FORZA SHIKOKU

久保尚志(鷺宮製作所硬式野球部/香川県観音寺市出身)第3回「古豪を封じたエースの快投」

 決勝の朝を迎えた。エース・久保尚志はここまで3連投を含む4試合に登板。疲労は蓄積し、体はズシリと重かった。だが、彼の心は喜びに満ち溢れていた。その理由は前日まで激痛が走っていた右肩の回復にあった――。

久保尚志(鷺宮製作所硬式野球部/香川県観音寺市出身)第2回「初物づくしの甲子園」

「広いなぁ……」  第67回全国選抜高校野球大会。開幕前の練習で初めて甲子園の土を踏んだ久保尚志は、その広大さに圧倒された。スタンドで待機していた時にはテレビで観るよりも小さく感じ、なんだか“おもちゃ”のように思えた。ところが、いざグラウンドに降りると、そこはまさに“マンモス球場”だった。

久保尚志(鷺宮製作所硬式野球部/香川県観音寺市出身)第1回「少年時代には見えなかった甲子園への道」

「香川県立観音寺中央高校」  高校野球ファンにとっては、思い出深い名である。1995年の全国選抜高校野球大会。春夏ともに一度も甲子園に出場したことのなかった観音寺中央は待望の初出場を果たした。1回戦を勝ち、勢いに乗った同校はあれよあれよという間に決勝に進出した。決勝の相手は古豪・銚子商業(千葉)。試合前、誰もが銚子商の勝利を信じて疑わなかった。ところが、紫紺の優勝旗を手にしたのは観音寺中央だった。しかも、4−0の完封勝ち。  当時、古豪を零封した優勝投手は今もなお、白球を追い続けている――久保尚志、30歳。現在、鷺宮製作所硬式野球部に所属している。

長友佑都(明治大学体育会サッカー部/愛媛県西条市出身)最終回「苦境を成長の糧に変えて」

 サッカーへの意識の高さ、精神面の強さは、長友の特長の一つといえるだろう。  中学時代のサッカー部監督である井上博氏(現新居浜市立北中教諭)は、こう振り返る。 「一言で表せば、サッカーに対する意識の高い選手でしたね。どんな練習でも手を抜くということがなかった。それに、年を追うごとに気持ちが強くなっていった。技術面が高いというのはあったけれど、それ以上にメンタル面の強さが際立っていましたね」

長友佑都(明治大学体育会サッカー部/愛媛県西条市出身)第3回「サイドバックという新たな道」

「長友と初めて会った時? 実はね、あまり強い印象はないんですよ。入部したての時は、特長がよくわからない選手だった。東福岡高校時代のこともそれほど知らなかったんです。極端な言い方をすれば、無名の選手でした。彼の高校時代の先輩には『こういう特長があって、面白い選手ですよ』と聞いていたんだけど、最初に見た時は『悪くはないけど、モノになるまでには時間がかかるかな』と思ったのを覚えています」  明治大学サッカー部の神川明彦監督は、長友が部に入ってきた2年半前を振り返り、こう続けた。 「でもね、それからメキメキと頭角を現していったんですよ」

長友佑都(明治大学体育会サッカー部/愛媛県西条市出身)第2回「恩師に学んだ周囲への感謝」

 ある人物との出会いが長友のサッカー人生を大きく変えた。 「先生がいなかったら? 今の自分はなかったでしょうね。そのぐらい大きな影響を受けましたよ」  地元の西条北中に入学した長友は、恩師といえる人物と出会う。それが長友の入学と同時に西条北中に赴任して、サッカー部監督を務めた井上博氏(現新居浜市立北中教諭)だった。

長友佑都(明治大学体育会サッカー部/愛媛県西条市出身)第1回「右サイドを切り裂いた新星」

 07年6月6日、北京五輪2次予選最終戦(第6戦)マレーシア戦。  1人の大学生が聖地・国立競技場のピッチで躍動した。彼の名は長友佑都。明治大学体育会サッカー部3年生。170センチと小柄だが、身体能力が高く、1対1の強さに定評のある攻撃的サイドバックである。 「まさか国立の舞台でやれるなんて……。俺って本当に幸せ者やなって思いましたね」  長友は噛み締めるようにして言った。

野本尚裕(空手・新極真会/愛媛県松山市出身) 最終回 「終わりなき下段職人道」

 直前の怪我の影響で「不完全燃焼」に終わった「第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」(03年10月)後、野本は肉体改造に踏み切った。 「減量して中量級に出るくらいなら、練習で苦しんで大きいヤツと戦った方がいい」と、174センチ、84キロの体格ながら、100キロ以上の巨漢がひしめく重量級(80キロ以上)で戦ってきた野本だったが、何試合も行うトーナメントでは、やはり体重での不利を痛感せざるを得なかった。

