FORZA SHIKOKU
「野球やっていて、うれしくて泣いたのは初めてでした」 オリックスに入団が決まった西川雅人が、今季、うれし涙をみせた試合があった。9月21日、坊っちゃんスタジアムでの香川オリーブガイナーズ戦。西川が所属する愛媛マンダリンパイレーツは優勝までマジック1と迫っていた。この試合で勝つか引き分ければ悲願のリーグ初制覇が決まる。
熊代聖人が試合に必ず持って行くお守りがある。大好きだった祖父の遺影だ。小さい頃の熊代はいわゆる“おじいちゃん子”。祖父の家に遊びに行けば、たった一人でも泊まりたいとせがみ、職場について行ったこともあった。祖父もまたそんな熊代を「マー」と呼び、かわいがっていたという。 「赤ちゃんの頃から祖父のヒザの上があの子の指定席でした。“マーはプロ野球選手になるんじゃ”。テレビでプロ野球を観ながら祖父は念仏を唱えるように、いつもあの子にそう言っていたんです」と母・美樹は語る。熊代の野球人生は祖父なくしては語れないのである。
新チームがスタートしてからも、熊代聖人の心には延長サヨナラ負けを喫した甲子園での敗戦が色濃く残っていた。 「誰も言わないけれど、負けたのは自分の責任だと強く感じていました。だからこそ、また絶対に甲子園に行こうと。もう、死に物狂いで練習しました」 熊代にとって甲子園はもう“憧れの舞台”ではなく“雪辱の場”となっていた。
2006年8月8日、熊代聖人は甲子園のマウンドに立っていた。 「うわっ、すっげぇ。オレ、ほんとに甲子園に来たんだ……」 幼少時代から憧れ続け、テレビでしか見たことのなかった夢舞台。そこに自分がいることが熊代は嬉しくて仕方がなかった。だが、「夢と感動」とともに、球児に「試練」を与えるのが甲子園だ。 「いやぁ、今思い出しても悔しいですね」 2年以上も前のことだというのに、熊代には今でもあの時の悔しさが残っている。それほど大きな試練が熊代を待ち受けていた。
「ほら、あそこ。今、セカンドを守っているのが熊代ですよ」 案内をしてくれたマネジャーが指さした向こうには初々しさがまだ残る青年の姿があった。熊代聖人、19歳。今春、愛媛の強豪・今治西高校から日産自動車に入社した社会人1年生だ。 高校まで投手一筋できた熊代は、甲子園のマウンドを3度経験。高校3年の夏にはエースとしてチームをベスト8に導いた。その熊代が今年、入社を機に打者に転向した。それはプロの道を切り拓くための勇断だった。
スペインで3つ目のクラブとなったラス・パルマスは、2部とはいえリーガでも屈指の名門クラブだ。福田は07−08シーズン、この地に活躍の場を求め、念願の1部リーグ昇格を目指していた。しかし、シーズンの開幕早々に、生涯で初めての経験という右腿の肉離れを起こし、2週間後にもう一度、同じ箇所を痛めてしまう。序盤に躓いたことで、出場機会が巡ってくることは少なくなった。
「本当に死んでしまうのではないか」 メキシコ・パチューカに移籍しての初練習で、福田の表情は青ざめていた。練習自体が厳しかったわけではない。その場所が問題だったのだ。移籍当初、福田を苦しめたのは、パチューカという場所だった。なんと標高が2400メートル。富士山の6合目にあたる高地が、福田にとってホームタウンになったのだ。
念願の海外移籍を果たした福田は、2004年にパラグアイに降り立った。移籍先のグアラニは国内リーグの屈指の強豪クラブで、南米クラブ王者を決定するリベルタドーレス杯への出場権も持っていた。
9月、2010年南アフリカW杯アジア最終予選が開幕した。日本代表は初戦となるアウェーでのバーレーン戦に勝利し、4大会連続本大会出場を目指して好発進をした。彼らが勝利した1週間後、全く異なる形で世界に挑戦しヨーロッパの新天地でシーズン開幕を迎えた日本人FWがいる。
「シドニー五輪を目指して、本格的にビーチバレーをやらないか?」 突然、思いもよらない電話がかかってきた。声の主は、前年に国内企業では初めてとなるビーチバレーボールチームを立ち上げた株式会社ダイキ(松山市)の専属コーチ、瀬戸山正二(現・日本ビーチバレー連盟理事長)だった。チームには佐伯美香、徳野涼子、清家ちえと後に五輪出場を果たす有望選手がそろっていた。 「まさか自分が誘われるなんて思ってもみなかった」 楠原にとっては青天の霹靂ともいうべき出来事だった。
