中村ジュニア(第6代修斗環太平洋ライト級王者/愛媛県宇和島市出身)最終回「今度は世界のベルトを」

 2015年1月25日、東京・後楽園ホール。環太平洋ライト級王座決定戦。中村ジュニアは39歳の宇野薫とベルトをかけて激突した。 「宇野選手の試合はよく観ていました。逆転勝ちも多くて、試合を観ていると興奮する。ファンだったので、まさか実際に戦うとは思いませんでしたね」

中村ジュニア(第6代修斗環太平洋ライト級王者/愛媛県宇和島市出身)第3回「転機は連敗の屈辱」

「とにかく、プロになるまでは帰れないと思っていました。成人式も愛媛には戻らなかったんです」  マッハ道場に入門後、同級生がキャンパスライフを満喫している時期、中村ジュニアはただひたすら格闘技に打ちこんだ。

中村ジュニア(第6代修斗環太平洋ライト級王者/愛媛県宇和島市出身)第2回「柔道、レスリングから格闘技へ」

 1990年代後半から2000年代前半にかけて、日本の格闘技は一大人気を集めていた。K-1やPRIDEの大会は地上波でも放送され、ファンを増やしていった。愛媛の片田舎で育った中村ジュニアも、そのひとりだった。 「テレビで試合を観ていて、ピピッとくるものがあったんです。“格闘技をやりたい”って」

中村ジュニア(第6代修斗環太平洋ライト級王者/愛媛県宇和島市出身)第1回「失冠からの再スタート」

 初防衛戦はタイトルを奪うより難しい――。  格闘技の世界で昔から唱えられている王者にとっては“呪いの言葉”である。「勝たなくてはいけない」「ベルトを守らなければいけない」……目に見えないプレッシャーが初めて防衛戦を闘うファイターには、のしかかる。当然、挑戦者は、これをチャンスとばかりに徹底して王者を研究し、襲いかかる。初防衛戦の呪縛を自らの力で解き放ってこそ、王者は真のチャンピオンとなれるのだ。

中西清起(阪神投手コーチ/高知県宿毛市出身)×二宮清純 最終回「覚悟を持って継投で“攻める”!」

: 今季のセ・リーグは混戦模様です。どのチームにも優勝のチャンスがあると言っていいでしょう。 : チャンスがあるだけに、継投をいかにうまくやっていくか。野球は何といってもピッチャーですから、ここが優勝できるかどうかのポイントになってくるでしょう。早め早めに継投を仕掛けられるようにしたいと考えています。

中西清起(阪神投手コーチ/高知県宿毛市出身)×二宮清純 第3回「JFKのような強力ブルペンを」

: 中西さんは高知県宿毛市の出身ですね。昔、カツオを食べに行っておいしかったのを覚えています。 : 愛媛との県境にある場所で、中学時代は愛媛の城辺や御荘(いずれも現愛南町)の中学校とよく試合をしていました。

中西清起(阪神投手コーチ/高知県宿毛市出身)×二宮清純 第2回「藤浪、エースへの条件」

: コーチにはいろいろなタイプがあります。手取り足取り厳しく指導するコーチもいれば、基本的には選手たちの自主性に任せるコーチもいる。選手を教える上で心がけていることは? : 僕は選手にとっての兄貴分でありたいと思っています。締めるところは締めつつも、近寄りがたい存在にはなりたくない。コミュニケーションをとりながら、選手の考えや意見も聞き、その上で「チームとしては、こういう役割を任せたい」「この場面に合わせて準備してほしい」と伝えるようにしていますね。

中西清起(阪神投手コーチ/高知県宿毛市出身)×二宮清純 第1回「リーグ制覇へ江夏の教え」

 近年にない混戦が予想されるセ・リーグで、開幕前の評論家予想で広島、巨人とともに優勝候補に挙げられていたのが阪神だ。昨季はリーグ2位ながらクライマックスシリーズで巨人を4タテして日本シリーズに進出した。鳥谷敬、西岡剛、マット・マートン、マウロ・ゴメス、福留孝介といった好打者の揃った打線に、ランディ・メッセンジャー、藤浪晋太郎、能見篤史ら先発と抑えの呉昇桓を擁する戦力バランスの良さは評価が高い。10年ぶりのリーグ優勝を目指すチームの投手陣を束ねる中西清起コーチに、今季のプランやピッチャーの指導法について二宮清純が開幕前にインタビューした。その模様を4回にわたってお届けする。