野本尚裕(空手・新極真会/愛媛県松山市出身) 第3回 「32歳の世界デビュー」

「野本尚裕」の名が全国的に知られたのは、2002年6月に行われた「第19回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級を制したことがきっかけだった。そして、04年の世界大会代表がかかった03年4月の「第20回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級で3位に入り、世界大会代表切符を手にした。当時、32歳。遅咲きの世界デビューだった。 当時を振り返って、野本は言う。「『オレなんかが世界大会に出ていいのか?』と思っていました(笑)。それまで、地方大会でも4回戦まで行けないくらいのレベルでしたから」。

野本尚裕(空手・新極真会/愛媛県松山市出身) 第2回 「サッカー少年から空手の道へ」

 愛媛県松山市内で野本は生まれ育った。小学生の頃は、映画や2歳年上の兄の影響で、ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていた。 「よくマネをして遊んでいました(笑)。2歳年上の兄貴と喧嘩するといつもかなわなくて、強くなりたい、という気持ちも強かったですね」

野本尚裕(空手・新極真会/愛媛県松山市出身) 第1回 「世界で戦う水道屋」

「下段職人」「ロシア人キラー」の異名をとる空手家・野本尚裕(新極真会愛媛支部)。重量級としては小柄ながら、体格の不利をものともせず02年全日本ウェイト制空手道選手権大会重量級で優勝、04 年全日本空手道選手権大会で準優勝するなど、数々の戦績を誇る。  昨年10月、東京体育館で行われた全日本大会で4位に入賞し、上位4人に与えられる4年に1度の世界大会・第9回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(10月13〜14日・東京体育館)の出場切符を手にした。

村上幸史(陸上やり投げ/愛媛県今治市出身)最終回「やりと自分だけの空間」

 2006年は村上にとって苦しいシーズンだった。春先の試合で痛めた踵の怪我が完治せぬまま、日本選手権では優勝を守ったものの、シーズン中に日本人選手に2度敗北するという屈辱も味わった。  今治明徳高校陸上部時代の顧問で現在も村上を指導する浜元一馬氏からは「オマエは日本選手に負けたらもう終わりだ」と、厳しい言葉も浴びせられた。  村上は言う。「まぁ、自分でもそう思いましたね。やっぱり、怪我していようが何だろうが、その大会にエントリーした時点で、負けてはいけない。『怪我していたから仕方ない』と同情されたらもう終わりだと思いますから」。

村上幸史(陸上やり投げ/愛媛県今治市出身)第3回「雰囲気に圧倒されたアテネ五輪」

 中学時代、野球部に所属していた村上は、愛媛県内では知られる投手だった。やり投げを始めたのは高校に入学してからだ。中学時代、体育の授業で、ハンドボールを投げる村上の姿が当時陸上部の顧問だった中谷博氏の目に留まったのがきっかけだった。その後、中谷氏の推薦で、投てきの強豪校である今治明徳高から勧誘を受ける。同校陸上部顧問(当時)の浜元一馬氏が、中谷氏と“旧友”という縁もあった。  数々の野球の名門校からの誘いを断り、村上は今治明徳高に入学。やり投げに打ち込む道を選択した。スピードガンで150キロ以上を記録した逸話を持つ村上には高校時代、プロからの誘いもあった。

村上幸史(陸上やり投げ/愛媛県今治市出身) 第2回「自国開催の世界陸上」

 2日に閉幕した世界陸上大阪大会、男子やり投げの予選は9月1日に行われた。  村上は、11時から行われた予選B組に登場。予選通過記録は82メートル00。しかし、9時から行われた予選A組でその記録を上回ったのは4人のみ。8番目の選手までは79メートル台だった。今季、79メートル85を投げている村上にとって、決勝の舞台は本来の力さえ出せば届く位置にあった。予選A組の結果を受け、村上自身も「80メートル投げれば決勝に行ける」と確信していた。

村上幸史(陸上やり投げ/愛媛県今治市出身)第1回「ビッグスローへの期待」

 今夏の大阪選手権の代表選考を兼ねた今年6月29日、陸上の日本選手権初日に行われた男子やり投げ決勝で、02年釜山、06年ドーハと、アジア大会で2大会連続銀メダルを獲得している陸上やり投げの第一人者・村上幸史(スズキ)は、5投目に79メートル85を投げ、8年連続8回目の優勝を果たした。世界選手権の参加記録A標準(81メートル00)突破はならなかったものの、05年ヘルシンキ大会に続く世界選手権代表に名を連ねた。

