「中田(学)さんと同じチームに行きたくて、学生時代はFC東京からの誘いを2度も断っていたんです」 山岡祐也は、当時の状況を苦笑しながら振り返った。しかし、目指したチームとは縁がなかった。他の就職先は探していなかった彼の中に「教員免許もあるし、高知に帰ろうかな……」という思いがちらつき始めた。そんな時、FC東京から3度目の誘いを受けた。「3度も誘ってくれるところはない。もう少し、バレーをやろうと思いました」。2008年7月、こうして山岡は当時?・チャレンジリーグに所属していたFC東京に入団した。
「この選手はセッターとして大学へ送り出さないといけない」 高知中学・高等学校の高等部バレーボール部監督の大基喜は、中等部から進学してきた山岡祐也を見てこう考えていた。175センチ前後のアタッカーでは大学には受け入れられないだろうという見方が理由だった。しかし、山岡が高校時代に主に起用されたポジションはアタッカー。中学時代同様、チームには柱となるアタッカーがいなかったからだ。「アタッカーとしての彼の器用さとうまさに頼らざるを得ませんでした」。大は当時の複雑な心境をこう明かした。
山岡祐也がバレーボールを始めたのは小学1年生の時だ。5歳上の姉が地元のバレーボールチームに所属していたため、よく親と一緒に体育館へ見学に行っていた。それがきっかけで、「いつの間にかチームに入っていた」という。だが、当時の山岡が本当にやりたかったのは野球だった。グローブとボールを持って、友人と公園で遊ぶのが日課だった。
バレーボールでセッターを務める選手は、自身の指示やプレーで試合の流れをコントロールし、チームを勝利に導く役割から“司令塔”と呼ばれる。ただ、それゆえに負けた時は戦犯として矢面に立たされることも少なくない。?・プレミアリーグのFC東京でセッターを務める山岡祐也は今季、そんなセッターとしての責任を感じ続けた。
「石橋、ちょっと投げてみろ」 高校2年の夏、高知県予選を前にしたある日のことだ。その日は雨が降っていたため、雨天練習場で練習をしていた。すると、馬淵史郎監督が石橋良太を呼び寄せた。石橋にはなぜ呼ばれたのか、監督が何を考えているのか、わかっていた。当時、チームは投手のコマ不足という事情を抱えていた。そこで投手経験のある石橋をテストしようとしていたのだ。 「できてもうたら、どないしよう……」 石橋としては野手に専念したいという気持ちが強かった。だが、結果は「合格」。石橋はそのままの流れで、新チームではエースとなった。これをきっかけに、石橋はその後、“野手”から“投手”への道を進むことになるのであった。
「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。 「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」 ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。
石橋良太には歳の離れた2人の兄がいる。幼少時代はサッカーに夢中になっていた石橋だが、2人の兄の影響もあって、小学1年から地元大阪府堺市の軟式野球チーム「長曽根ストロングス」に入った。最初は特に野球が好きだったわけではなかったという。野球が面白いと思い始めたのは小学4年の時。自分がピッチャーとして投げた大阪府の大会で優勝し、それをきっかけに勝つことに快感を覚えたのだ。
2011年秋、石橋良太はそれまで抱いていたモヤモヤ感がなくなっていくのを感じていた。投手として生きる覚悟を決め、気持ちを切り替えて本気で取り組んでいこうと腹を据えたのである。石橋は、高校2年まで内野手として活躍し、甲子園にも出場した。拓殖大学入学後も自らは内野手としてやっていくつもりだった。だが1年春、打率1割台と不振にあえいだ石橋は高校3年時にエースとして活躍したピッチングを買われ、投手に転向した。だが、内心では野手としての道を捨て切れずにいた。そんな中途半端な気持ちを払拭させたのが、中央大学との1部・2部入れ替え戦だった。
