畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第2回「過信せず、無欲で掴んだバルセロナ行きの切符」

 中学生時代の畠田好章は、全国のタイトルとは無縁だった。“次期オリンピック選手”と期待を寄せる周囲と、「(五輪は)だいぶ遠かった」と感じる自己評価に大きな隔たりを感じ、やる気を失うことも少なくはなかった。小学4年から彼を指導していた中瀬健は、当時を振り返り「悪いサイクルが回っていた。成長し、いろいろと考える時期だった」と語る。なかなか練習にも身が入らず、不安を抱えたまま大会に臨んでいた。実力はあっても、それでは結果も出るはずがない。全国中学校体操競技選手権大会(全中)の個人総合では、2年時に2位、3年時は6位だった。同学年には大阪・清風中の田中光というライバルがいた。3年時に優勝したのは、田中の方だった。小学生時は全国大会優勝を経験していた畠田も、中学3年間でライバルに大きく差をつけられたかたちとなった。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第1回「世界を知る指導者の確信」

 これまで数々の五輪戦士を輩出している日本体育大学は、言わずと知れた体操界の名門である。現在、同大体操競技部の監督を務めているのが、OBでもある畠田好章だ。現役時代は1992年バルセロナ、96年アトランタと五輪2大会に出場した。バルセロナでは団体での銅メダルに貢献し、95年の世界選手権では3つの銀メダルを獲得するなど、世界の舞台で活躍した。現在は後進を指導する立場として、優れた人材を育成し、世界と戦う体操NIPPONを支えている。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)最終回「執念のピッチング」

 2012年の高校野球は、大阪桐蔭で始まり、大阪桐蔭で終わったと言っても過言ではない。春のセンバツで優勝を果たした同校は、夏も全国の頂点に立ち、春夏連覇という快挙を成し遂げた。澤田圭佑自身は甲子園で2度先発し、チームの勝利に貢献。特に夏は投げては完投、打っては甲子園初本塁打と投打での活躍を見せた。子どもの頃から夢だった甲子園での全国優勝を2度も経験した澤田。しかし、その裏では知られざる「背番号10」の苦労があった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第3回「失いかけた甲子園への道」

「人よりスピードが速いわけでも、すごい変化球があるわけでもない」  澤田圭佑はそう自己分析する。では、彼のピッチングを支えてきたものとは――。安定したコントロールを欠かすことはできない。リトルリーグ時代からコントロールに苦労したことがないと言う澤田。それは彼の負けず嫌いな性格が生み出した力だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第2回「踏み出したエースとしての第一歩」

「よし、このボールで打ち取れる」。澤田圭佑は投げた瞬間、そう思った。2ストライクと追い込んで、勝負を決めにいった内角低めのストレート。自らのボールに手応えを感じていた。ところが次の瞬間、弾丸ライナーが目の前を通り過ぎていった。澤田が振り向いた時には、打球はライトスタンドへと吸い込まれていくところだった。 「すごい……」  大学野球のレベルの高さを痛感した一発だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第1回「ライバル物語の偽らざる真相」

 2番手としてリリーフすることの多かった高校時代から一転、大学入学後、間もなく彼に与えられたのは1番手のポジションだった。今年は2年生ながら早くもエースとしての座を確立しつつある。大阪桐蔭高校から昨年、立教大学に進学した澤田圭佑だ。「与えられた役割を一生懸命にやるだけ」と語る澤田。1番手でも2番手でも、やることや気持ちは何ら変わらない。だからいつの間にかつくりあげられた高校時代の「物語」に対しては、こう語気を強める。「彼とは一度もライバル関係になったことはない」と――。

湯浅菜月(日本大学射撃部/徳島県小松島市出身)最終回「完璧な射撃を求めて」

 湯浅菜月は日本大学に進学した後も、結果を残し続けている。10メートルエアライフル(AR)では、2011年に日本学生選抜ライフル射撃選手権(個人、団体)、12年には全日本女子学生ライフル射撃選手権(個人)を制覇。大学1年の冬から始めた50メートルライフル3姿勢でも、13年の全日本女子学生(個人)で優勝した。そんな湯浅の実力について、日大射撃部の齊藤政之監督は「学生ナンバーワンと言っても過言ではない」と太鼓判を押す。彼女の「プロになる」という目標に、着実に近づいていると思われた。しかし、湯浅は最近まで「競技生活は大学までかな」と考えていたという。

