大学野球

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)最終回「唯一無二の“嫌がられるバッター”へ」

 亜細亜大学に進学した長曽我部竜也の公式戦デビューは、2年の春に訪れた。2012年5月24日、青山学院大学戦。大学野球の聖地、明治神宮球場の打席に初めて立った長曽我部は、足の震えが止まらなかった。 「これまでにないというほど、緊張していましたね。ピッチャーの後ろのバックスクリーンがものすごく高く見えて、圧倒されました」  がむしゃらにバットを振ったが、ボールは一向に前には飛ばない。そんなことは初めてだった。結果は四球。 「やっぱり一流のピッチャーは違うな……」  東都大学野球リーグのレベルの高さを、長曽我部は改めて感じていた。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第4回「悔いなき高校野球」

 長曽我部竜也が2年の夏、新田高校は愛媛県予選でベスト16にとどまった。前年は「まだ次がある」という気持ちがあった長曽我部だったが、この時はもうそんな余裕はなかった。入学時には5回あった甲子園へのチャンスは、いつの間にか春夏1回ずつを残すのみ。改めて甲子園に出場することの難しさを感じていた。そして新チームで臨んだ秋季大会も初戦敗退に終わり、センバツへの道は消滅。長曽我部はラストチャンスにすべてをかけるべく、それまで以上に練習に打ち込んだ。そして、最後の夏が訪れた――。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第3回「待ち受けていた“野次”と“ケガ”」

 野球を始めたきっかけが兄へのライバル心なら、厳しい父親の指導のもと、野球を続けた理由のひとつもまた兄の存在だったという長曽我部竜也。彼が兄と同じ新田高校を進学先に選んだのも必然だったのだろう。そしてもうひとり、長曽我部に大きな影響を与えた人物がいる。現在、同校野球部監督で、当時はコーチを務めていた岡田茂雄だ。 「絶対に新田に来いよ」  兄の練習を見に、高校のグラウンドを訪れると、必ずと言っていいほど岡田にそう声をかけられたという。長曽我部もまた、情熱的に指導する岡田の姿に魅了され、「岡田先生と一緒にやりたい」という気持ちが強くなっていった。そして2008年、長曽我部は新田高校野球部の一員となった。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第2回「“星一徹”張りの父親の存在」

「兄ちゃんばっかり、ずるい。僕にも教えて!」  そう言って、4つ上の兄にライバル心を燃やしたのが、長曽我部竜也の野球人生のスタートだった。父・大介は当時のことをこう語る。 「長男が小学校に入ってソフトボールをやり始めたんです。それで私が教えていたら、まだ幼稚園の年中くらいの竜也が『僕もやりたい』って言って来たんです。お兄ちゃんにやきもちをやいたんでしょうね。ブカブカの大きなグローブをはめて、一緒にやっていましたよ(笑)。負けたくない一心からか、ボールに対してはまったく怖がらなかったですね」  父・大介は当時のことを思い出したのだろう。電話の向こうで、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第1回「崖っぷちでの原点回帰」

 今春、東都大学野球リーグでは新たな歴史の1ページが刻まれた。亜細亜大学が、戦後史上初となる6季連続優勝を達成したのだ。「戦国」とも言われるほど、強豪揃いの同リーグにおいて、この記録はまさに快挙。その立役者となったのが、國學院大学との優勝決定戦、最終戦で決勝打を放った長曽我部竜也である。しかし、決してチームは順風満帆だったわけではなかった。長曽我部はこう語る。 「最初は優勝どころか、監督には『2部降格もある』と言われていたんです」  そんなチームを優勝へと導いたのは、長曽我部たち4年生の結束力だった。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第4回 野球人生の集大成