「弓道は自分と的との勝負――これに尽きます。すなわち、的に負けるということは自分に負けるということです」。法政大学体育会弓道部監督の藤井俊雄はこう語っていた。その意味で、川田悠平は自分との勝負に勝った。大学3年の4月、川田に再び的中が戻ってきたのだ。「矢数をかけることで、的中する感覚に体が慣れてきました。それがつながったという感じですね」と本人は分析した。スランプを脱した川田はその後、顔面麻痺を患いながらも全国学生弓道選抜大会、全日本学生弓道選手権の優勝に貢献していく。そんな大学3年のシーズンで、川田は「ここ最近で一番悔しい」と振り返る出来事も経験していた。
「高校の部活とは違い、多くの決まりがありましたので、最初は戸惑いました」 川田悠平が法政大学体育会弓道部に入部して、最初にぶつかった試練が「言葉づかい」だった。同部では、年上の人に対してはたとえば「僕」ではなく「自分」、「きのう(昨日)」ではなく「さくじつ」、「今日」ではなく「本日」などと普段とは異なる言い方をしなければならない。「慣れるまでが大変でしたね。ポロッと『僕』と言ってしまって先輩によく叱られました(苦笑)」。この言葉の習得に、川田は時間をずいぶんと要した。
「悔しさしかなかったですね」 川田悠平がこう振り返ったのは、高校2年時のインターハイ(埼玉・川越アリーナ)だ。高知県予選で初めて団体優勝した岡豊高校だったが、全国の舞台では20射8中に留まり、予選敗退。川田自身も4射2中と、振るわなかった。大舞台ならではの雰囲気も川田らを苦しめた。「会場がすごく広くて、今まで経験した試合とは雰囲気がまったく違っていました。3方向からギャラリーに見られていますし、カメラマンもいる。やはり、緊張していましたね(苦笑)」。県大会で味わった初優勝の喜びも束の間、川田は全国の厳しさを痛感した。
「オレ、高校で弓道やるつもりだから、川田もやれば?」 川田悠平を弓道に引き合わせたのは、中学校時代の友人の何気ない提案だった。川田は高知県立岡豊(おこう)高校に、その友人は別の高校に進むことが決まっていた。川田は中学校まで特にスポーツをやってきたわけではなかったが、高校進学を機に運動部への入部を考えていた。しかし、その時は、「弓道か……」と少し考える程度で、入部を決意するには至らなかった。それでも入学後、まずは弓道部へ見学に行くことにした。
神奈川県川崎市にある法政大学体育会弓道部の道場には、優勝または1位以外の賞状やトロフィーは飾られていない。全国学生弓道選抜大会(選抜)と全日本学生弓道選手権大会(全日本)を各9度制し、全日本学生弓道王座決定戦(王座)では12度優勝――。そんな“常勝”法大弓道部の主将が、川田悠平だ。
2012年夏、ロンドン五輪で日本バドミントン界の歴史に新たな1ページが刻まれた。女子ダブルスで藤井瑞希&垣岩令佳組が銀メダルを獲得し、日本勢初のメダリストとなったのだ。一方、ロンドン行きは叶わなかった橋礼華&松友美佐紀組。ロンドンで日本代表の先輩“フジカキ”が快挙を成し遂げていた頃、“タカマツ”も異国の地で殻を破ろうとしていた。
「小学生の頃から取材をしていただいた時には、“将来はオリンピックに出たい”と言っていました。でも、やっぱり夢というか……。テレビで他の競技を見ていても、華があって、いっぱい取り上げられているオリンピックの大会で、“自分も戦いたい”“いつか出たいな”と思っていました」 4年に1度のスポーツの祭典であるオリンピックは、多くのアスリートにとって、頂点の大会という位置づけにある。バドミントンプレーヤーの松友美佐紀も同じだった。ただ、その頃の彼女にとっては、まだ漠然とした夢にすぎなかった。しかし時を経るにつれ、その想いは徐々に輪郭を帯びていった。
近年の日本バドミントン界の女子ダブルスは、多士済々である。一世を風靡した“オグシオ”こと小椋久美子&潮田玲子組、北京五輪4位の“スエマエ”こと末綱聡子&前田美順組、ロンドン五輪銀メダリストの“フジカキ”こと藤井瑞希&垣岩令佳組……。日本ユニシス実業団バドミントン部女子チームに所属する橋礼華&松友美佐紀組の“タカマツ”も、その系譜に名前を刻もうとしている。2人がペアを結成したのは、聖ウルスラ学院英智高校時代に遡る。
