が重なり合って、偶然と見まがうドラマを生むことはあっても、その逆はありえない。やはり川口は打たれるべくして打たれたのだ。あの運命の1球は、川口がそれまでに投じた何万球の中の1球としてとらえるべきであり、さらにいえば、それは彼がその後、投げ続ける何千球かのボールとも密接に関係してくるものであると考えることもできる。
狭山丘陵の一角にある西武球場は、すりばち状になっているため、秋になるとライト後方から吹いてくる風が中空ですさぶように舞う。 試合の中盤ごろから風が徐々に強くなり、スタンドの観客は一斉にジャンパーやコートの衿を立て始めた。風雲急を告げる、と形容するほどものものしいものではないにしても、重々しい試合の空気が一変しそうな気配は、かなり濃厚に立ちこめていた。
3年連続最下位。昨季、合併問題でミソをつけたオリックスにとって、仰木彬の4年ぶりの監督復帰は、久々に放ったクリーンヒットだった。
広く知られていることだが、イチローは小学3年生から中学3年生までの7年間、ほぼ毎日、名古屋空港近くのバッティングセンターに通った。イチローによると1ゲーム25球、それを平均して5ゲーム行った。つまり、1日あたり125球のボールを打った計算になる。多い日には10ゲーム、つまり250球も打ち込んだ。これはプロ野球でいうところの“特打”に匹敵する球数である。
1994年のシーズン後、オリックス球団は吹田市にある「田中スポーツビジョン研究所」(田村知則所長)に視覚機能の測定を依頼した。イチローにいくつかの検査を試みたところ、際立って高い数値を示す項目が浮上した。 テストはコンピューターの画面に、8桁の数字を0.1秒だけ表示する。文字のサイズは縦1.2cm、横1cm。正解数は平均して4桁のところを、イチローは6桁から7桁の数字を言い当てることに成功したのである。
「他の選手が“速いな!”と驚いている時でも、僕の目には遅く見えることがある」 サラリとイチローは言った。 その口ぶりには気負いも、執着もない。 目深にかぶった帽子のひさしから時折のぞく目はギリッとしてりりしいが、人を威圧するほど鋭くはない。 今から45年前の夏、“打撃の神様”川上哲治はこう言って周囲を驚かせた。 「ボールが止まって見える」 多摩川のグラウンドで緩いカーブを打っている時、ふっと自分が打つポイントでボールが止まった。おやっと思って、同じボールを要求すると、また止まる。次のボールも、また次のボールも……。神様と呼ばれた男でも、そんな神秘的な体験は初めてのことだった。
アジア大会100メートル準決勝の当日、伊東から小山に電話が入った。 「先生、スタートで出遅れないためにはどうすればいいでしょう」 小山は答えた。 「スタートに意識をとられる必要はない。それよりもピックアップ(スタートしてからトップに入るまでの動作)の距離をあと2歩ばかり伸ばせないかなあ。そうすれば(9秒台が)出ると思うよ」
「何か別世界にいるような感じでした。夢の中を走り終え、目がさめると、ゴールの2メートルくらい先にランニングタイムが出ていた。9秒99、アレッて感じでした。まだ余力を残していたし、タイムにこだわったわけでもなかった。確実に(準決勝では)1番に入り、決勝では金をとる。考えていたのは、そのことだけでしたから……」 昨年12月13日、バンコクでのアジア大会、陸上男子100メートル準決勝で日本の伊東浩司は10秒00という脅威の日本記録をマークした。
高校野球史上最高の名勝負は何か? と問われれば、私はイチにもニもなく1969年夏の決勝、松山商対三沢高戦をあげる。三沢には“伝説のエース”太田幸司がいた。
「ちょっと技をかけてくれないか……」 冗談のつもりで右手を差し出すと、太り気味のイギリス人は目にも止まらぬ速さで私の腕をとり、あっという間にロックしてしまった。 次の瞬間、ヒジの関節に鈍い痛みが走り、恥ずかしながら私は大声を出してしまった。
フットボールとは「球戯」である。「球」と「戯」れると書く。「球技」は誤りだと私は考える。蒸し返すようで恐縮だが、加茂前監督の最大の失敗――それは相手の長所を消すことに腐心するあまり、自らが楽しむことを忘れたことにあったのではないか。守りに重きを置いた愛着のない3バックシステム(日本の場合、両アウトサイドを含めて5バックのような陣形になっていた)の採用は、選手に戸惑いを与えこそすれ、歓迎されるものではなかった。
歓喜は唐突に訪れた。 延長後半13分、呂比須ワグナーの前線からのチェイスで奪ったボールを中田英寿が右サイドから強引にドリブルで割って入り、一瞬の躊躇もなく左足を振り抜いた。GKアベドザデーが弾く。そのこぼれ球を猛然と走り込んだ岡野雅行がスライディングしながら右足で押し込んだ。 フランスへの延長Vゴール。第5回スイス大会の予選に参加して依頼、43年目にして初めて掴んだワールドカップの出場切符。かくして10週間にわたって繰り広げられたアジア地区最終予選はハッピーエンドで幕を閉じた。日付のかわった11月17日は、この国にとって歴史的な日となった。
マイケル・ジョーダンに憧れてバスケットボールを始めた。少年の頃はいつも4つ年上の兄と一緒にジョーダンのプレーを食い入るように見つめていた。 15歳の夏、仲西淳少年は運命的な出会いを果たす。ジョーダンが主催するバスケットボールキャンプに参加したのだ。場所はロサンゼルス。
バントをしない2番打者――今から3年前、ファイターズの小笠原道大はそう呼ばれた。 通常、2番打者というと、バントやエンドランを得意とする“小細工のきくバッター”をイメージしがちだが、小笠原はその対極に位置していた。
国際化に向けた動きに水を差すとんでもないヤツがいる。悪役といえば、ここ。そう、天下の読売ジャイアンツである。 球団独自の改革案として、昨年8月、巨人は次のような文書を「制度改革委員会」に提出した。
それは“黒船襲来”を思わせる外電だった。 「10年以内に真のワールドシリーズを行いたい」 昨秋、ドジャースのピーター・オマリー会長は、壮大なプランをブチ上げた。オマリー会長といえば、野球をオリンピックの正式種目に組み入れることに功績のあった凄腕の実業家。単なる打ち上げ花火とは思えない。早速、オマリー会長に取材を申し込み、発言の真意を問いただしてみた。