宇和島東、今治西……愛媛県の強豪、甲子園の常連でもある高校から中学3年時、上田晃平は誘いを受けていた。父・秀利によれば、当時通っていた硬式野球のチームにはPL学園や大阪桐蔭といった名だたる名門からの誘いも届いていたという。上田本人はというと、第一志望は宇和島東だった。 「途中から入った硬式野球のチームのメンバーがほとんど宇和島東に入ったんです。宇和島東の監督さんも学校に来てくれたりもしていましたし、またみんなで一緒にやりたいなという気持ちはありました」 だが、上田が最終的に選んだのは南宇和。一度も甲子園経験のない地元の高校だった。
「正直、いつから野球をやっているのか、何がきっかけだったのか、覚えていないんです」 上田晃平は自らの野球人生のスタートをほとんど記憶していない。ものごころついた時には、既に野球少年になっていたのだという。それもそのはずだ。野球選手だった父親とソフトボール選手だった母親をもつ上田にとって、生まれた時から野球は最も身近なスポーツだった。父親の草野球の試合を見に行ったり、練習ではボール拾いを手伝ったり、家に帰れば、父親と好きな巨人戦をテレビで観たり……。上田の周りには常に野球があった。
「今、自分が抜けるわけにはいかない……」 今夏、上田晃平は苦しんでいた。3年となった今年、春は先発の一角を担い、リーグ戦で5試合に登板して2勝1敗、防御率2.67。同級生の島袋洋奨とともにチームを牽引した。しかし、リーグ戦後の夏の遠征で右ヒジに痛みが走るようになった。監督やコーチに告げようかどうか悩んだが、自分の立場を考えると、チームを離れるわけにはいかなかった――。
今年9月、アジアで初めてのRBSSワールドファイナルが東京・増上寺で開催された。ディフェンディングチャンピオンの徳田耕太郎は、予選の日本大会を経ずにワールドファイナルから参加した。RBSSで2度の優勝および連覇を成し遂げたフリースタイル・フットボーラーはまだいない。徳田には、そのどちらも達成できる可能性があった。
「ノートがなくなっているのに気付いた時は、もうパニックでしたね」 徳田耕太郎は苦笑しながら、こう振り返った。アイデアノートには大会の演技構成やこれまで開発してきた技も書かれてあった。ほとんど日本語表記のため、外国人が持ち去っても内容を理解できるとは考えにくかった。大会中、徳田がノートを確認しているのを見て、単に彼を混乱に陥れるための嫌がらせだったのだろうか。徳田は、いかにしてこのトラブルを乗り越えたのか。
2009年、日本のフリースタイル・フットボール界の頂点に立った徳田耕太郎は翌年、南アフリカ・ケープタウンで行われた「Red Bull Street Style(RBSS)」ワールドファイナルに出場した。晴れて“世界デビュー”を果たした徳田だったが、結果は4勝2敗で予選敗退。世界の壁は高く、分厚かった。
主にサッカーのリフティング技術を用い、体全体を使ってボールを自在に操る。ボール1つで自身のスタイルを表現するスポーツが、フリースタイル・フットボールだ。大会などではアップテンポなBGMに乗って、選手が技を披露する。“Tokura”こと徳田耕太郎は、昨年に行われた世界最高峰の大会「第3回Red Bull Street Style(RBSS)」のワールドファイナル(イタリア・レッチェ)で史上最年少王者(当時21歳)となった。現在は東京の大学に通いながら、レッドブル社所属のアスリートとして国内外でショーや大会に参加している。
「オマエなら大丈夫」 関本大介は、試合前、いつもおまじないのようにこう呟く。リング上で命を懸けて闘うのは、プロレスラーの宿命。恐怖心に打ち勝たなくては、対峙する敵との勝負にならない。それでも関本はプロレスラーを自らの「天職」だと言い切る。「人からは“大変だね”などと言われますが、自分では痛いだのしんどいだのと思ったことはない」。その居場所を守るためには、自らの強さをリング上で証明するしかない。
1999年夏にデビューした関本大介は、ひたむきに鍛錬を積んだ。その真面目さは、球児の頃から変わらなかった。リトルリーグ時代は監督と選手の関係でもあった父親によれば、「言うたことは絶対やり遂げた」という。明徳義塾高校時代の馬淵史郎監督も、その勤勉さを買い、彼を選手兼マネジャーに任命した時期もあった。競技に対する真摯な姿勢が、レスリング経験がなくても、ずば抜けた体格がなくても、2年も経たぬうちにチャンピオンベルトを巻くことができた一番の理由なのかもしれない。