その経歴は枚挙に暇がないほど、華やかである。日本ユニシス実業団バドミントン部女子チームに所属する松友美佐紀は、小中高のシングルスすべてで日本一を経験している俊英だ。高校時代から組んでいる1学年先輩の橋礼華とのダブルスは、今や日本のトップクラスどころか、世界でも指折りの存在となりつつある。そして松友はバドミントンの実力もさることながら、頭脳明晰である。中学3年時の内申はオール5、高校3年時の最後の成績もオール5だった。「天は二物を与えず」ということわざがあるが、美女アスリートと言われる彼女に、天は二物も三物も与えていた。
愛媛での“修行”を終え、2008年、広島に復帰した森脇はミハイロ・ペトロヴィッチ監督に、レベルアップした姿を見出される。センターバックとして起用され、21試合で5ゴール。J2優勝に貢献した。J1に戦う舞台が変わっても、クラブ内で確固たるポジションを占めた。プロ1年目で感じた厚い壁を完全に突き破っていた。
2006年、森脇はサンフレッチェ広島から2人のチームメイトとともにJ2の愛媛FCへ期限付き移籍した。一緒に四国にやってきたのは、MF高萩洋次郎、FW田村祐基。注目を集めたのは各年代で代表にも選出されていた高萩だ。広島でも司令塔として将来を嘱望されていた逸材だった。 「高萩が愛媛に来ると聞いて、そんないい選手が来るんやと思いました。でも……森脇のことは正直、よく知りませんでしたね」 当時の愛媛のある選手は率直な感想をそう漏らす。
明るいムードメーカーで“太陽の男”と呼ばれる森脇だが、決して最初から日の当たる場所にいたわけではなかった。 「正直、サッカーはヘタクソでしたよ」 本人もそう少年時代を振り返る。
あの日、スタジアムは真っ赤に染まっていた。 2007年11月28日、さいたま市浦和駒場スタジアム。天皇杯4回戦でJ1の浦和レッズがJ2の愛媛FCを迎えていた。この年、浦和はAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を初制覇。田中マルクス闘莉王(現名古屋グランパス)、鈴木啓太、長谷部誠(現ヴォルフスブルク)らがスタメンに揃っていた。
「バッター1本でやっていきたいんですけど……」 高校卒業後、杉本裕太郎は青山学院大学に進学し、野球部に入部した。大学側はピッチャーとして期待を寄せていたが、杉本の心は違っていた。既にピッチャーとしての自分の限界を感じ、逆にバッターとしての可能性を感じていたのだ。入部するとすぐに、杉本は監督に直訴し、バッターに転向した。そして、この勇断こそが今、彼を次なるステージへと引き上げようとしているのだ。
2008年12月1日。徳島商業高校の野球部グラウンドでは、翌シーズンに向けての練習が始まろうとしていた。新人戦、秋季大会と満足のいく結果を残すことができず、最終学年となった杉本裕太郎たちにとっては、甲子園へのチャンスは残り1度限りとなっていた。ミーティングを終え、いつものようにランニングを始めようとした、その時だった。 「監督、ちょっと目の調子が悪いんです」 そう訴えたのは、杉本の無二の親友であり、バッテリーを組んでいた原一輝だった。 「どうしたんだろう……」 杉本は心配になったが、それほど大事には考えていなかった。原はすぐに病院へと向かった。そして、翌日から原はグラウンドではなく、病院のベッドの上で過ごすことになったのである。
県内最多となる春夏合わせて甲子園出場42回を誇る徳島商業高校。甲子園では1947年の春に優勝、58年の夏には準優勝している。過去、プロ野球選手も数多く輩出した県内随一の名門だ。中学3年時に主力のひとりとしてチームを県総体優勝に導いた杉本裕太郎は、その徳島商を当然のように選んだ……のではなかった。当初、彼は実家に程近い小松島高校に進学しようと思っていたという。小松島はその年(2006)の春、01年春、03年夏に続いての甲子園出場を果たしており、21世紀に入って力をつけてきていた。練習を見学した際に感じた明るいチームの雰囲気も、杉本の心をくすぐった。一緒に見学した親友の高島佑も同じ気持ちだった。2人は小松島への進学を決めた。ところが――。
その存在は、グラウンドの中でもひときわ目立つ。身長189センチの長身スラッガー杉本裕太郎、今年のプロ野球ドラフト候補の一人だ。杉本自身、最も自信があり、こだわっているのがホームランだ。実は彼には、伝説となったホームランがある。小学校から無二の親友であり、高校までチームメイトだった原一輝は、高校2年の秋、杉本が描いた放物線を忘れることができない。