桃田賢斗(NTT東日本バドミントン部/香川県三豊市出身)最終回「“オーラ”のスーツを纏い、ヒーローに変身へ」

 2014年12月、桃田賢斗(NTT東日本)にとって、6度目の全日本総合選手権大会は忘れられぬ大会となった。男子シングルス6連覇中の田児賢一(NTT東日本)がケガで出場を辞退した。大会直前の国際バドミントン連盟(BWF)世界ランキングは田児に次ぐ日本人2位の15位につけていた桃田が、“繰り上がり”で優勝候補の筆頭に躍り出た。「NTT東日本は6年間、ずっと全日本総合の優勝カップを獲っていました。ここで自分が負けるわけにはいかなかった」。絶対王者・田児の不在は、初優勝のチャンスを得るのと同時に、彼の両肩に“重荷”を背負わせた。

桃田賢斗(NTT東日本バドミントン部/香川県三豊市出身)第4回「超えなくてはならない背中」

 桃田賢斗が高校卒業後の進路にNTT東日本を選んだ理由は、田児賢一というプレーヤーの存在があった。NTT東日本に所属する田児は全日本総合選手権大会の男子シングルスで前人未踏の6連覇を達成した日本バドミントン界の第一人者。現在は国際バドミントン連盟(BWF)の世界ランキング29位(3月19日時点)だが、最高で3位になったこともある。2012年のロンドン五輪に出場し、世界選手権など国際大会の経験も豊富で、BWFスーパーシリーズでは7度の準優勝を果たしている。桃田は日本のエースである男の背中を追いかけた――。

桃田賢斗(NTT東日本バドミントン部/香川県三豊市出身)第3回「逆境を乗り越え、掴んだ“世界一”」

 2011年3月11日、異国の地で武者修行をしていた桃田賢斗に衝撃の報が飛び込んできた。桃田の住む福島県をはじめとする東日本地域が未曽有の大震災に見舞われたのである。遠征先のインドネシアでニュースを知り、愕然とした。チームメイトとも連絡がとれず、「みんなが大丈夫なのか、とても心配でした。正直、何も手につかなかった」と桃田は当時を振り返る。帰国の途についても、福島へは戻れなかった。彼の通う富岡高がある福島県富岡町は福島第1原発事故による警戒区域に指定されたからだ。桃田は、香川県へ帰ることを余儀なくされたのだった。

桃田賢斗(NTT東日本バドミントン部/香川県三豊市出身)第2回「確立された“楽しむ”というスタイル」

「ただ純粋にシャトルを追いかけていました」。桃田賢斗は、強くなることを求めてやって来た。故郷から遠く離れた福島県での寮生活。香川県から来た12歳の少年に、見知らぬ地への不安はない。厳しい練習に耐えられたのも、ホームシックにかかることもなかったのは、先輩や同級生といった仲間の存在が大きかった。桃田は当時を振り返り、「毎日が合宿のようで、充実していましたね」と語る。私生活もバドミントンも楽しむことで、彼はのびのびと成長していったのだった。

桃田賢斗(NTT東日本バドミントン部/香川県三豊市出身)第1回「歴史を塗り替えるスーパーマン」

 日本バドミントン界の歴史を塗り替えている男がいる。NTT東日本に所属する桃田賢斗である。20歳の桃田は、2年前に世界ジュニア選手権のシングルスを制し、昨年は国別対抗戦のトマス杯優勝も経験した。これまで日本男子が誰ひとりとして、届かなかった世界の頂点に2度も立ったのだ。現在、男子シングルスのBWF世界ランキングは日本人トップの14位(2月26日時点)に立つ桃田。1年後に控えるリオデジャネイロ五輪での活躍が期待される若きヒーローは、どのように生まれ育ったのか――。

宮内育大(日本大学陸上競技部/高知県長岡郡大豊町出身)最終回「狙うは日本人初の19メートル越え」

「技術が一気に変わった年」。宮内育大は、大学2年の1年間をこう表現した。というのも、宮内は自己ベストが初めて17メートル台を突破したのだ。関東インカレでは16メートル23の記録で優勝したものの、その後、関東以外の大学で16メートル後半を投げる選手たちが出てきた。その選手たちとは全日本インカレで戦うことになる。宮内は「このままだと負けるんじゃないか……」と一抹の不安を抱えていた。そんな彼の不安を拭い去るきっかけになったのは、成田合宿で日大陸上部監督・小山裕三に受けた指導だった。