 2014年5月25日、東京大学は春のリーグ最終戦を迎えていた。相手は史上最多44回の優勝を誇る法政大学。有井祐人は前日に続いてのスタメン出場となった。開幕前にヒザを故障した有井は前日、シーズン初のスタメン入りを果たしていた。だが、2打席連続で三振した有井に、浜田一志監督は交代を命じた。 「これで明日の最終戦でのスタメンはないな、と思いました。2打席とも、あまりにも内容の悪い三振でしたから……」  ところが翌日、打順は6番に下がったものの、有井は再びスタメンに選ばれたのだ。気合いが入らないわけはなかった。しかし、それが空回りする。1打席目、またも三振。果たして、このまま最後の春を終えてしまうのか――。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第3回「『お父さん』と呼べなかった週末」

「ちょっと観に行ってみようか」――父・豊のこの言葉が、有井祐人の野球人生の始まりだった。子どもの頃、有井は週末になると、父親と一緒によく港に釣りに出かけた。「小さいうちに、自然を学ばせたかった」という気持ちが、豊にはあった。その2人が釣りをしていたすぐ隣のグラウンドでは、リトルリーグの練習が行なわれていた。「カキーン」という金属バットの音を聞いては、豊はソフトボールをやっていた学生時代を思い出していた。そんなある日のこと、有井が小学3年の時だ。豊が練習を見学に行こうと言い出した。 「その日は魚も釣れないし、ちょっと隣のグラウンドを観に行ってから、帰ろうかなと思ったんです」  まさか、このひと言が親子の人生を大きく変えることになろうとは、知る由もなかった。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第2回「恩師を驚かせた野球への情熱」

 今から4年前のことだ。現在、愛媛県の松山城西ボーイズの総監督を務める二宮惠信の元に、1通のメールが届いた。小学3年から中学3年までの7年間、愛媛リトルリーグ、松山ファイターズ(現城西ボーイズ)で指導した有井祐人からだった。メールを開くと、そこには驚きの内容が書かれてあった。 「まさか、こんな思いを抱きながら高校3年間を過ごしていたとは……」  衝撃にも似た感情とともに、二宮には喜びがこみ上げてきていた――。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第1回「たかが1勝、されど1勝」

「1勝」――。彼らほど、この重みと価値を感じている者たちはいないのではないか。東京大学野球部である。今年の春季リーグ、東大は全敗を喫した。これで2010年秋から続く連敗記録は76となり、東京六大学野球リーグのワースト記録を更新中だ。大学野球の雄である東京六大学野球には、プロ野球選手を多数輩出している私立の強豪校がズラリと並ぶ。その中で東大は唯一の国立大学。推薦枠もなく、甲子園経験者は皆無に近い。実力差は歴然である。だが、彼らは決して負けを当然とは思ってはいない。1勝に賭ける思いは、他大学を凌ぐと自負する。なかでも「六大学で野球をやるために東大を受験した」という熱い男がいる。主将の有井祐人だ。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)最終回「執念のピッチング」

 2012年の高校野球は、大阪桐蔭で始まり、大阪桐蔭で終わったと言っても過言ではない。春のセンバツで優勝を果たした同校は、夏も全国の頂点に立ち、春夏連覇という快挙を成し遂げた。澤田圭佑自身は甲子園で2度先発し、チームの勝利に貢献。特に夏は投げては完投、打っては甲子園初本塁打と投打での活躍を見せた。子どもの頃から夢だった甲子園での全国優勝を2度も経験した澤田。しかし、その裏では知られざる「背番号10」の苦労があった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第3回「失いかけた甲子園への道」

「人よりスピードが速いわけでも、すごい変化球があるわけでもない」  澤田圭佑はそう自己分析する。では、彼のピッチングを支えてきたものとは――。安定したコントロールを欠かすことはできない。リトルリーグ時代からコントロールに苦労したことがないと言う澤田。それは彼の負けず嫌いな性格が生み出した力だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第2回「踏み出したエースとしての第一歩」