大木勉(愛媛FC/愛媛県松山市出身)最終回「最高だった久保とのコンビ」

「あいつは理想とするFWですよ。高さもスピードもあって、足元もうまい。一緒にやれたことは大きかった」 01年6月、劇的な延長Vゴールで契約延長を勝ち取った大木は吹っ切れたように直後のJ1セカンド・ステージで活躍をみせる。コンビを組んだのが当時の日本代表FW・久保竜彦(現・横浜FC)だった。大木と久保は同期生。ピッチ上でともにプレーすればするほど、大木は久保のほとばしるような才能を感じていた。

大木勉(愛媛FC/愛媛県松山市出身)第3回「人生を変えた延長Vゴール」

 大木がこれまで数多くあげた得点の中でもっとも印象に残っているゴール。それはサッカー人生の危機に直面した時期に決めたゴールだ。2001年6月20日、ナビスコ杯2回戦対FC東京戦。サンフレッチェとの契約期間は残りわずかとなっていた。

大木勉(愛媛FC/愛媛県松山市出身)第2回「南宇和、黄金の2トップ」

「武南との準々決勝、0−1と負けている大事な場面で交代させられたことが悔しかったですね」  大木が高校時代を振り返る時、もっとも思い出す試合は3年生のラストゲームではない。93年1月6日、全国高校サッカー選手権大会準々決勝。愛媛県代表・南宇和高校はベスト4をかけて埼玉県代表・武南高校と激突した。

田中幸長(早稲田大学野球部/愛媛県伊予市出身)第3回「ケガに悩まされ続けた“エースで4番”」

 田中幸長が野球を始めたのは、4、5歳の頃だった。3つ上の兄がリトルリーグに入って野球をやっているのを見て影響されたのか、物心ついたときには兄の真似をしてバットを振っていたという。 「両親は、特に野球が好きだったわけではなかったのですが、おじいちゃんの部屋でよく甲子園を一緒に観ていた記憶があります。甲子園での高校球児や兄を見て憧れたんでしょうね。早く自分もリトルリーグに入ってやりたくて仕方ありませんでした」

田中幸長(早稲田大学野球部/愛媛県伊予市出身)第2回「4番の重責」

「オレ、早稲田で野球やるわ」  2003年7月28日、地方大会決勝で宇和島東は今治西に敗れ、田中幸長の夏が終わった。結局、一度も甲子園の土を踏むことはできなかった。  そんなある日、母親に進路について聞かれた。何のためらいもなく自然と田中の口から出てきたのが先の言葉だった。

田中幸長(早稲田大学野球部/愛媛県伊予市出身)第1回「強打者への目覚め」

「早稲田、33年ぶり日本一!」  2007年6月17日、東京・明治神宮球場で行なわれた全日本大学野球選手権大会決勝、早稲田大学が東海大学を4−1で下し、全国制覇を果たした。  9回裏、2死。最後の打者のバットが空を斬った瞬間、早稲田の選手たちが満面の笑みをこぼしながらマウンドへと駆け寄る。誰彼となく抱き合って喜ぶ選手たち。その大きな円の中央には背番号「10」の姿もあった。  早稲田大学野球部97代目主将、田中幸長だ。

前田真宏(北信越BCリーグ・新潟アルビレックスBC/愛媛県西予市出身)最終回「背番号21に込められた思い」

「残念だけど、辞めてもらうことになった」  2006年11月、前田真宏は2年間所属した四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツから解雇を言い渡された。入団1年目の05年は先発として20試合に登板したが、06年は(先発は)わずか6試合。成績だけを見れば、解雇も考えられなくはなかった。だが、前田自身はピッチャーとして自分の成長を感じていた。それだけに、納得することはできなかった。解雇の理由を聞くと「人間性がまだ甘い」と言われた。その言葉を聞いた瞬間、前田は愛媛への未練を断った。

前田真宏(北信越BCリーグ・新潟アルビレックスBC/愛媛県西予市出身)第3回「永遠のライバルと交わした約束」

 中学の総体で県大会ベスト4となり、その立役者となった前田真宏の元には、愛媛県内外のいくつもの高校から誘いの声が掛けられた。実際に02年の選手権大会で初の全国制覇を成し遂げた高知・明徳義塾高や、熊本・有明高、愛媛・帝京第五高などの練習や試合を見に行ったりもした。どの高校もナイター設備や室内練習場が完備され、まさに野球をやる上では理想的な環境が用意されていた。

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