谷川早紀(早稲田大学漕艇部/愛媛県今治市出身)第2回「殻を破った“ブルペンエース”」

 ボート強豪校の今治西高校で、谷川早紀は1年時から主力を任された。2年時はチームの誰よりもタイムが速く、愛媛県総合体育大会ではシングルスカルで上位に入った。その実力は指導する井手勝敏監督も「他の高校生と比べても能力的にはトップクラス」と認めていた。だが、なぜか試合となると勝ち切れず、全国大会(インターハイ)にはあと一歩進めなかった。

谷川早紀(早稲田大学漕艇部/愛媛県今治市出身)第1回「野球少女がオールを手にするまで」

「初めてボートに乗った時は感動しました」  名門・早稲田大学漕艇部の谷川早紀は、その時の感激を今でも忘れられない。今治西高校に入学する直前の2月、漕艇部に入部することを決めていた谷川は練習に参加した。1学年上の先輩と2人乗りの艇に乗り込んだ。その時はボートについて右も左も分からなかった谷川は、あくまで乗っただけ。あとは先輩に漕いでもらったのだ。「先輩が1回漕いだだけで、ボートがサァーッと進んだんです。その感覚に『おぉー』と感動したのを覚えています」。元々は野球少女だった谷川が現在もオールを漕ぎ続けているのは、その時に味わった艇が進む快感を、忘れられないからだ。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)最終回「唯一無二の“嫌がられるバッター”へ」

 亜細亜大学に進学した長曽我部竜也の公式戦デビューは、2年の春に訪れた。2012年5月24日、青山学院大学戦。大学野球の聖地、明治神宮球場の打席に初めて立った長曽我部は、足の震えが止まらなかった。 「これまでにないというほど、緊張していましたね。ピッチャーの後ろのバックスクリーンがものすごく高く見えて、圧倒されました」  がむしゃらにバットを振ったが、ボールは一向に前には飛ばない。そんなことは初めてだった。結果は四球。 「やっぱり一流のピッチャーは違うな……」  東都大学野球リーグのレベルの高さを、長曽我部は改めて感じていた。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第4回「悔いなき高校野球」

 長曽我部竜也が2年の夏、新田高校は愛媛県予選でベスト16にとどまった。前年は「まだ次がある」という気持ちがあった長曽我部だったが、この時はもうそんな余裕はなかった。入学時には5回あった甲子園へのチャンスは、いつの間にか春夏1回ずつを残すのみ。改めて甲子園に出場することの難しさを感じていた。そして新チームで臨んだ秋季大会も初戦敗退に終わり、センバツへの道は消滅。長曽我部はラストチャンスにすべてをかけるべく、それまで以上に練習に打ち込んだ。そして、最後の夏が訪れた――。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第3回「待ち受けていた“野次”と“ケガ”」

 野球を始めたきっかけが兄へのライバル心なら、厳しい父親の指導のもと、野球を続けた理由のひとつもまた兄の存在だったという長曽我部竜也。彼が兄と同じ新田高校を進学先に選んだのも必然だったのだろう。そしてもうひとり、長曽我部に大きな影響を与えた人物がいる。現在、同校野球部監督で、当時はコーチを務めていた岡田茂雄だ。 「絶対に新田に来いよ」  兄の練習を見に、高校のグラウンドを訪れると、必ずと言っていいほど岡田にそう声をかけられたという。長曽我部もまた、情熱的に指導する岡田の姿に魅了され、「岡田先生と一緒にやりたい」という気持ちが強くなっていった。そして2008年、長曽我部は新田高校野球部の一員となった。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第2回「“星一徹”張りの父親の存在」

「兄ちゃんばっかり、ずるい。僕にも教えて!」  そう言って、4つ上の兄にライバル心を燃やしたのが、長曽我部竜也の野球人生のスタートだった。父・大介は当時のことをこう語る。 「長男が小学校に入ってソフトボールをやり始めたんです。それで私が教えていたら、まだ幼稚園の年中くらいの竜也が『僕もやりたい』って言って来たんです。お兄ちゃんにやきもちをやいたんでしょうね。ブカブカの大きなグローブをはめて、一緒にやっていましたよ(笑)。負けたくない一心からか、ボールに対してはまったく怖がらなかったですね」  父・大介は当時のことを思い出したのだろう。電話の向こうで、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

