2002年、要田勇一の所属していた静岡FCは東海社会人リーグで優勝、JFL昇格を賭けて全国地域リーグ決勝大会に進出した。富山で行われた第一ラウンドを勝ち抜き、11月22日から大阪の鶴見緑地運動公園で行われる決勝ラウンド […]
部屋の受話器を取ると、「おう、俺だ、納谷だ」という、だみ声が聞こえてきた。 まだ日は昇っておらず、窓の外は真っ暗だった。納谷とはいったい誰だ。そんな知り合いがいただろうかと要田勇一は首を傾げた。そもそもスペ […]
2002年1月、日本人留学生のコーチでもあった、リチャード・モワールの手配により、要田勇一はデポルティーボ・ラコルーニャのBチームの練習に加わることになった。 「(デポルティーボの本拠地であるリアソル)スタジ […]
2002年1月13日の夜――。 ぼくは要田勇一と共にスペインの北西部、ガリシア州のラコルーニャのバールにいた。日曜日の夜ということもあり、店内はがらんとしており、テレビにレアル・マドリード対バレンシアの試合 […]
2002年1月10日、東京は朝から冬の青い空が広がっていた。ぼくは成田空港からフランクフルト行きのルフトハンザに乗った。正月明けの客たちだろうか、ほぼ満席だった。フランクフルトで飛行機を乗り換えてマドリードに到着。別便 […]
2000年シーズン、横浜FCは2年連続でJFLを優勝し、J2昇格を決めた。背番号10を与えられた要田勇一は10試合出場、3得点という成績だった。 シーズン終了後、要田を重用していた監督のピエール・リトバルス […]
1999年3月、要田勇一が東京行きの準備をしていたとき、ヴィッセル神戸でチームメイトだった神野卓哉から連絡があった。 70年生まれの神野は修徳高校から、横浜マリノスの前身となる日産自動車サッカー部に入ってい […]
予兆は全くなかった、という――。 1997年10月、要田勇一にとってヴィッセル神戸に入って2年目となるシーズンが終了した。神戸はファーストステージ17チーム中14位、セカンドステージは最下位に沈んだ。このシ […]
要田勇一は1996年4月にヴィッセル神戸に入っている。 前回で触れたように阪神淡路大震災の余波で、メインスポンサーとして予定していたダイエーが撤退。厳しい経営状態にあった。その影響はチーム構成にも及んでいた […]
1995年夏、高校3年生となっていた要田勇一は、進路を決める時期となった。 兵庫県内ではそれなりに名前を知られる選手にはなっていたが、所属する神戸国際大学附属高校ではインターハイ、高校選手権ともに全国大会に […]
子どもの時に受けた強い印象が、躯の奥底にまで染みこんで、一生を左右することがある。要田勇一はそんな人間のひとりである。 彼が初めて憧れたサッカー選手は、ブラジルから読売クラブに加入したばかりの細身の若者だっ […]
要田勇一と初めて会ったのは、2001年5月末のことだ。要田の弟・章と知り合った翌週のことだった。 要田兄弟、そして章の大学の友人たちと新宿で食事をしながら軽く飲むことになった。要田は175センチほどで細身、 […]
取材相手との距離の取り方は、難しい。相手との一定の信頼関係がなければ、深い話を聞くことはできないものだ。 ナベツネこと、渡邊恒雄は『渡邊恒雄回顧録』の中でこう書く――。 <僕は、新聞記者というもの […]
稲川が代理人としての仕事を始めたのは、92年のことだ。 Jリーグバブルだったその時期、年上の代理人たちがサッカー界を動かしていた。稲川の言葉を借りれば「経験値はないし、人生語れないし、当分駄目だなと思いまし […]
身体的能力が高く、技術のあるサッカー選手は世界中に転がっている。サッカークラブは金さえあれば、そうした選手を掻き集めることができる。 ただし、ごく一部のクラブを除いて、資金には限りがある。それぞれのクラブは […]
サウサンプトン・フットボールクラブはイングランド南部、ハンプシャー州のサウサンプトンを本拠地とするサッカークラブである。 サウサンプトン水道の最北に位置するサウサンプトンはローマ人が開いた港湾都市として街の […]
2011年1月7日からカタールで行われたアジアカップはイタリア人指揮官、アルベルト・ザッケローニが初めて挑む、中間試験のようなものだった。もちろん最終審査は、アジア予選を勝ち抜き、2014年のワールドカップで好成績を残 […]
人との関係は、それぞれの特性もあれど、いつ出会ったかも重要になってくる。その意味で代理人の稲川朝弘にとって、李忠成は特別な選手の1人だ。 柏レイソルで埋もれていた、いわば“3軍”のときに目をつけたということ […]
プロサッカー選手は、星の数ほどいるサッカー少年の中から選りすぐられた人間たちである。そんな中で、突出したごく一部を除けば、選手の才能を見抜くのは難しい。 稲川朝弘が李忠成に目をつけたのは、左足のテクニックと […]
2000年からしばらく、稲川朝弘にとって雌伏の時間であったといえる。 名古屋グランパスとコンサルティング契約を結んだことで、経済的な安定を手にしていた。しかし、そのグランパスの成績が安定しなかった。&nbs […]
2000年当時、サンパウロとリオ・デ・ジャネイロの2都市と、それ以外の地方の間にはとてつもない“情報格差”があった。 日本のJリーグはもちろん、欧州のクラブのスカウトもこの2つの州リーグ、あるいは南部のパラ […]
稲川朝弘の代理人としての地盤が固まったのは、名古屋グランパスと継続的に仕事をするようになってからのことだ。 トヨタ自動車という日本屈指の大企業の後ろ盾を持つグランパスはJリーグの中で最も資金力に恵まれたクラ […]
1999年1月、前園真聖は5カ月契約でゴイアス・エスポルチ・クルービに移籍した。 ゴイアスは1943年設立。ブラジルの中央よりやや西、首都ブラジリアから約200キロの場所に位置するゴイアス州の州都だ。ブラジ […]
国外移籍したクラブに馴染めるか、排除されるか――。 その成否は移籍初期の段階に決まる。どこの国でも外国人選手に対する目は厳しい。特に攻撃的な選手の場合、得点を挙げる、あるいは得点に絡むことで、自らの存在を周 […]
それまでの順調に口笛を吹きながら歩んできた人間が、ある時期から躓きを繰り返し、坂を下っていくことがある――。 1996年、アトランタオリンピックで日本代表はブラジル代表を破った。そのピッチでキャプテンマーク […]