宮内育大(日本大学陸上競技部/高知県長岡郡大豊町出身)第3回「失意を乗り越えて掴んだ日本一」

「序盤で16メートル39を投げて、“ここからだ!”という時に伸ばし切れませんでした」  こう振り返る宮内育大の表情には、今でも悔しさがにじみ出ていた。7年前の2008年8月、埼玉インターハイ・陸上男子砲丸投げで宮内は予選1投目を失敗したものの、つづく2投目で16メートル13を投げて予選通過記録(15メートル20)を突破した。事実上の“一発クリア”を果たし、決勝前の練習でも好調を維持。追手前高校陸上部監督の岡村幸文には、他校の指導者の「これは宮内が優勝だな」という声も聞こえてきた。それほど、宮内の調子は良かった。迎えた決勝でも、1投目で16メートル39の自己ベストをマークして1位に躍り出た。しかし、2投目以降で記録を伸ばせず、最終順位は5位。競技終了後、宮内に笑顔はなかった。

宮内育大(日本大学陸上競技部/高知県長岡郡大豊町出身)第2回「全国で勝負するために必要だったモノ」

 2007年8月、高校2年となっていた宮内育大は佐賀インターハイに出場した。砲丸投で全国大会に出場するのは初めて(※前年に少年・円盤投げで国民体育大会に出場)だった。当時、彼の自己ベストが14メートル台だったのに対し、全国大会常連の選手たちのそれは16メートル台。専門誌で取り上げられるほどの選手もいたが、宮内は「やってみなければわからない」という気概で大会に臨んだ。しかし、公式練習で宮内の力一杯投げた距離が、猛者たちに軽々と越されていく。迎えた本番でも14メートル11の記録におわり、彼は決勝に進出することができなかった。宮内は「まざまざと力の差を見せつけられました」と当時を振り返った。

宮内育大(日本大学陸上競技部/高知県長岡郡大豊町出身)第1回「運命に導かれたショットプッター」

 初めての記録は優勝だった。日本大学陸上競技部の宮内育大(大学院2年)が砲丸投に出合ったのは、中学3年の時だ。宮内は通っていた大杉中学校でソフトボール部に所属していた。2005年11月、宮内ら運動部の選手が地域で開催された陸上大会に参加する機会があった。そこで宮内は砲丸投に出場し、大会記録を出して優勝。彼は砲丸投という種目を選んだのは「たまたまでした」と振り返ったが、初めて砲丸を投げたという宮内の結果に周囲は驚いた。当時はまだ宮内自身に陸上を始める気持ちはなかった。だが、陸上大会での活躍は、彼を陸上の世界へと誘うきっかけとなった。

長崎望未(トヨタ自動車レッドテリアーズ/愛媛県新居浜市出身)最終回「動じない心、変わらぬ姿勢」

 2013年4月、日本リーグ開幕節。4連覇を狙うトヨタ自動車レッドテリアーズは、毎年優勝争うライバルのルネサスエレクトロニクス高崎と対戦した。長望未は3番センターでスターティングメンバーに名を連ねた。  最初の打席でいきなりチャンスはやってきた。顔には出さないが、胸中には期するところがあったのだろう。バッターボックスに入る長の眼光は鋭かった。一方で打撃フォームから力みは感じられず、悠然とした佇まいを見せていた。「勇気がなかった」という前年の彼女の姿は、そこにはなかった。

長崎望未(トヨタ自動車レッドテリアーズ/愛媛県新居浜市出身)第3回「試練を乗り越え、さらなる高みへ」

「10年にひとりいるかどうかの逸材」。京都西山高校で3年間、長望未を指導した吉田茂樹(現龍谷大監督)は彼女をそう絶賛する。「運動能力が高く、バッティングは器用で何でもできた。打撃に関しては、天性のものを持っていました。タイプは違いますが、同じ左バッターだったら狩野亜由美(現豊田自動織機シャイニングベガ)も並のセンスじゃなかった。そんな彼女よりも上だと思います」。同校のOGであり、日本代表の1番打者として、北京五輪の金メダル獲得に貢献した狩野を凌ぐほどのセンスだったという。高校時代、長はその類稀なる才能を如何なく発揮した。