湯浅菜月(日本大学射撃部/徳島県小松島市出身)第3回「プロになるための選択」

「撃つことだけに集中しろ」  2010年9月、湯浅菜月は国民体育大会(千葉)に徳島県代表として出場していた。湯浅はその年、3月に全国高校選抜を制覇すると、8月の高校選手権でも優勝し、国体でも優勝候補にあがっていた。しかし、初日に体調を崩した影響で、少年女子10メートルエアライフル(AR)40発は予選敗退。残す同10メートルAR20発が、高校三冠達成のラストチャンスだった。冒頭の言葉は、その10メートルAR20発に臨む際、成年男子徳島代表の木内栄一郎(徳島県スポーツ振興財団)にかけられたものだ。湯浅は、この言葉が「頭の中にポーンと入ってきた」という。

湯浅菜月(日本大学射撃部/徳島県小松島市出身)第2回「その後につながる“敗北”」

「トップの点数は誰の記録なの?」  2008年11月、全国高校選抜ライフル射撃選手権四国大会の女子10メートルエアライフル(AR)40発で、競技結果を見た選手たちからこのような声が漏れた。そんな高記録をマークしたのは湯浅菜月。点数は385点で、全国大会でも決勝に進出できるほどの成績だった。しかし、湯浅は周囲の驚く反応を不思議がった。

湯浅菜月(日本大学射撃部/徳島県小松島市出身)第1回「サックスをライフルに持ち替えて」

「運命的なものを感じましたね」  これは湯浅菜月が射撃に出合った時の感想である。湯浅は現在、日本大学射撃部に所属し、2012年度からナショナルチームに選出されている。専門はライフル射撃で、16年リオデジャネイロ五輪出場を目指している。そんな彼女が射撃競技に出合ったのは、高校1年のちょうど今頃だった。

川上憲伸(中日ドラゴンズ/徳島県徳島市出身)後編「ワクワクしてマウンドに立ちたい」

: 川上さんは徳島商業高時代はエースで4番。夏の甲子園ではベスト8に進出しています。ピッチングはもちろん、バッティングも素晴らしかった印象があります。 : 高校時代、プロのスカウトからは「下位指名でバッターとして獲りたい」という話が来ていたそうです。そもそも高校2年までは野手で、ピッチャーを始めたのは他の選手がケガをしたから。正直、ピッチングよりもバッティングのほうが楽しかったんですよ。

川上憲伸(中日ドラゴンズ/徳島県徳島市出身)前編「開幕投手に必要な勝ち負け以上の意味」

 オフの戦力外から一転、新生ドラゴンズの開幕投手だ。  中日のベテラン右腕・川上憲伸が6年ぶり7度目の開幕投手を務める。谷繁元信兼任監督が24日に都内で行われたセ・リーグファンミーティングで起用を明言。「キャンプで見た時から今年はやってやるという姿が感じられた」と理由を語った。過去、最多勝のタイトルを2度獲得した実績は十分。吉見一起が右ひじの手術明けで開幕に間に合わない中、かつてのエースに投手陣の柱として期待が高まっている。栄光と挫折を両方味わって迎えるプロ17年目、2月の沖縄・北谷キャンプ中に二宮清純が訊いた開幕にかける思いを紹介する。

藤田一也(東北楽天ゴールデンイーグルス/徳島県鳴門市出身)最終回「感激した星野監督の一言」

: 藤田さんといえば、昨年の日本シリーズ第5戦、死球を左ふくらはぎに受けた直後の激走が話題になりました。あの死球はかなり痛かったでしょう? : むちゃくちゃ痛かったですよ。左ふくらはぎに死球が当たったのは4回目でしたが、そのうち2度は長期離脱を余儀なくされました。当たった瞬間に「これはヤバイ」と直感しましたね。お尻のほうまで筋肉がつった感じになって、もう足を地面につけられないんです。