長曽我部竜也(亜細亜大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第1回「崖っぷちでの原点回帰」

 今春、東都大学野球リーグでは新たな歴史の1ページが刻まれた。亜細亜大学が、戦後史上初となる6季連続優勝を達成したのだ。「戦国」とも言われるほど、強豪揃いの同リーグにおいて、この記録はまさに快挙。その立役者となったのが、國學院大学との優勝決定戦、最終戦で決勝打を放った長曽我部竜也である。しかし、決してチームは順風満帆だったわけではなかった。長曽我部はこう語る。 「最初は優勝どころか、監督には『2部降格もある』と言われていたんです」  そんなチームを優勝へと導いたのは、長曽我部たち4年生の結束力だった。

南野亜里沙(ノジマステラ神奈川相模原/徳島県板野郡板野町出身)最終回「日の丸を背負うストライカーへ」

「代表のユニフォームを着て、初めて君が代を聞いた時は鳥肌が立ちました」  2013年8月、南野亜里沙は日本女子代表としてロシア・カザンで開催されたユニバーシアード(ユニバ)に臨んだ。中学3年生の時は、U−15日本女子代表候補になったものの、最終メンバーには残れなかった。それだけに、南野にとって念願の代表初選出だった。しかし、彼女は嬉しさと同時に、ある悔しさも味わっていた。南野はユニバ代表では関東学園大で務めていたFWではなく、DFとして選手登録されたのだ。

南野亜里沙(ノジマステラ神奈川相模原/徳島県板野郡板野町出身)第3回「備えていた点取り屋の資質」

 徳島県外の高校で勝負する――。高校の進路を決めるにあたり、南野亜里沙と父・敬二は話し合ってこの決断に至った。なぜなら、当時、徳島県には女子サッカー部のある高校が1校しかなかったからだ。南野は複数の高校の練習に参加した末に、作陽高校(岡山)への進学を決意した。入学前の作陽女子サッカー部は創部間もないこともあり、部員数が11人未満だったという。それでも進学を決めた理由として、父・敬二は「練習参加した時にトレーニングの楽しさに惹かれたようです」と教えてくれた。また、作陽はなでしこリーグの岡山湯郷Belleの下部組織でもあるため、間近で宮間あや、福元美穂といった日本代表で活躍するトッププレーヤーに触れられるのも魅力だった。

南野亜里沙(ノジマステラ神奈川相模原/徳島県板野郡板野町出身)第2回「U−15代表落選後に流した悔し涙」

 幼い頃から、南野亜里沙の周りにはサッカーがあった。彼女はサッカーを始めたきっかけを「父の影響」と語る。南野の父・敬二は、長く社会人チームでプレーしていた。その父の練習や試合に、彼女はいつもついていった。父・敬二は「生後3カ月くらいから、よく連れて行っていましたね。私のサッカー仲間にもよく遊んでもらっていました」と当時を振り返った。小学校入学後、父親に「チームに入ってサッカーをやりたいか?」と聞かれ、「やりたい!」と答えたのは必然だったといえるだろう。南野は父親の知人のいる女子クラブチーム・板野プリマヴェーラに入団し、本格的にサッカーを始めることになった。

南野亜里沙(ノジマステラ神奈川相模原/徳島県板野郡板野町出身)第1回「ノビシロ十分な“新人”ストライカー」

 将来、なでしこジャパンのユニフォームに袖を通すであろう選手がいる。ピッチを所せましと躍動し、ゴールを決めてチームを勝利に導く。彼女の名は南野亜里沙。今季からノジマステラ神奈川相模原(なでしこチャレンジリーグ)でプレーする22歳だ。ポジションはFWで、関東学園大学4年時だった昨年は、関東大学女子サッカーリーグ1部で得点女王(12点)に輝いた。チャレンジリーグ1年目の今年は、ルーキーながら第15節終了時点で11ゴールを挙げて得点ランキング5位。高い決定力で1部のなでしこリーグ昇格を狙うチームを支えている。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第4回 野球人生の集大成

