「周りにバレーしかやる環境がありませんでした」 皆本明日香は、競技を始めたきっかけをこう語る。幼少の頃、バレーボールクラブに所属していた両親の練習について行っていたことで、自然と興味を抱いたという。本格的に競技を始めたのは小学5年生の時だ。地元のバレーボールクラブに入り、ボールを追いかけた。この頃からポジションはスパイカーだったという。ただ、強豪クラブではなかったため、大会では「県大会に行けるか行けないかぐらい」の成績がほとんどだった。また、当時、小学生だった皆本にもそこまで上昇志向はなかった。
将来、“火の鳥ニッポン”のユニホームに袖を通すであろう選手がいる。皆本明日香、24歳。バレーボールVチャレンジリーグの上尾メディックス所属するウイングスパイカー(WS)だ。バレーボールではWSの選手が、そのチームのエースとされることがほとんどである。皆本は1年目の2010−11シーズンからレギュラーに抜擢され、不動の“エース”としてプレミア昇格を目指すチームを支えている。
秋元がキーパーを始めたのは、ふとしたきっかけだった。 幼稚園の頃からボールを蹴り始め、小学校時代のポジションはFW。体は周囲の選手より大きく、それを生かして点を獲りまくった。そんななか、ある試合でPK戦に突入した際、チーム内でGKに名乗り出る人間がいなかった。自ら立候補してゴールマウスの前に立つと、相手のキックをすべて止めた。この神がかり的な活躍が転機となり、以来、ゴールを奪う側からゴールを守る側へとプレーの場を移すことになった。
今や愛媛には欠かせない絶対的守護神である。 秋元陽太、24歳。横浜F・マリノスから今季、愛媛FCへやってきた。ここまですべての試合でゴールを守り続け、イヴィッツア・バルバリッチ監督からは「陽太が最後にいてくれることで、愛媛のゴールはより安全性が拡充する」と全幅の信頼を置かれている。
「あの2年間は本当に大変でした……」 大山がそう振り返るのは、プロサッカー選手となった浦和での日々だ。大山がルーキーだった頃(2005年)の浦和は中盤に山田暢久、三都主アレサンドロ(現名古屋)、鈴木啓太、長谷部誠(現ヴォルフスブルク)、平川忠亮らそうそうたるメンバーが揃っていた。この年、天皇杯を制し、常勝軍団への階段を上がっていたクラブのなかで、大山は試合出場どころか、紅白戦にすらお呼びがかからなかった。 「もう主力の選手に圧倒されていました。練習についていくのですら精一杯の状態でしたね」
クラブ一の“秀才プレーヤー”である。 昨年春、早稲田大学人間科学科eスクールを卒業した。愛媛FCに最初に在籍した07年に入学し、インターネット経由で講義を受講。小テストやレポートを提出して単位を取得した。実際に大学に通う必要はないが、サッカー選手と学問を両立し、4年で卒業するのは容易ではない。 「でも僕らの仕事は有効に使えば、結構、時間はあるんですよ。練習だって1日のうちの数時間ですから」 サラッと言い切るところに知的な香りが漂う。
: 昨年、東北は大震災に見舞われました。被災地の球団として今季こそという思いは強いと思います。3.11の時はどちらに? : 2軍でヤクルト戸田球場にいました。ベンチでデータをとっていたんですが、結構、揺れましたね。最初は、そんな大変なことになっているとは想像もしませんでした。テレビの映像を見て、本当に言葉を失いました。
: 大学3年からは、ようやく腰の痛みが癒え、八戸大の中心投手として活躍します。4年春にはなんとリーグ戦の防御率が0.00。秋の明治神宮大会の東北地区代表決定戦では東北福祉大を相手にノーヒットノーランを達成しました。 : これは自信になりました。ドラフト会議の4日までだったので、いいアピールになると感じましたし、何より勝って神宮大会出場が決まったことで、まだチームで野球が続けられることがうれしかったです。
: 塩見投手は生まれが大阪ですが、愛媛の帝京第五高に進学した理由は? : 兄が、そこの野球部に入っていたことが一番大きな理由です。知り合いの紹介もあり、僕も行こうと思いました。
