FORZA SHIKOKU
米国ネバダ州ラスベガス――。言わずと知れたギャンブルの街である。この地には一攫千金を夢見るギャンブラーたちが集う。砂漠地帯にある大都市に、一度は諦めた夢を再び追いかけ、降り立った男がいる。男子グレコローマンスタイル66キロ級日本代表の泉武志(一宮グループ)だ。彼は現地時間7日に開幕する世界選手権に出場し、オリンピックへの切符を掴み取ろうとしている。今大会は五輪種目の各階級5位以内が、まず国別出場枠を獲得。さらに表彰台に上がることができれば、リオデジャネイロ五輪代表にグッと近付く。この4年に1度の夢舞台こそが、泉がマットに戻ってきた理由なのだ。
2軍で4番を張り続けている今季、和田恋はバッティングフォームの修正に取り組んでいる。高校時代からの左足を大きく上げるスタイルから、すり足に近いステップに変更した。 「(2軍の)岡崎郁監督からのアドバイスで、確率を上げるためにバッティングをシンプルにしようと変えました」
「野球が一番、身近にあったスポーツでした」 和田恋は高校球児だった父・博人の影響で、4歳上の兄・涼とともに物心ついた頃から野球を始めた。父も兄も全国大会に何度も出場経験のある高知高の出身。兄が甲子園でプレーする姿に憧れ、自らも高知中から高知高と進み、同じ道を選んだ。
78試合、打率.200、1本塁打、15打点。 それがルーキーイヤーの2軍での和田恋の成績である。主にサードで起用され、育成の1年を過ごした。 「1年間、プロの世界を経験できたことは一番良かったですね。守備もバッティングも走塁も成長できた部分を感じることができました」
不動の4番バッターである。 プロ入り2年目、巨人の和田恋はファームの主軸を開幕から任されている。ここまで全96試合に出場。打率こそ.214ながら、チームトップの8本塁打と右へ左へ放物線を描く。成績が認められ、6月に開催された侍ジャパン大学代表とのユニバーシアード壮行試合ではNPB選抜に選出され、3番スタメンで出場した。台風で中止になった7月のフレッシュオールスターゲームでも、イースタンリーグ選抜に選ばれている。
: 現役引退後、ジムを立ち上げました。ジム開設から何年になりますか。 : 15年です。会員は150人くらいで、そのうち、プロのライセンスを持っているのは15名ほどです。
: 17戦目でホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に挑戦して、WBC世界スーパーフライ級王座を獲得します。ようやく夢が叶ったという喜びは大きかったのでは? : なんか現実味がなかったですね。チャンピオンになったという感覚は後から湧き出てくるものです。地元に帰ったりして、注目度が高まったり、周りがチャンピオンとして認めてくれるうちに実感が出てきました。
: プロデビューから3連続KO勝利を収めましたが、フライ級の東日本新人王決定戦でピューマ渡久地さんにKO負けを喫してしまいます。最初につまずいたのはショックだったのでは? : そうですね。田舎から出てきて、都会の生活に慣れなくて、心身ともにコンディションは良くなかったですね。それから減量もきつかった。全部、言い訳になっちゃいますけど、すべてがダメな状態で試合に臨んでしまいました。言い訳をつくってリングに上がると絶対に負けちゃいますよ。
: 川島さんはお父さんの影響で小さい頃からボクシングを始めました。お父さんのボクシング経験は? : 本人はやっていないんです。オヤジは理容師で、その勉強で東京にいた時にボクサーと知り合ったそうです。それからボクシングに興味を持ったと聞きました。