 2014年5月25日、東京大学は春のリーグ最終戦を迎えていた。相手は史上最多44回の優勝を誇る法政大学。有井祐人は前日に続いてのスタメン出場となった。開幕前にヒザを故障した有井は前日、シーズン初のスタメン入りを果たしていた。だが、2打席連続で三振した有井に、浜田一志監督は交代を命じた。 「これで明日の最終戦でのスタメンはないな、と思いました。2打席とも、あまりにも内容の悪い三振でしたから……」  ところが翌日、打順は6番に下がったものの、有井は再びスタメンに選ばれたのだ。気合いが入らないわけはなかった。しかし、それが空回りする。1打席目、またも三振。果たして、このまま最後の春を終えてしまうのか――。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第3回「『お父さん』と呼べなかった週末」

「ちょっと観に行ってみようか」――父・豊のこの言葉が、有井祐人の野球人生の始まりだった。子どもの頃、有井は週末になると、父親と一緒によく港に釣りに出かけた。「小さいうちに、自然を学ばせたかった」という気持ちが、豊にはあった。その2人が釣りをしていたすぐ隣のグラウンドでは、リトルリーグの練習が行なわれていた。「カキーン」という金属バットの音を聞いては、豊はソフトボールをやっていた学生時代を思い出していた。そんなある日のこと、有井が小学3年の時だ。豊が練習を見学に行こうと言い出した。 「その日は魚も釣れないし、ちょっと隣のグラウンドを観に行ってから、帰ろうかなと思ったんです」  まさか、このひと言が親子の人生を大きく変えることになろうとは、知る由もなかった。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第2回「恩師を驚かせた野球への情熱」

 今から4年前のことだ。現在、愛媛県の松山城西ボーイズの総監督を務める二宮惠信の元に、1通のメールが届いた。小学3年から中学3年までの7年間、愛媛リトルリーグ、松山ファイターズ(現城西ボーイズ)で指導した有井祐人からだった。メールを開くと、そこには驚きの内容が書かれてあった。 「まさか、こんな思いを抱きながら高校3年間を過ごしていたとは……」  衝撃にも似た感情とともに、二宮には喜びがこみ上げてきていた――。

有井祐人(東京大学硬式野球部/愛媛県松山市出身)第1回「たかが1勝、されど1勝」

「1勝」――。彼らほど、この重みと価値を感じている者たちはいないのではないか。東京大学野球部である。今年の春季リーグ、東大は全敗を喫した。これで2010年秋から続く連敗記録は76となり、東京六大学野球リーグのワースト記録を更新中だ。大学野球の雄である東京六大学野球には、プロ野球選手を多数輩出している私立の強豪校がズラリと並ぶ。その中で東大は唯一の国立大学。推薦枠もなく、甲子園経験者は皆無に近い。実力差は歴然である。だが、彼らは決して負けを当然とは思ってはいない。1勝に賭ける思いは、他大学を凌ぐと自負する。なかでも「六大学で野球をやるために東大を受験した」という熱い男がいる。主将の有井祐人だ。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)最終回「名門を指揮する責任の重み」

「やっている時にはそれほど感じませんでしたが、現場を離れてみて、やはり大きいなと……」。日本体育大学体操競技部前監督の具志堅幸司は、常勝を義務付けられた名門校でのプレッシャーをこう語る。日体大はこれまで在校生、OBを含め日本が出場した五輪全てに代表選手を送り込んでいる。現在、世界の頂点に立つ内村航平も卒業生の1人。日体大は常に日本の体操界をリードしてきた存在だ。しかし、近年は思うような結果を残せていない。大学日本一を決める全日本学生選手権(全日本インカレ)では、ライバルの順天堂大学に3連覇を許している。だが、現監督の畠田好章は、結果だけに固執してはいない。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第4回「シドニーへの道から、指導者の道へ」

「アトランタ五輪が終わった時には、このままじゃ終われないという部分はありましたね。やはり団体でメダルを逃して、個人でもメダルを獲れなかった。なんとかリベンジしたかった」。畠田好章は、失意のアトランタ五輪を終えて、次なる目標へと向かおうとしていた。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第3回「20歳の五輪と、その4年後」