2年目のシーズン、さらなる飛躍を誓う男がいる。 東北楽天の塩見貴洋だ。ルーキーイヤーの昨季は、同期入団の斎藤佑樹(北海道日本ハム)を上回る9勝(9敗)をあげ、防御率2.85と好成績を残した。岩隈久志(マリナーズ)が抜けた今季は、エースの田中将大に次ぐ先発として期待され、初登板となった4月3日の福岡ソフトバンク戦ではプロ初完封をマークした。ここまでチームトップの3勝(3敗)をあげている。現状、田中が腰痛で離脱しているなか、チームの中心投手として投げ続ける若き左腕に二宮清純がインタビューした。
人生とは、大どんでん返しの連続である。前年の甲子園出場経験をもつメンバーが残り、春の大会では四国大会で準優勝した2学年上の先輩はその夏、まさかの初戦敗退。その翌年、「史上最強」と謳われた1学年上の先輩は自分たちのミスで3回戦敗退に終わった。ところが、「史上最弱」と言われ続けてきた田中勇次たちの代が甲子園への切符をつかみとったのである。 「自分たちに失うものは何もない」 田中たちにプレッシャーはなかった。あるのはただ、ようやくたどり着いた夢の舞台を楽しむことだけだった。
「史上最弱」――鳴門工業高校時代、田中勇次らの代が言われ続けてきた言葉だ。実際に新チーム発足後、勝つことの少なかった田中たちは、この言葉を素直に受け止めるしかなかった。しかし、決して腐ることはなかった。それどころか、彼らはより一層、練習に取り組んだ。そして、その努力が「史上最強」と謳われた先輩たちにも成し得なかった“奇跡”を起こしたのである。
田中勇次は中学校を卒業すると、地元の神戸市を離れ、徳島県の鳴門工業高校へと進学した。前年、鳴門工は夏の甲子園に出場し、ベスト8進出を果たしていた。そんな同校に田中は徳島県内に敵はいないと思っていた。 「鳴門工に入りさえすれば、必ず甲子園に行ける!」 そう信じてやまなかった。だが、高校野球の世界はそう甘くはなかった。田中が思い描いていたものとはまるで違う、厳しい現実が待ち受けていた。
「野球の神様」は“突然”を好む。完全に主導権を握っていたかと思えば、“突然”試合の流れが変わることもあれば、それまで好投していたピッチャーが“突然”制球を乱し始め、打ち込まれることもある。そして、その“突然”は試合の中だけには限らない。選手の野球人生そのものをガラリと変えることもある。田中勇次の“突然”は大学2年の秋だった。単なる人数合わせで入った外野の守備をきっかけに、それまで一度も経験のなかった外野手としての才能を開花させたのだ。大学に入学して2年間、 “野球の神様”は一度も田中の方を振り向いてはくれなかった。しかし、決して腐ることなく努力し続けてきた彼に、“野球の神様”がようやく微笑み返してくれたのだ。そして、そのチャンスを田中は決して逃しはしなかった。
「背番号10」――六大学野球リーグに所属する全6校に共通した主将の証である。六大学の一つ、明治大学野球部と言えば、昭和の時代に黄金期を築き上げた故・島岡吉郎の“精神野球”で知られる大学球界屈指の名門である。杉下茂、星野仙一(現・東北楽天監督)、高田繁(現・横浜DeNAゼネラルマネジャー)、広沢克己、川上憲伸(現・中日)、そして昨秋ドラフトの目玉として注目された野村祐輔(現・広島)など、これまで数多くのプロ野球選手を輩出してきた。そして、チームの“顔”である歴代の主将には、星野、高田、川上など名だたる人物の名前がズラリと並ぶ。今年、その「背番号10」を継承したのが田中勇次だ。しかし1年前の田中には、自分が主将に任命されるなどとは、全く予想だにしていなかった。
2011年4月、柳川大樹はリコーブラックラムズの一員としてスタートを切った。スピードや敏捷性の部分は、社会人に入っても通用した。しかし、ことコンタクト勝負になると、簡単に跳ね飛ばされる日々が続いた。特に、同僚の外国人選手との競り合いでは、全く歯がたたない。「単純にフィジカルが強いということもあるのですが、長いリーチを生かして相手を懐に入れさせない巧さも備えているんです」。柳川は、トップリーグのレベルの高さを実感していた。そんな5月、柳川に思いもよらぬ知らせが届く。7人制ラグビー(セブンズ)の日本代表セレクション合宿への参加要請を受けたのだ。
