1998年はブラジルサッカー界にとってひとつの転換点となった年だった。 3月に『法律9615』――通称・ペレ法が制定されたのだ。これはフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下でスポーツ大臣を務めていたペ […]
今や有能なアスリートに国境はない。多くの日本人選手が国外のクラブにその力を認められて移籍している。しかし、約20年前はそうではなかった。稲川朝弘が初めて日本人選手の国外移籍を手掛けたのは1998年のことだ。 […]
1997年のシーズン前、稲川朝弘はブラジル人ミッドフィールダーのリカルジーニョを名古屋グランパスのキャンプが行われているオーストラリアに送った。 この頃から稲川は、Jリーグ各クラブの強化担当者との繋がりがで […]
1995年、稲川朝弘は代理人として、ヴェルディ川崎の選手だった菊原志郎を浦和レッズにレンタル移籍。さらに鋤柄昌宏、名古屋グランパスの浅野哲也の移籍を手掛けている。しかし、これは苦肉の策でもあった。ヴェルディには三浦知良 […]
――ワールドカップでは最良のサッカーをする国は優勝しない。 フランスとクロアチアを観ながら、そんなジンクスを思い出していた。1974年のオランダ、82年のブラジル、あるいは94年のアルゼンチン――どこもカップ […]
1993年にスタートしたJリーグは、欧州や南米のサッカーリーグ、そして日本のプロ野球(NPB)などを研究の上、制度設計が成されていた。 球団名からホームタウンをはっきり明記し親会社の名称を外す、という英断は […]
1993年5月15日、Jリーグが開幕した。前日の雨が上がり、昼過ぎからは国立競技場に向かう人たちで千駄ケ谷駅近辺はごったがえしていた。試合に先だって『TUBE』のボーカリスト、前田亘輝が君が代を独唱。Jリーグの公式テー […]
1991年は日本サッカーの次世代への胎動の音が大きくなった年であった。 2月にプロリーグに参加する10チームが決定した。後にこれらは「オリジナル10」と呼ばれることになる。その内訳は、(日本サッカーリーグ) […]
1989年1月、昭和天皇の崩御により、昭和が終わり、平成が始まった。日本サッカー界も新たな時代が動き出した年でもあった。 3月、日本サッカーリーグ(JSL)内の「第二次活性化委員会」が「日本サッカーリーグの […]
人生における選択は、本人が必死で考えたのだと思い込んでいても、後から時代の流れに何らかの形で背中を押されていたと気がつくものだ。 1984年夏、大学3年生だった稲川朝弘はコーチとして母校である日大藤沢をイン […]
高校2年、稲川朝弘は愛知高校から日本大学藤沢高校に転校している。なぜこの学校を選んだのかと訊ねると、「テストなしで入れてくれるというので入った」と笑った。そしてサッカー部も強豪校のひしめく神奈川県の中では凡庸だった。「 […]
李忠成をイングランドのサウサンプトンFCへ、前園真聖をブラジルのサントスFCとゴイアスFCに移籍させる。またウェズレイを名古屋グランパス、レアンドロ・ドミンゲスを柏レイソルに連れてくる。あるいは日本代表で頭角を現しつつ […]
2005年、安永聡太郞は横浜F・マリノスから柏レイソルに移籍した。岡田武史監督の下でJリーグ連覇を成し遂げたクラブの中で居場所を失っていたのだ。 2004年シーズン、入れ替え戦に回り、アビスパ福岡を破ってか […]
このシリーズの1回目に書いた、安永聡太郎にとって2度目のスペイン移籍――ガリシア州フェロールでの生活は半年で終わることになった。 安永はこの街のクラブ、ラシン・デ・フェロールで、フォワードの一角として12試 […]
燻っていた火が一気に燃え上がったのは、2001年9月のことだった。 2001年シーズン、第1ステージから安永聡太郎は清水エスパルス監督のズドラヴコ・ゼムノヴィッチに不満を募らせていた。 ゼムノヴ […]
1998年10月28日、横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併に向けて動いていることが発覚した。 フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が経営不振に陥っており、もう1つの出資会社、全日空もクラブを支え […]
1998年1月、クリスマス休暇が明けて、スペインリーグ2部が再開した。 98年6月、安永聡太郞は1年間のスペインリーグ2部、ウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・D(以下、リェイダ)でのレンタル移籍を […]
1998年1月、クリスマス休暇が明けて、スペインリーグ2部が再開した。 横浜マリノスからウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・D(以下、リェイダ)にレンタル移籍していた安永聡太郞の契約は、このシーズン […]
1997年、安永聡太郞は横浜マリノスからレンタル移籍でスペインに渡っている。清水商業高校から横浜マリノスに入る際、国外留学の約束をとりつけていたのだ。 安永が加入することになったのは、カタルーニャ州リェイダ […]
1996年3月24日、オリンピック日本代表は準決勝のサウジアラビア戦で2対1と勝利。アトランタオリンピック出場権を獲得した。 28年ぶりのオリンピック出場権を獲得したことで、日本代表には大きな注目が集まって […]
Jリーグというプロ化によって、日本のサッカー選手は逞しくなり、世界に名乗りを上げられるようになった――。 いわゆる“ドーハの悲劇”で94年ワールドカップアメリカ大会の出場権は逃したものの、95年 […]
安永聡太郞の人生に大きな影響を与えることになる、スペインサッカーとの遭遇は衝撃だった――。 1995年4月、カタールで20歳以下の選手によるワールドユースが行われた。自国開催の79年以来2度目の出場権を獲得 […]
1976年4月20日、安永聡太郞は山口県宇部市で生まれている。 最初の転機となったのは、中学3年生のときだったという。 「全国9地域から集まる、地域ユース対抗戦という大会があったんです。ぼくはまず中国地方代表 […]
あいつはどうしているのだろう。 ふとしたとき、記憶の奥底からゆらゆらと顔が浮かんでくるような知人が誰にでもいるはずだ。決して親しくはない。しかし、何かが引っかかり、気になる人間――。 安永聡太郞 […]
松原良香が望月重良から電話を貰ったのは、2015年11月のことだった。 元日本代表の望月は松原より1つ年上にあたる。静岡市生まれで清水商業の望月に対して、松原は浜松市生まれで東海第一高校。同じチームに所属し […]