「この子なら、将来必ずオリンピックに行ける!」。鳴門体操クラブの中瀬健は、小学5年の畠田好章が前日に負傷したのにも関わらず、全国大会を制した時に、そう確信したという。畠田は、中学時代は伸び悩むこともあったが、鳴門高校に進学後は順調に力を伸ばしていった。そして中瀬が抱いた予感は10年も経たぬうちに的中する。1992年8月、畠田は異国の地スペインへと旅立った。日の丸を背負い、バルセロナ五輪に出場したのだ――。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第2回「過信せず、無欲で掴んだバルセロナ行きの切符」

 中学生時代の畠田好章は、全国のタイトルとは無縁だった。“次期オリンピック選手”と期待を寄せる周囲と、「(五輪は)だいぶ遠かった」と感じる自己評価に大きな隔たりを感じ、やる気を失うことも少なくはなかった。小学4年から彼を指導していた中瀬健は、当時を振り返り「悪いサイクルが回っていた。成長し、いろいろと考える時期だった」と語る。なかなか練習にも身が入らず、不安を抱えたまま大会に臨んでいた。実力はあっても、それでは結果も出るはずがない。全国中学校体操競技選手権大会(全中)の個人総合では、2年時に2位、3年時は6位だった。同学年には大阪・清風中の田中光というライバルがいた。3年時に優勝したのは、田中の方だった。小学生時は全国大会優勝を経験していた畠田も、中学3年間でライバルに大きく差をつけられたかたちとなった。

畠田好章(日本体育大学体操競技部監督/徳島県鳴門市出身)第1回「世界を知る指導者の確信」

 これまで数々の五輪戦士を輩出している日本体育大学は、言わずと知れた体操界の名門である。現在、同大体操競技部の監督を務めているのが、OBでもある畠田好章だ。現役時代は1992年バルセロナ、96年アトランタと五輪2大会に出場した。バルセロナでは団体での銅メダルに貢献し、95年の世界選手権では3つの銀メダルを獲得するなど、世界の舞台で活躍した。現在は後進を指導する立場として、優れた人材を育成し、世界と戦う体操NIPPONを支えている。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)最終回「執念のピッチング」

 2012年の高校野球は、大阪桐蔭で始まり、大阪桐蔭で終わったと言っても過言ではない。春のセンバツで優勝を果たした同校は、夏も全国の頂点に立ち、春夏連覇という快挙を成し遂げた。澤田圭佑自身は甲子園で2度先発し、チームの勝利に貢献。特に夏は投げては完投、打っては甲子園初本塁打と投打での活躍を見せた。子どもの頃から夢だった甲子園での全国優勝を2度も経験した澤田。しかし、その裏では知られざる「背番号10」の苦労があった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第3回「失いかけた甲子園への道」

「人よりスピードが速いわけでも、すごい変化球があるわけでもない」  澤田圭佑はそう自己分析する。では、彼のピッチングを支えてきたものとは――。安定したコントロールを欠かすことはできない。リトルリーグ時代からコントロールに苦労したことがないと言う澤田。それは彼の負けず嫌いな性格が生み出した力だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第2回「踏み出したエースとしての第一歩」

「よし、このボールで打ち取れる」。澤田圭佑は投げた瞬間、そう思った。2ストライクと追い込んで、勝負を決めにいった内角低めのストレート。自らのボールに手応えを感じていた。ところが次の瞬間、弾丸ライナーが目の前を通り過ぎていった。澤田が振り向いた時には、打球はライトスタンドへと吸い込まれていくところだった。 「すごい……」  大学野球のレベルの高さを痛感した一発だった。

澤田圭佑(立教大学野球部/愛媛県松山市出身)第1回「ライバル物語の偽らざる真相」

 2番手としてリリーフすることの多かった高校時代から一転、大学入学後、間もなく彼に与えられたのは1番手のポジションだった。今年は2年生ながら早くもエースとしての座を確立しつつある。大阪桐蔭高校から昨年、立教大学に進学した澤田圭佑だ。「与えられた役割を一生懸命にやるだけ」と語る澤田。1番手でも2番手でも、やることや気持ちは何ら変わらない。だからいつの間にかつくりあげられた高校時代の「物語」に対しては、こう語気を強める。「彼とは一度もライバル関係になったことはない」と――。

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