「よし、このボールで打ち取れる」。澤田圭佑は投げた瞬間、そう思った。2ストライクと追い込んで、勝負を決めにいった内角低めのストレート。自らのボールに手応えを感じていた。ところが次の瞬間、弾丸ライナーが目の前を通り過ぎていった。澤田が振り向いた時には、打球はライトスタンドへと吸い込まれていくところだった。 「すごい……」  大学野球のレベルの高さを痛感した一発だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第1回「ライバル物語の偽らざる真相」

 2番手としてリリーフすることの多かった高校時代から一転、大学入学後、間もなく彼に与えられたのは1番手のポジションだった。今年は2年生ながら早くもエースとしての座を確立しつつある。大阪桐蔭高校から昨年、立教大学に進学した澤田圭佑だ。「与えられた役割を一生懸命にやるだけ」と語る澤田。1番手でも2番手でも、やることや気持ちは何ら変わらない。だからいつの間にかつくりあげられた高校時代の「物語」に対しては、こう語気を強める。「彼とは一度もライバル関係になったことはない」と――。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)最終回「まだ見ぬ頂点へ。最後にかける思い」

「それじゃダメだ」  高校3年の春、上田晃平にそう声をかけたのは東映、巨人で投手として活躍した高橋善正だ。当時、高橋は母校の中央大学野球部の監督を務めていた。知人から「愛媛にいいピッチャーがいる」と聞いて、わざわざ南宇和高校に足を運んだのだ。その日、練習試合が行なわれる予定だった。上田は当然意気込んでいたが、不運にも雨天中止となった。そのため、ブルペンで上田のピッチングを見ていた高橋は、こう上田にアドバイスをした。 「130キロのボールでも、コーナーを突けば、大学でも十分に通用する。スピードよりもコントロールを意識して投げなさい」  そして、こう続けた。 「ゆっくりとした遅いスローカーブを投げてみろ」  これが上田のピッチングが大きく変わるきっかけとなった。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)第4回「仲間思いの“お山の大将”」

「人なつっこい子だなぁ」  上田晃平が高校3年となった春、南宇和高校に新米教師として赴任し、野球部部長に就任した近藤輝幸(現・新居浜東高野球部監督)は、上田の第一印象をこう語った。 「野球の能力が高いことはすぐにわかりました。練習でも自主練習の時間はチームから離れて、自らが課したノルマを黙々とこなしていましたし、将来が楽しみな選手だなと思いました」

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)第3回「地元から目指した甲子園」

 宇和島東、今治西……愛媛県の強豪、甲子園の常連でもある高校から中学3年時、上田晃平は誘いを受けていた。父・秀利によれば、当時通っていた硬式野球のチームにはPL学園や大阪桐蔭といった名だたる名門からの誘いも届いていたという。上田本人はというと、第一志望は宇和島東だった。 「途中から入った硬式野球のチームのメンバーがほとんど宇和島東に入ったんです。宇和島東の監督さんも学校に来てくれたりもしていましたし、またみんなで一緒にやりたいなという気持ちはありました」  だが、上田が最終的に選んだのは南宇和。一度も甲子園経験のない地元の高校だった。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)第2回「生まれ持った“野球好き”」

「正直、いつから野球をやっているのか、何がきっかけだったのか、覚えていないんです」  上田晃平は自らの野球人生のスタートをほとんど記憶していない。ものごころついた時には、既に野球少年になっていたのだという。それもそのはずだ。野球選手だった父親とソフトボール選手だった母親をもつ上田にとって、生まれた時から野球は最も身近なスポーツだった。父親の草野球の試合を見に行ったり、練習ではボール拾いを手伝ったり、家に帰れば、父親と好きな巨人戦をテレビで観たり……。上田の周りには常に野球があった。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)第1回「“個”から“チーム”へ」

「今、自分が抜けるわけにはいかない……」  今夏、上田晃平は苦しんでいた。3年となった今年、春は先発の一角を担い、リーグ戦で5試合に登板して2勝1敗、防御率2.67。同級生の島袋洋奨とともにチームを牽引した。しかし、リーグ戦後の夏の遠征で右ヒジに痛みが走るようになった。監督やコーチに告げようかどうか悩んだが、自分の立場を考えると、チームを離れるわけにはいかなかった――。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)最終回「目指すはアマ・ナンバーワンのキャッチャー」