藤田一也(東北楽天ゴールデンイーグルス/徳島県鳴門市出身)第2回「壁当てで鍛えた守備力」

: 藤田さんは守備の際、打球を処理したら速く投げることを強く意識しているとか。 : 肩が強くないので、普通のゴロであれば捕球の際にグラブは閉じません。当てるだけですぐに右手に持ちかえます。ゴロだけでなく、ゲッツーの場合もショートからの送球を捕ってから投げるまでのスピードを追求しますね。セカンドはランナーがスライディングしてくるので、早く投げてベースから離れないとスパイクされてしまう。ケガを防止するためにも速く投げることは大切です。

藤田一也(東北楽天ゴールデンイーグルス/徳島県鳴門市出身)第1回「マー君登板時、好守の理由」

「アイツの守備にはシーズン10勝以上の価値がある」  いつもは選手に厳しい東北楽天・星野仙一監督が、そう絶賛する内野手がいる。セカンドの藤田一也だ。2012年途中に横浜DeNAから楽天に移籍すると、昨季は「2番・セカンド」に定着。高い守備力に加えて打線のつなぎ役を務め、初のリーグ優勝、日本一に貢献した。今季からは移籍3年目ながら選手会長に選ばれ、名実ともにチームを牽引する。節目のプロ10年目を迎えた守備の名手に二宮清純がインタビューした。

天野優(サンリツ卓球部/明徳義塾中学・高校出身)最終回「日本を制して世界へ」

 天野優は高校卒業後の進路として2011年、日本卓球リーグ女子1部のサンリツへの入社を決めた。高校2年の冬にサンリツの前監督からスカウトされていたのだ。同社は日本卓球リーグで優勝を争う強豪で、福原愛がゴールド選手として所属していたこともあった。 「実業団のなかでもトップクラスですし、練習に打ち込める環境も魅力に感じました。また福原さんが所属していたことも大きかったですね」  天野は福原のプレースタイルを参考にしていたのだ。福原とは1シーズン、ともにプレーした。ピッチ、フットワークの速さはどれも世界トップレベルで、天野は「見ていてすごく勉強になりました」と刺激を受けた。

天野優(サンリツ卓球部/明徳義塾中学・高校出身)第3回「“1本”へのこだわり」

「あの時が彼女のすべての始まりだったのではないでしょうか」  佐藤利香(明徳義塾卓球部女子監督)が語る「あの時」とは、2009年のインターハイ(IH)高知県予選のことだ。天野優は、個人、ダブルス、団体とすべてのカテゴリーで全国大会出場権を逃したのである。その直後、天野は非常に落ち込んでいたという。しかし、佐藤(利)の「そんなくによくよしていたって何も始まらない。力をつけないと、来年もこうなるよ」という叱咤激励を受け、彼女はすぐに次にやるべきことに集中した。それは、基礎技術の向上である。

天野優(サンリツ卓球部/明徳義塾中学・高校出身)第2回「恩師を追いかけて高知へ」

 天野優の生活には、生まれた時から卓球があった。両親が実業団でプレーしており、実家の近辺には練習場もあった。天野は5歳の時に、両親に教えてもらうかたちで卓球を始め、和歌山銀行卓球クラブ(和銀クラブ)にも入団。平日は自宅、土日は和銀クラブで練習する卓球漬けの日々を送った。その中で、天野は試合をすることが何より好きだった。「負ければ悔しいですけど、勝った時は本当に嬉しい。その瞬間があるから、今も競技を続けているんだろうと思います」。小学1年の時から全国大会に出場するなど、実力の高さを示していった。

天野優(サンリツ卓球部/明徳義塾中学・高校出身)第1回「目指す舞台は世界」

 卓球界に今後、ブレークが期待される選手がいる。天野優、21歳。株式会社サンリツ卓球部に所属している社会人3年目の選手だ。戦型は速いピッチで勝負を仕掛ける前陣速攻型。12年の全日本社会人選手権のシングルスで3位に入った。

石本康隆(プロボクサー/香川県高松市出身)最終回「I’m a tough boy」

 2012年2月、石本康隆(帝拳)は進退をかけて臨んだ大一番で敗れた。日本スーパーバンタム級のタイトル獲得失敗に終わり、石本は人目もはばからずに号泣した。年齢も31歳と決して若くはなく、引退も真剣に考えた。それでも彼は辞めなかった。いや、諦めきれなかったのだ。石本は再び、チャンピオンを目指す道を走り始めた。以降、4戦4勝3KO。それまで25戦中19勝のうち、わずか3KOだった男のレコードにKO勝ちが次々と刻まれていった。リング上で積極的に仕掛ける姿は、まるで別人に生まれ変わったかのようだった。