川島郭志といえば、“アンタッチャブル”の異名をとった1990年代の名ボクサーだ。卓越した攻守で世界王者に昇りつめ、WBC世界スーパーフライ級王座を6度防衛した。だが、その道のりは決して平坦ではなかった。ライバル対決での敗戦や、思わぬケガ……。現在は都内にジムを開設し、未来の王者育成に力を注ぐ川島に、これまでの人生を振り返ってもらいつつ、日本ボクシング界のこれからについて、二宮清純がインタビューした。その模様を4回にわたってお届けする。
女子100メートルハードルの日本記録は、2000年に金沢イボンヌがマークした13秒00。それから15年止まったままの時計。“13秒の壁”を超えることは、日本女子陸上界の悲願である。住友電工に所属する伊藤愛里も、そこに挑戦するハードラーの1人だ。しかし、彼女自身もまた“壁”に直面している。パーソナルベスト(13秒27)は4年前から塗り返られていない。 「自己ベストが見えないことには、その先はクリアできない。そこをどうすればいいのか追求し、解明したいんです」 社会人4年目の今シーズン、伊藤は変化を求めている。
中学時代は全国大会に縁がなかった伊藤愛里。3年時には四国大会で表彰台に上がったものの、全日本中学校選手権の出場経験はない。しかし、彼女の競技人生は済美高に進んでから一変する。3年連続で全国高校総合体育大会(インターハイ)に出場。高校入学前は「陸上のイロハを知らなかった」という伊藤が、インターハイ常連となるまで成長を遂げたのは、なぜか――。
「わかりました。入ります!」。中学に入学したばかりの頃、伊藤愛里は部活動見学を経て、陸上部への入部を決めた。当初は「テニスウェアが可愛いから」という理由でテニス部に入る予定だった。しかし、伊藤はラケットを手にしなかった。 彼女は照れくさそうに真相を話す。 「実はアメちゃん、もらったから入りました。友達と『陸上部も回ろうか』と行った時に、部の先輩から飴をいただいたんです。それが理由なんです」 12歳の少女は可愛いテニスウェアよりもアメちゃんに惹かれ、陸上への道を選んだ。“花より団子”でスタートした彼女の競技人生は、今もなお続いている。
各選手がスタートラインに立ち、レーンごとに名前をコールされる。陸上競技のトラック種目ではありふれた光景だ。自らの番が回ってくると、彼女は満面の笑みを浮かべ、手を挙げる。一礼した後も、その生き生きとした表情が解かれることはない。 彼女の名は伊藤愛里。住友電工陸上競技部に所属する100メートルハードラーだ。本人によれば、屈託のない笑顔は、自然と生まれるものだという。 「レースが本当に楽しいんですよね。私自身が意識しているというよりも、会場の皆さんに鼓舞されて、“やれるかもしれん”という気持ちが湧いてくるんです」
2015年1月25日、東京・後楽園ホール。環太平洋ライト級王座決定戦。中村ジュニアは39歳の宇野薫とベルトをかけて激突した。 「宇野選手の試合はよく観ていました。逆転勝ちも多くて、試合を観ていると興奮する。ファンだったので、まさか実際に戦うとは思いませんでしたね」
「とにかく、プロになるまでは帰れないと思っていました。成人式も愛媛には戻らなかったんです」 マッハ道場に入門後、同級生がキャンパスライフを満喫している時期、中村ジュニアはただひたすら格闘技に打ちこんだ。
1990年代後半から2000年代前半にかけて、日本の格闘技は一大人気を集めていた。K-1やPRIDEの大会は地上波でも放送され、ファンを増やしていった。愛媛の片田舎で育った中村ジュニアも、そのひとりだった。 「テレビで試合を観ていて、ピピッとくるものがあったんです。“格闘技をやりたい”って」
初防衛戦はタイトルを奪うより難しい――。 格闘技の世界で昔から唱えられている王者にとっては“呪いの言葉”である。「勝たなくてはいけない」「ベルトを守らなければいけない」……目に見えないプレッシャーが初めて防衛戦を闘うファイターには、のしかかる。当然、挑戦者は、これをチャンスとばかりに徹底して王者を研究し、襲いかかる。初防衛戦の呪縛を自らの力で解き放ってこそ、王者は真のチャンピオンとなれるのだ。