長崎望未(トヨタ自動車レッドテリアーズ/愛媛県新居浜市出身)第2回「直感を信じて選んだ道」

 人生には幾つもの分岐点がある。長望未はこれまで自らの直感を信じて歩んできた。小学3年でソフトボールを始めたのは、彼女にとって“これだ”と思える何かを感じたからだ。長はそれまで小学1年からの2年間、バレーボールをやっており、監督やコーチから「筋がいいね」と褒められるほどだった。だが、バレーボールが彼女の心を打つことはなかった。長がソフトボールに惹かれた理由は、やはりバッティングだった。

長崎望未(トヨタ自動車レッドテリアーズ/愛媛県新居浜市出身)第1回「自分の“間”に引き込むスラッガー」

 バッターボックスに立つ前、トヨタ自動車レッドテリアーズの長崎望未は自軍のベンチを見つめていた。自らの呼吸を聞きながら、集中力を研ぎ澄ましていたのだ。  昨年11月、日本リーグ決勝トーナメント。前年度覇者のルネサスエレクトロニクス高崎との決勝、相手の先発マウンドには上野由岐子が立っていた。北京五輪や世界選手権など数々の国際大会で日本に金メダルをもたらしてきた日本の大黒柱である。  1回裏、1死三塁の場面、先制のチャンスで3番・長の打順は巡ってきた。いつも通りのルーティンをこなす。土埃のついたバットに息を吹きかけ、「頼むよ」と“相棒”に気持ちをこめた。

権田達也(中央大学重量挙部/愛媛県新居浜市出身)最終回「愛媛のために、日本のために」

「階級を53キロから56キロに上げてみたらいいんじゃないか?」  2012年10月の国民体育大会終了後、権田達也は中央大学重量挙部の同級生からこうアドバイスされた。権田は大学に入って記録が伸びなくなり、スランプからの脱出を模索していた。彼は同級生の助言を受け入れて階級アップを決意。すぐに食事量と筋力トレーニング量を増やし、56キロ級で戦う体づくりに着手した。すると、この決断が吉と出た。それまで何をやっても伸びなかった記録が急激に向上したのだ。「スナッチでいえば約10キロも記録が伸びました。記録がまた向上してきたので、やっぱり重量挙げって楽しいなと思いましたね」と権田。彼は階級アップをきっかけに新たなパワーを手にし、失いかけていたウエイトリフティングへの情熱も取り戻したのだ。

権田達也(中央大学重量挙部/愛媛県新居浜市出身)第4回「有終の美を飾った高校生活」

「今日はバーベルが軽く感じる」  2011年8月、権田達也はインターハイのウエイトリフティング男子53キロ級に出場した。冒頭のコメントは、スナッチの1回目を挙げた時の感触である。ライバルと目されていた選手はスナッチが得意種目だったが、権田はライバルを上回ってトップ(87キロ)につけた。そしてジャークでもトップ(113キロ)となり、トータル200キロ。権田は目標にしていた日本一を、完全優勝で成し遂げた。優勝が決定した瞬間、会場には権田と監督の石川洋平が抱き合って喜ぶ光景があった。

権田達也(中央大学重量挙部/愛媛県新居浜市出身)第3回「“表彰台”から“日本一”へ、軌道修正した目標」

 ウエイトリフティングを始めて約1年後の2010年3月、権田達也は全国高校選抜大会に臨んだ。自身を「試合などで緊張してしまうタイプ」と分析する権田は、スナッチを3回連続で失敗し、失格してしまった。初の大舞台で極度の緊張に陥ったのだろう。ほろ苦い結果となったが、権田は意外にも「勝負できるかもしれない」と感じたという。ジャークで挙げた98キロが全体で5番目の記録だったのだ。1位の記録は122キロだったが、2位の105キロと権田の記録は7キロ差。スナッチを成功させていれば、表彰台を争う可能性があった。権田は記録を残すことはできなかったが、「全国レベルでも戦える」という自信を持ち帰った。

権田達也(中央大学重量挙部/愛媛県新居浜市出身)第2回「身体測定でスカウトされた逸材」

 権田達也とウエイトリフティングの出合いは突然だった。新居浜工業高校に入学して間もない2009年4月、身体測定が行われた。この時、権田はひとりの教員から声をかけられた。その教員こそ権田をウエイトリフティングの世界へ導いた同校重量挙部監督・石川洋平である。実は石川は、ウエイトリフティングで活躍できそうな人材を探していたのだ。石川は権田の姿を見た時、「どうしても欲しい」と思ったという。一体、石川は権田のどのような部分に目が留まったのか。

Back to TOP TOP