高校ラグビーの3大大会と言えば、全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会(春の熊谷)、全国高等学校ラグビーフットボール大会(冬の花園)、そして国民体育大会だ。国体に出場するオール徳島(徳島県高校選抜)に選ばれるためには、所属高校の監督の推薦を受け、選考会に参加する必要がある。柳川大樹は2年間で大きな成長を遂げ、3年時にはチームに欠かせない存在となっていたが、監督の川真田洋司は彼を選考会に推薦しなかった。ただ、それは選抜メンバーとしての実力がないからではなかった。川真田にはある考えがあった。
柳川大樹が生まれ育った徳島県は、元ラグビー日本代表主将の林敏之を輩出している。しかし、全国的な強豪校や実業団クラブがあるわけではなく、決してラグビーが盛んな土地とは言えない。柳川もラグビーを始めたのは高校からであり、中学まではバスケットボール部で活動していた。そんな中、柳川は中学3年の時のバスケの試合会場で運命の出会いを果たす。「今も頭が上がりません」と語る徳島県立城東高校ラグビー部監督の川真田洋司だ。
7年後の2019年、日本で初めてラグビーW杯が開催される。この4月から日本代表は、ヘッドコーチに名将エディー・ジョーンズを迎え、3年後のイングランドW杯、そして19年へ向けた代表強化に着手する。 そんな代表の桜のジャージを、将来身にまとうであろう若者がいる。柳川大樹、22歳。ラグビートップリーグに所属するリコーブラックラムズに11年から加入したルーキーだ。大阪体育大時代にU-20日本代表候補に選ばれたことはあるものの、全国的な知名度は決して高くない。そんな“無名のルーキー”が、シーズンが開幕する1週間前、開幕スタメンでの起用を伝えられたのだ。
今回、ともに五輪に初出場する黒須成美は「1年半で五輪に出られるくらいになって、すごくセンスを感じる」と山中の急成長ぶりに驚きを隠さない。黒須は中学2年から競技を本格的に始めたが、五輪の切符を得るには6年を要した。「強い選手がいたほうが私も刺激になって頑張れる」と“ライバル”の出現は歓迎だ。
自衛隊で陸上を続ける気持ちはなかったが、国体2位の実績もあり、山中は自衛隊体育学校の試験を受けることになる。ところが、陸上部は女子の採用がなかった。 「近代五種をやってみないか」 そう声をかけたのが才藤だった。この一言が運命を変えた。
小さい頃は五輪に出るのが夢だった。10歳の時にテレビで見た2000年のシドニー五輪。女子マラソンで金メダルを獲った高橋尚子に憧れた。 「五輪に出る」 小学校時代につくったタイムカプセルには大きな夢を詰め込んだ。
誰もが予想していなかった五輪切符だった。 昨年5月に中国・成都で開催された近代五種のアジア・オセアニア選手権。アジアで5枠の出場権を争う五輪予選を兼ねているとはいえ、競技を始めて1年半の山中詩乃にとって、五輪は夢のまた夢のように思われた。指導する才藤浩監督も「どのくらいできるか分からない。次のリオデジャネイロ五輪目指して経験を積んでくれれば」と多くは期待していなかった。
2006年夏の甲子園決勝、再試合にまでもつれ込んだ早稲田実業高と駒大苫小牧高との熱闘は今も記憶に新しい。その試合を澤良木喬之は自宅のテレビで観ていた。早実のエース斎藤佑樹(北海道日本ハム)とはその年、夏の予選前に練習試合で対戦し、澤良木は斎藤からホームランを放っている。その時はまさか、全国制覇をするようなピッチャーだとは思っていなかったという。そして自分自身についてもまた、県大会準決勝で敗退するなどとは考えていなかっただろう。まさか、あの“一球”に泣かされるなどとは想像だにしていなかった――。
春のセンバツで初出場初優勝、夏も初出場ながら決勝進出を果たした2004年は、まさに“済美イヤー”となった。無名だった同校の名が、瞬く間に全国のお茶の間に広がったことは想像に難くない。その年の秋、注目校となった同校の4番を任されたのが澤良木喬之だ。そのパワーは、1年時から澤良木と2人、レギュラー組に入っていた長谷川雄一(ヤマハ)、さらには最大のライバルだった今治西高の宇高幸治(日本生命)もが驚くほどのものだった。