: 今季のセ・リーグは混戦模様です。どのチームにも優勝のチャンスがあると言っていいでしょう。 : チャンスがあるだけに、継投をいかにうまくやっていくか。野球は何といってもピッチャーですから、ここが優勝できるかどうかのポイントになってくるでしょう。早め早めに継投を仕掛けられるようにしたいと考えています。
: 中西さんは高知県宿毛市の出身ですね。昔、カツオを食べに行っておいしかったのを覚えています。 : 愛媛との県境にある場所で、中学時代は愛媛の城辺や御荘(いずれも現愛南町)の中学校とよく試合をしていました。
: コーチにはいろいろなタイプがあります。手取り足取り厳しく指導するコーチもいれば、基本的には選手たちの自主性に任せるコーチもいる。選手を教える上で心がけていることは? : 僕は選手にとっての兄貴分でありたいと思っています。締めるところは締めつつも、近寄りがたい存在にはなりたくない。コミュニケーションをとりながら、選手の考えや意見も聞き、その上で「チームとしては、こういう役割を任せたい」「この場面に合わせて準備してほしい」と伝えるようにしていますね。
近年にない混戦が予想されるセ・リーグで、開幕前の評論家予想で広島、巨人とともに優勝候補に挙げられていたのが阪神だ。昨季はリーグ2位ながらクライマックスシリーズで巨人を4タテして日本シリーズに進出した。鳥谷敬、西岡剛、マット・マートン、マウロ・ゴメス、福留孝介といった好打者の揃った打線に、ランディ・メッセンジャー、藤浪晋太郎、能見篤史ら先発と抑えの呉昇桓を擁する戦力バランスの良さは評価が高い。10年ぶりのリーグ優勝を目指すチームの投手陣を束ねる中西清起コーチに、今季のプランやピッチャーの指導法について二宮清純が開幕前にインタビューした。その模様を4回にわたってお届けする。
2014年12月、桃田賢斗(NTT東日本)にとって、6度目の全日本総合選手権大会は忘れられぬ大会となった。男子シングルス6連覇中の田児賢一(NTT東日本)がケガで出場を辞退した。大会直前の国際バドミントン連盟(BWF)世界ランキングは田児に次ぐ日本人2位の15位につけていた桃田が、“繰り上がり”で優勝候補の筆頭に躍り出た。「NTT東日本は6年間、ずっと全日本総合の優勝カップを獲っていました。ここで自分が負けるわけにはいかなかった」。絶対王者・田児の不在は、初優勝のチャンスを得るのと同時に、彼の両肩に“重荷”を背負わせた。
桃田賢斗が高校卒業後の進路にNTT東日本を選んだ理由は、田児賢一というプレーヤーの存在があった。NTT東日本に所属する田児は全日本総合選手権大会の男子シングルスで前人未踏の6連覇を達成した日本バドミントン界の第一人者。現在は国際バドミントン連盟(BWF)の世界ランキング29位(3月19日時点)だが、最高で3位になったこともある。2012年のロンドン五輪に出場し、世界選手権など国際大会の経験も豊富で、BWFスーパーシリーズでは7度の準優勝を果たしている。桃田は日本のエースである男の背中を追いかけた――。
2011年3月11日、異国の地で武者修行をしていた桃田賢斗に衝撃の報が飛び込んできた。桃田の住む福島県をはじめとする東日本地域が未曽有の大震災に見舞われたのである。遠征先のインドネシアでニュースを知り、愕然とした。チームメイトとも連絡がとれず、「みんなが大丈夫なのか、とても心配でした。正直、何も手につかなかった」と桃田は当時を振り返る。帰国の途についても、福島へは戻れなかった。彼の通う富岡高がある福島県富岡町は福島第1原発事故による警戒区域に指定されたからだ。桃田は、香川県へ帰ることを余儀なくされたのだった。