幼少の頃、ヒーローに憧れる男子は少なくない。ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊モノとテレビに出てくる正義のヒーローは、強さやカッコよさの象徴である。関本大介にとっての、それはプロレスラーだった。プロレス好きの叔父の影響で、父親たちと一緒にいつもテレビ中継にかじりついていた。彼のヒーローは、強くてカッコいい外国人レスラーだった。カウボーイスタイルのコスチュームに、全日本プロレスのリングで暴れ回るスタン・ハンセンの豪快さや、大きさに惹かれていた。
2013年6月30日、後楽園ホールに詰めかけた1387人のファンが、主役の登場を待ちわびていた。入場曲『CROWN OF WINNER』が流れると、そのボルテージは一気にヒートアップした。エレキギターがかき鳴らす爆音とともにやって来たのは、関本大介。大日本プロレスの2大タイトルのひとつBJW認定世界ストロングヘビー級3代目王者である。ゆっくりとリングに向かう関本に、観客は期待感を持って、手拍子や歓声を上げて迎えた。丸太のように太い腕は52センチ、岩のように膨れ上がった胸板は130センチという筋肉の鎧を身に纏う男の姿は、古代ローマのコロッセオへと歩みを進めるグラディエーターのようだった。
「体力面はもちろん、精神的にも成長を感じています」 親元を離れ、神奈川県横浜市にある日本体育大学に通う娘について、母・美和はこう語る。昨年、中野美優は同大の女子水球部に入った。女子では高知県出身者は初めてだという。1年生は中野のほかにもうひとりいた。だが、マネージャーとしての入部であり、プレーヤーとしては中野ひとりだった。日本代表でも活躍する三浦里佳子が卒業し、ゴールキーパー(GK)が不在の状態だったこともあり、自ずと中野が正GKとなった。とはいえ、新人であることに変わりはない。 「詳しくはわかりませんが、いろいろと気を遣うこともあったと思うんです。そうした経験によって、周りへの気配りもできるようになってきたんじゃないかな」 母親は娘の確かな成長を感じ取っていた。
「面白くない。嫌やなぁ……」 中野美優は水球が嫌いになりかけたことがある。中学3年の時だった。中学2年の3月、中野が所属した春野クラブは15歳以下の女子チームが県勢初の優勝を果たした。中野はその主力メンバー。センターバックだった彼女は、指揮官からも“絶対的な守備の要”と信頼されていた。だが、その喜びは束の間だった。大会後、チームの柱だった先輩2人が抜け、戦力はダウンした。だが、それとは裏腹に周囲からのプレッシャーは膨らむばかり。そんな中、練習は厳しさを増し、中野は楽しさを感じなくなっていたのである。
2008年3月30日、高知県水球界にとって、歴史的快挙が成し遂げられた。第30回JOCジュニアオリンピックカップ春季大会。15歳以下女子の部で高知代表の春野クラブが、決勝トーナメントを勝ち抜き、全国制覇を達成。それは“水球不毛の地”であった高知にとって、全カテゴリーにおける初めての栄冠だった。 「良かったな」。そう言って、徳田晃監督はプールから上がってきた選手ひとり一人と握手をした。守りの要として優勝に貢献した中野美優は、その時の握手が今でも忘れられない。自分が初めて認められたような気がしていた――。
「上手に泳げるようになれればいいな」 中野美優が水球を始めたのは小学4年の時。友人の誘いもあって自宅の近所に1年半前にできたばかりの「春野クラブ」に入会したのが始まりだった。とはいえ、当時の彼女は「水球」がどんな競技なのか、まったく知らなかった。泳ぐことが苦手で、それを少しでも克服できればという程度の気持ちだった。そんな自分がまさか、水球にどっぷりとはまるなどとは、その時の彼女は想像すらしていなかった――。
2012年9月、水球女子アジアジュニア選手権(カザフスタン)。ゴールキーパー(GK)中野美優は初めて日の丸を背負い、国際大会デビューを果たした。 「海外の選手と試合するのは初めての経験でした。結構緊張しちゃって、大会のことは正直あまり覚えていないんです(笑)。でも、とにかく手足が長くて、日本人とはまったく違う、思ってもみないところからシュートが来たことに驚きました」 中野は初めて“世界”を肌で感じていた。
「この人はすごい……」 2010年に法政大学野球部へ入部した木下拓哉は、入寮直後、法大と社会人チームのオープン戦を見学していた。木下は試合に出場していた先輩キャッチャーに衝撃を受けた。当時4年生だった廣本拓也(現日本生命)である。
「木下は野球を見る眼がすごく優れていたんです」 島田達二は木下拓哉をキャッチャーに指名した理由をこう明かした。だが、なぜ木下をキャッチャーにコンバートする必要があったのか。当時の高知高では、2年生と木下の同級生の2人がキャッチャーを務めていた。しかし秋季大会が終わると、同期のキャッチャーが休部状態になった。そのため、もう1人、キャッチャーをつくる必要性が出てきたのだ。そこで島田が指名したのが木下だった。では、「野球を見る眼」とはどういうことだったのか。
