車いすテニス

16歳のプロ車いすテニスプレーヤー・小田凱人、「ヒーローになる」一歩へ

 28日、ちょうど1年前にプロ転向を宣言した車いすテニスプレーヤーの小田凱人(おだ・ときと)が都内で記者会見を開き、日本生命とのスポンサー契約締結並びに自身がゼネラルプロデューサーを務める国際テニス連盟(ITF)公認大会 […]

大川誠(凸版印刷スポーツビジネスデザイン室ビジネス開発部)<前編>「得意分野で新規参入」

 凸版印刷株式会社は、創業120年以上の歴史を誇る印刷会社だ。近年同社はパラスポーツ支援に注力しており、2014年にスポーツ専従社員制度を導入。現在、障がいの有無を問わず5人のアスリートを雇用している。2015年にはパラ […]

坂口剛(日本車いすスポーツ協会代表理事)<前編>「“遊び場”はバリアがあったほうがいい」

 一般社団法人日本車いすスポーツ協会(クルスポ)は共生社会を目指し、車いすスポーツの推進活動を行っている。代表理事を務める坂口剛氏は、2009年に浦安ジュニア車いすテニスクラブ(現・車いすスポーツクラブ ウラテク)を創設 […]

齋田悟司(車いすテニス)第4回「世界一に繋いだチャレンジのバトン」

二宮: アテネパラリンピックの男子ダブルスで金メダルを獲得した後も、北京とロンドンの2大会に続けて出場しました。齋田: 北京大会ではシングルスはベスト8でしたが、国枝慎吾選手と組んだダブルスでは銅メダルを獲ることができま […]

齋田悟司(車いすテニス)第3回「”5年計画”で掴んだ金メダル」

伊藤 1999年に練習拠点を千葉県柏市に移し、翌年のシドニーパラリンピックで2度目の出場を果たしました。齋田: 当然、シドニーでは結果を残したい気持ちもありましたが、99年に新たにスタートした時はすでに5年後を目標にして […]

齋田悟司(車いすテニス)第2回「世界を目指すきっかけとなった敗戦」

伊藤: 車いすテニスを始める前は車いすバスケットボールをプレーしていたとお伺いしました。齋田: はい。今44歳なんですが、車いすバスケをやっていたのはもう30年も前になりますね。小学生の頃は野球をやっていたのですが、12 […]

齋田悟司(車いすテニス)第1回「8年ぶりのメダルで手にしたもの」

 44歳のベテラン齋田悟司選手は、リオデジャネイロパラリンピックの車いすテニス男子ダブルスで国枝慎吾選手とのペアで8年ぶりの銅メダルを掴んだ。これまでパラリンピック6大会連続で出場し、2004年アテネパラリンピックの金メ […]

眞田卓(車いすテニス)第4回「自分との闘いに勝ち、更なる高みへ」

二宮: テニスをやっていた下地もあるのでしょうが、眞田選手のショットはパワフルで、プレーはものすごく豪快な印象です。理想の選手像は?眞田: 私は座右の銘に「現状打破」を掲げてやっています。”昨日より、今日。今 […]

眞田卓(車いすテニス)第3回「車いすテニスとの出合い」

伊藤: 眞田選手は19歳の時に交通事故で、ケガを負われたとお聞きしました。眞田: バイクを運転中に車と正面衝突をしてしまったんです。右足の大腿の2分の1未満を切断しました。 伊藤: そこから車いすテニスとは、ど […]

眞田卓(車いすテニス)第2回「”教訓”となったインチョンアジアパラ競技大会」

伊藤: 昨年のインチョンアジアパラ競技大会では、銀メダルを獲得しました。リオデジャネイロパラリンピックへ大きな手応えを掴めたのではないでしょうか?眞田: 大会ではロンドンパラリンピックの時とは違った気持ちで、日の丸を背負 […]

眞田卓(車いすテニス)第1回「がむしゃらに突っ走ったロンドンパラリンピック」

 2012年ロンドンパラリンピックに25歳で初出場した車いすテニス日本代表の眞田卓選手。本格的にパラリンピックを目指してから、約1年で、その切符を手にした逸材である。2014年にはインチョンアジアパラ競技大会では、決勝で […]

石井重行(オーエックスエンジニアリング社長)第4回「カーボン時代の到来」

二宮: 2カ月後にはいよいよロンドンパラリンピックが開幕しますが、陸上用レーサーは4年前の北京の時とはどの部分が進化しているのでしょうか?石井: 今回はメインフレームの断面の形状ではなく、素材そのものが変わりました。これ […]

石井重行(オーエックスエンジニアリング社長)第3回「常に進化し続けるオーエックスの技術」

二宮: アトランタ以降、オーエックスエンジニアリングが開発・製造した競技用車いすに乗った選手が獲得したメダルは計90個にものぼります。陸上だけでなく、車いすテニス、車椅子バスケットボールの選手にも高く評価されていますね。 […]

石井重行(オーエックスエンジニアリング社長)第2回「世界へ発信したアトランタ」

二宮: オーエックスエンジニアリングのレーサーは、アトランタパラリンピックをきっかけに世界に注目され始めました。それまではほとんどの車椅子が米国社製だったそうですね。石井: はい。日本人選手も米国社製を輸入して乗っていた […]

石井重行(オーエックスエンジニアリング社長)第1回「車椅子づくりの原点」

 1996年のアトランタパラリンピックは日本の車椅子メーカーにとって画期的な大会となった、陸上競技で2人の車椅子ランナーが金メダルに輝いたのだ。両ランナーが乗っていた競技用車椅子(レーサー)には「オーエックスエンジニアリ […]

丸山弘道(車いすテニスナショナルコーチ)第4回「指導者に必要な2つの”たんきゅうしん”」

二宮: 現在、日本では車いすテニスの指導者はどのくらいいるのでしょう?丸山: 具体的な数字まではわかりませんが、結構いると思いますよ。ただ、車いすテニスのコーチだけでは生計は立てられないので、いわゆるボランティアという感 […]

丸山弘道(車いすテニスナショナルコーチ)第3回「選手の身体を知ることの大切さ」

二宮: 車いすテニスの選手には、骨肉腫などの病気で足を切断した選手もいれば、交通事故などで頚椎損傷、脊椎損傷を負い、下半身不随になった選手もいます。指導者は単にテニスを教えるだけでなく、こうしたそれぞれが抱えている事情を […]

丸山弘道(車いすテニスナショナルコーチ)第2回「一目ぼれだった国枝慎吾との出会い」

二宮: 今や車いすテニスと言えば、世界のトップまで上りつめた国枝慎吾選手なしでは語ることはできません。2007年には車いすテニス界では史上初のグランドスラム(全豪、ジャパンオープン、全英、全米の4大大会を制覇)を達成。翌 […]

丸山弘道(車いすテニスナショナルコーチ)第1回「”出会い”と”発見”の連続」

 2008年北京パラリンピックではシングルスで悲願の金メダルに輝いた車いすテニスプレーヤー国枝慎吾。彼をジュニア時代から育成し、世界王者へと導いたのが丸山弘道だ。丸山が車いすテニスの指導を始めたのは今から14年前。あるプ […]

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