松原良香が望月重良から電話を貰ったのは、2015年11月のことだった。 元日本代表の望月は松原より1つ年上にあたる。静岡市生まれで清水商業の望月に対して、松原は浜松市生まれで東海第一高校。同じチームに所属し […]
松原良香が静岡FCの監督を引き受けることになったのは、2004年シーズンが終わった後のことだった。 松原によると、あるサッカー関係者に欺されて、それまで貯めていた金を失っていたという。そんな松原の窮状を見か […]
(写真:かりゆしFC退団後、静岡FCに移籍した松原) 2004年シーズン前、松原良香は今年もかりゆしFCでプレーすべきか、心が揺れていた。 前シーズンが始まったばかりの頃、身体が思ったように動かなかった。ウル […]
2003年11月、松原良香の所属する『かりゆしFC』はJFL昇格を掛けて、全国地域リーグ決勝大会に駒を進めていた。そして第1リーグ初戦、関西代表の高田FCと対戦、3対1で勝利した。 その夜、ぼくはかりゆしF […]
取材は縁と運が必要だというのがぼくの考えだ。例えば、ある人物を取材したいとこちらが熱望していても、向こうにその気がないことがある(もちろん、それでも周辺を調べて書くという手法もあるが)。その場合、ぼくは無理に押さず、い […]
2001年シーズン途中、松原良香はJ1のアビスパ福岡に加わった。 福岡には元日本代表の三浦泰年、後に日本代表にも選出されるフォワードの山下芳輝などが所属していた。前年の2000年シーズン、アルゼンチン人指揮 […]
元ブラジル代表の故・ソクラテスがぼくにこう教えてくれたことがある。「移籍というのは、結婚と同じだよ。選手もそれぞれ個性があり、受け入れる側のクラブにも事情がある。どんなにいい選手であっても、必ず移籍が成功するわけではな […]
言葉、風習の違う国へ移籍する場合、鍵となるのは代理人である。 代理人の職務は、選手と代理人契約を結び、選手の代わりにクラブと交渉して契約をまとめることだ。契約成立の暁には、契約金あるいは年俸から一定のパーセ […]
98年のシーズン、松原良香は所属していたジュビロ磐田で1試合も出場機会がなかった。そこで松原は日本を出ることにした。頭に浮かんだのは欧州だった。 まず磐田にいた外国人選手に欧州のクラブに強い代理人を紹介して […]
1996年夏、アトランタ五輪代表が日本に戻った日の成田空港は大騒ぎだった。 到着ロビーの2階通路まで二重三重の人垣ができ、500人を越える人間が待ちかまえていた。揃いのスーツを着た松原良香たち五輪代表の選手が姿を現すと […]
1996年3月、マレーシアでアトランタ五輪最終予選が始まった。8カ国が2グループに分かれ、上位2カ国が準決勝に進出。その4カ国のうち3カ国に五輪出場権が与えられた。 日本代表はイラク、オマーン、UAEと同組に入り、2勝 […]
松原良香にとってJリーグ2年目、1995年シーズンは、ふわふわした居心地の悪いものだった。 監督だったオランダ人のハンス・オフトとはそりが合わなかったと松原は振り返る。「ぼくは監督とコミュニケーションを取りたいと思って […]
1993年は日本サッカーにとって、歓喜と悔しさの涙が混じり合った熱狂の嵐の中にいた1年だったといえる。 この年の5月、プロリーグであるJリーグが始まっている。開幕戦となったヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合 […]
松原良香は阪南大学を3日で退学した後、高校の同級生だった白井博幸の部屋に転がり込んだ。白井は東海第一高校を卒業した後、清水エスパルスに加入していた。何もせず、ごろごろしていた松原に白井も次第に呆れ、「いい加減にしろ」と […]
プロのサッカー選手は子どもの憧れの職業である――。 とはいえ、本人がどれだけ努力しても、あるいは、親が熱を上げて金や時間をかけたとしても、プロの壁を越えることは簡単ではない。才能はもちろん、運や縁が必要になってくる。サッカー選手に限らず、こうした志望者が多い職業に就く人間は、必ず周囲からの引き立てがあるものだ。
2010年10月、ぼくはブラジルのグアラチンゲタという街で松原良香と知り合うことになった。数日後、グアラチンゲタでの練習を切り上げた松原がサンパウロへやってきた。 サンパウロにはリベルダージという東洋人街がある。そこにある居酒屋で松原と食事をすることになった。
今年は武藤嘉紀がドイツのマインツへと移籍した。欧州の移籍市場が開くたび、日本の有能なサッカー選手が動くことはもはや年中行事となった。UEFA主催のチャンピオンズリーグに繫がった欧州の主要リーグのクラブは、Jリーグと比べてレベルが高いだけでなく、資金も潤沢である。日本以上の好条件を提示されて欧州に向かうことは、プロのアスリートとしては極めて理に適っている。
中村武彦がメジャーリーグサッカー(MLS)で働いているとき、物足りなさがひとつだけあった。それは、リーグ全体のために仕事をしているため、クラブチームで働いているのと違い、ひとつひとつの勝敗に一喜一憂できないことだ。選手と一体になり、彼らと一緒に勝利も敗戦も噛みしめる――。
2005年2月14日、中村武彦は8カ月のインターンを経て、メジャーリーグサッカー(MLS)に採用された。 日本人はもちろん、アジア人として初めてのことである。
語学を自分の身体に叩き込む最短かつ最良の方法は、母国語を遮断して、その言語の中に窒息するほど、どっぷりと浸かって生活することである。 その意味で、中村武彦が選んだマサチューセッツ州立大学アムハースト校アイゼンバーグビジネススクールは、最適の環境だった。
2002年の2月――。 中村武彦はマサチューセッツ州立大学アマースト校アイゼンバーグビジネススクール、スポーツマネジメントの大学院入試を受けていた。その面接の中で、将来について聞かれた。 「大学院を卒業した後、将来はどうしたいか?」 予想された質問だった。中村は躊躇なく「メジャーリーグサッカーで働きたいです」と即答した。
中村武彦は、NEC現地法人立ち上げの研修でアメリカの首都ワシントンDCに滞在していた。 ある日、昼休みに何か食べようとオフィスから出た。すると、ジャージを着た男たちが食事をしているのが目に入った。聞こえてくる話から判断すると、サッカーチームの関係者のようだった。さらに会話を聞くと、DCユナイテッドというメジャーリーグサッカー(MLS)の選手たちだと分かった。
中村武彦は、町田市立鶴川第二中学校から、青山学院高等部に進んだ。青山学院高等部のサッカー部は、後に日本代表に選ばれる山田卓也たちがいた鶴川第二中学と比べると、かなりレベルは落ちた。中村は仲間とボールを追うことは楽しくて仕方が無かったが、物足りなくなった。そこで、高校3年のときに三菱養和クラブのトライアウトを受けた。合格したのは二人だけ、中村はその一人だった。
2013年8月末、ニューヨーク――。 「初めまして。ようやく会えましたね」 中村武彦が手を差し出したとき、これまで彼と顔を合わせたことがなかったことに改めて気がついた。
監督はチームの中で最も結果を求められる立場だ。 チームの成績がはかばかしくないときに選手を交換することは、財政的に大きなリスクがある。不甲斐ない大敗、負けが込めば、最初にすげ替えられるのは監督の首だ。だからこそ、監督には大きな権限が与えられてきた。