小学校に入る前、木下拓哉がいつも目にする光景があった。4つ年上で地元の少年団で野球をしていた兄と父親がキャッチボールしている姿だ。「僕もやりたいなぁ」。木下はそんな思いを募らせていた。すると、入学した小学校には野球が好きな同級生が多かった。みんなすぐに野球仲間となり、1年の頃は「公園などで遊ぶ時はいつも野球だった」という。そして、木下は2年から少年団に入り、本格的に競技として野球を始めた。ポジションは現在務めているキャッチャーではなく、ピッチャー。彼は「野球をやるなら“ピッチャーで4番”というイメージを持っていました」とピッチャーを志望した理由を懐かしそうに振り返った。
法政大学野球部は東京六大学野球リーグでは最多の44回、大学日本選手権8回、明治神宮野球大会3回の優勝を誇る。そんな大学球界屈指の名門の正キャッチャーを務めるのが木下拓哉(4年)だ。昨年の六大学野球秋季リーグからレギュラーとしてマスクをかぶるようになった。その秋季リーグではベストナインに選出される活躍を見せ、法大の7季ぶりの優勝に貢献。プロのスカウトからも注目され、今秋のドラフト指名候補として挙げられる期待のキャッチャーである。
昨年の五月場所で賜杯にあと一歩まで迫った栃煌山雄一郎だが、周囲の期待に応えられなかった自分を責めていた。だからこそ続く七月場所は、その雪辱を晴らす機会となるはずだった。だが、旭天鵬には上手出し投げで勝利し、先場所の借りを返したものの、15日間を終えての結果は4勝11敗の惨敗だった。 「名古屋での大負けは悔しかった。“優勝決定戦までいったのは、番付が下だったから”という雰囲気にもなりますしね。もっと精神的にも強くならないとダメだと思いました」 惜敗と大敗。栃煌山は2つの負けを自らの成長の肥やしとし、大輪の花を咲かせようとしていた。
2006年五月場所、栃煌山雄一郎は西幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越した。新十両への期待もあったが、次の七月場所の番付編成会議で昇進は見送りとなった。この場所は十両から幕下へ転落する力士が少なく、先場所に勝ち越した幕下の東西筆頭の力士のみが昇進となった。栃煌山の母親は、その時に番付が絶対である大相撲を実感したという。「たぶん本人が一番つらいだろうなと思いながら、“こういう世界でやっているのか”というのが記憶に残っています。今までのアマチュアのトーナメントとは違い、プロは番付という世界。頭ではわかっていたつもりですが、本当にすごいところで自分の子供が頑張って生きているんだなと思いました」
中日を終えた七月場所。綱取りを狙う大関稀勢の里を筆頭に関脇の豪栄道、妙義龍と、栃煌山雄一郎と同学年の力士が三役に顔を揃えている。この世代は三役以降にも東前頭2枚目の栃煌山をはじめ、将来を有望視される力士が虎視眈々と番付上位を狙っており、相撲界豊作の年と言っていいだろう。「誰にも負けちゃダメですけど、同年代はやっぱり気合が入ります」と、栃煌山も闘志を燃やす。中でも、豪栄道とは小学生時代からの宿敵である。「やっぱり負けたくないし、意識はしますね」と語る栃煌山が、豪栄道と初めて対戦したのは、小学4年の時の全国大会だ。自分より小さい相手に、栃煌山は“勝てるだろう”と高をくくっていた。しかし、軍配は豪栄道に上がった。翌年のわんぱく相撲では、1回戦で対戦。今度は「強いと分かっていた」と油断はしなかった。だが、またしても相手の軍門に下った。一方の豪栄道はそのまま全国の頂点まで登り詰めた。しかし、中学時代は栃煌山が全国制覇を成し遂げ、意地を見せている。2人は切磋琢磨しながら、互いの相撲道を究めていった。
「相撲は負け出したりすると、やっていることがわからなくなる。たとえ勝っていても不安なところが実はあるんだよ。いつ負けるんじゃないかと、心で自分と闘っている。だから普通にできることが、できなくなっている時に原点へと戻る必要がある」 栃煌山雄一郎の師匠である春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が言う“原点”とは、相手を押して前へ出ることだ。それが相撲の基本であり、核だという。栃煌山が、その原点を培ったのは、安芸中学に進学してからだ。
日本の国技とされる大相撲だが、2003年に貴乃花(現・貴乃花親方)が引退して以来、大相撲の土俵に日本人横綱の姿は消えたままだ。幕内の優勝も06年初場所で栃東(現・玉ノ井親方)が賜杯を手にしてから、44場所連続で外国出身の力士の手に渡っている。春日野部屋に在籍する栃煌山雄一郎は、巻き返しが期待される日本人力士のひとりである。187センチ、158キロの恵まれた体躯から、馬力のある押し相撲が武器だ。