「この人はすごい……」  2010年に法政大学野球部へ入部した木下拓哉は、入寮直後、法大と社会人チームのオープン戦を見学していた。木下は試合に出場していた先輩キャッチャーに衝撃を受けた。当時4年生だった廣本拓也(現日本生命)である。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第3回「備えていた“野球を見る眼”」

「木下は野球を見る眼がすごく優れていたんです」  島田達二は木下拓哉をキャッチャーに指名した理由をこう明かした。だが、なぜ木下をキャッチャーにコンバートする必要があったのか。当時の高知高では、2年生と木下の同級生の2人がキャッチャーを務めていた。しかし秋季大会が終わると、同期のキャッチャーが休部状態になった。そのため、もう1人、キャッチャーをつくる必要性が出てきたのだ。そこで島田が指名したのが木下だった。では、「野球を見る眼」とはどういうことだったのか。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第2回「野球人生を変えた野手への転向」

 小学校に入る前、木下拓哉がいつも目にする光景があった。4つ年上で地元の少年団で野球をしていた兄と父親がキャッチボールしている姿だ。「僕もやりたいなぁ」。木下はそんな思いを募らせていた。すると、入学した小学校には野球が好きな同級生が多かった。みんなすぐに野球仲間となり、1年の頃は「公園などで遊ぶ時はいつも野球だった」という。そして、木下は2年から少年団に入り、本格的に競技として野球を始めた。ポジションは現在務めているキャッチャーではなく、ピッチャー。彼は「野球をやるなら“ピッチャーで4番”というイメージを持っていました」とピッチャーを志望した理由を懐かしそうに振り返った。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第1回「名門を勝利に導く扇の要」

 法政大学野球部は東京六大学野球リーグでは最多の44回、大学日本選手権8回、明治神宮野球大会3回の優勝を誇る。そんな大学球界屈指の名門の正キャッチャーを務めるのが木下拓哉(4年)だ。昨年の六大学野球秋季リーグからレギュラーとしてマスクをかぶるようになった。その秋季リーグではベストナインに選出される活躍を見せ、法大の7季ぶりの優勝に貢献。プロのスカウトからも注目され、今秋のドラフト指名候補として挙げられる期待のキャッチャーである。

石橋良太(拓殖大学野球部/明徳義塾高校出身)最終回「投手転向への道のり」

「石橋、ちょっと投げてみろ」  高校2年の夏、高知県予選を前にしたある日のことだ。その日は雨が降っていたため、雨天練習場で練習をしていた。すると、馬淵史郎監督が石橋良太を呼び寄せた。石橋にはなぜ呼ばれたのか、監督が何を考えているのか、わかっていた。当時、チームは投手のコマ不足という事情を抱えていた。そこで投手経験のある石橋をテストしようとしていたのだ。 「できてもうたら、どないしよう……」  石橋としては野手に専念したいという気持ちが強かった。だが、結果は「合格」。石橋はそのままの流れで、新チームではエースとなった。これをきっかけに、石橋はその後、“野手”から“投手”への道を進むことになるのであった。

石橋良太(拓殖大学野球部/明徳義塾高校出身)第3回「プライドをもって臨んだ甲子園」

「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。 「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」  ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。

石橋良太(拓殖大学野球部/明徳義塾高校出身)第2回「“常勝”から“史上最弱”へ」

 石橋良太には歳の離れた2人の兄がいる。幼少時代はサッカーに夢中になっていた石橋だが、2人の兄の影響もあって、小学1年から地元大阪府堺市の軟式野球チーム「長曽根ストロングス」に入った。最初は特に野球が好きだったわけではなかったという。野球が面白いと思い始めたのは小学4年の時。自分がピッチャーとして投げた大阪府の大会で優勝し、それをきっかけに勝つことに快感を覚えたのだ。

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