石本康隆(プロボクサー/香川県高松市出身)第3回「心の弱さが生んだ“スロースターター”」

 デビューから2連勝し、順風満帆に見えた石本康隆だったが、タイトル挑戦までは10年もの月日を費やした。所属する帝拳ジムでは、チャンピオンのみが専用のロッカーを所有できる。他のボクサーたちが次々と自らのネームプレートを空きのロッカーに入れていく中、石本は「自分もいつかは」と思いを募らせながら、空いているロッカーを探す日々が続いたのだった。

石本康隆(プロボクサー/香川県高松市出身)第2回「拳闘士の原点」

 現在、スーパーバンタム級の世界ランカーである石本康隆(帝拳ジム)だが、プロ入り前はアマチュアで1戦1敗と、特筆するほどの経歴はない。高校や大学で数多のタイトルを獲得し、鳴り物入りでプロの世界へと飛び込んできた粟生隆寛(高校6冠、WBC世界フェザー級、同スーパーフェザー級の2階級制覇)、井岡一翔(高校6冠、WBA・WBC世界ミニマム級統一王座、WBCライトフライ級の2階級制覇)などのように華やかな道を歩んできたわけではない。竹原慎二(元WBA世界ミドル級王者)、辰吉丈一郎(元WBC世界バンタム級王者)らのごとく、少年時代はケンカばかりに明け暮れていた“札付きの不良”だったという荒々しい“逸話”もない。典型的なボクサーの型にはまらない石本のボクシング人生。その原点は、子供の頃の真似事から始まった。

石本康隆(プロボクサー/香川県高松市出身)第1回「王者に噛みついたアンダードッグ」

 噛ませ犬――。闘犬において、自信をつけさせるためにあてがわれる弱い犬のことだ。ことボクシングにおいても、しばし用いられる比喩表現で、いわば“踏み台”扱いのボクサーのことを指す。昨年4月、中国・マカオで行われたWBOインターナショナル・スーパーバンタム級タイトルマッチでの挑戦者・石本康隆(帝拳ジム)は、まさに“噛ませ犬”と見られていた。対する王者のウィルフレッド・バスケス・ジュニア(プエルトリコ)は元WBO世界スーパーバンタム級王者。3階級制覇の名ボクサーを父に持つ、サラブレッドボクサーである。カジノ街であるマカオで、石本vs.バスケスに付けられたオッズは1:12。誰もがバスケスの勝利を疑わなかった。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)最終回「まだ見ぬ頂点へ。最後にかける思い」

「それじゃダメだ」  高校3年の春、上田晃平にそう声をかけたのは東映、巨人で投手として活躍した高橋善正だ。当時、高橋は母校の中央大学野球部の監督を務めていた。知人から「愛媛にいいピッチャーがいる」と聞いて、わざわざ南宇和高校に足を運んだのだ。その日、練習試合が行なわれる予定だった。上田は当然意気込んでいたが、不運にも雨天中止となった。そのため、ブルペンで上田のピッチングを見ていた高橋は、こう上田にアドバイスをした。 「130キロのボールでも、コーナーを突けば、大学でも十分に通用する。スピードよりもコントロールを意識して投げなさい」  そして、こう続けた。 「ゆっくりとした遅いスローカーブを投げてみろ」  これが上田のピッチングが大きく変わるきっかけとなった。

上田晃平(中央大学硬式野球部/愛媛県南宇和郡愛南町出身)第4回「仲間思いの“お山の大将”」

「人なつっこい子だなぁ」  上田晃平が高校3年となった春、南宇和高校に新米教師として赴任し、野球部部長に就任した近藤輝幸(現・新居浜東高野球部監督)は、上田の第一印象をこう語った。 「野球の能力が高いことはすぐにわかりました。練習でも自主練習の時間はチームから離れて、自らが課したノルマを黙々とこなしていましたし、将来が楽しみな選手だなと思いました」

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