「強くなりたい」という一心で楠原千秋が進学先に選んだのは大分県の扇城高校(現・東九州龍谷高)だった。 実は楠原は年が明けてもまだ進学先を決めてはいなかった。1月の台湾遠征に呼ばれた時点でも、まだ志望校すらはっきりしていなかったのである。そんな時、遠征で一緒になった友人が扇城高に進学することを聞いた。楠原には初めて耳にする校名だった。
楠原千秋がバレーボールを始めたのは小学3年の時だった。 「バレー部の先輩に誘われたからという本当に単純な理由なんです。運動部というと、バレーかバスケしかなくて、選択肢がなかったこともあります。まぁ、スポーツは好きでしたし、当時は身長も高い方だったので、やってみようかなと」 そんな軽い気持ちで始めたバレーだったが、楠原はすぐにその面白さにのめりこんでいった。
「今回の悔しさは、アテネの時とは比べものにならないですね」 北京五輪ビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋は、北京での戦いについてそう語った。インタビュー中、表情こそ終始、笑顔がこぼれていた楠原だが、言葉の端々からは力を出し切れなかったことへの悔恨の念がにじみ出ていた。
2008年8月8日、午後8時8分(現地時間)、北京五輪が華々しく開幕した。開会式が行われたメイン会場の国家体育場、通称「鳥の巣」には世界から史上最多の204カ国・地域のアスリートたちが一堂に会し、これから始まる17日間に及ぶ戦いを前に気持ちを高ぶらせていた。 その中にはビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋の姿もあった。 「よしっ、いよいよ始まる!」 4年間、待ち続けてきた舞台の幕開けに酔いしれると同時に、改めてメダル獲得への意気込みを感じていた。
阪東がエドウィン・バレロ(帝拳)と拳を交えたのは2005年9月に遡る。「連続1ラウンドKO」の世界記録(当時は15試合連続。18試合まで記録を伸ばしたが、その後記録は破られた)保持者バレロへの挑戦者が公募された。
阪東ヒーローの1日はアルバイトから始まる。「松井紙業」という会社で朝の7時から16時まで働いている。バイト4年目となるこの勤務先は、阪東のトレーナーを務める松井優の実家である。
阪東浩徳がボクシングを始めたのは小学3年の頃、父親にジムに連れていかれたのがきっかけだった。阪東の父親は視力が悪かったためプロになれなかったものの、大のボクシングファン。さらに、実の兄と従兄弟はプロボクサー(阪東タカ、阪東竜)。2人の妹もボクシングジムでトレーニングを積んでいる、阪東家はボクシング一家だ。
阪東ヒーローという変わった名のボクサーをご存知だろうか。 6月12日、日本武道館。WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積(真正)対同級9位・クリスチャン・ファッシオ(ウルグアイ)。WBA世界スーパーフェザー級王者・エドウィン・バレロ(帝拳)対同級7位・嶋田雄大(ヨネクラ)。この2つの世界戦のアンダーカードとして東洋太平洋タイトルマッチが組まれた。OPBF スーパーフェザー級王者・内山高志(ワタナベ)に挑戦したのが同級4位の阪東ヒーロー(ファミリーフォーラム)だった。
2005年4月、ヘルシンキ世界選手権イヤーのシーズンに入ったばかりの頃だった。練習中、中野は着地でバランスを崩し、足首の靭帯を切る怪我に見舞われた。 「ボキッと音が聞こえたので、折れたのかと思ったら、靭帯でしたね。あんな音がするんだなと・・・・・・。それで半年を棒に振ってしまいました」 日本選手権に出場できず、世界選手権代表も叶わなかったが、手術、リハビリ期間を経て、半年後の8月に競技復帰を果たした。
「『日本新』という文字だけが出ている感じで、あまり実感がなかったですね」 高校3年時から、日本新記録を幾度となく樹立した当時を、中野はこう振り返る。 東京学芸大1年時の97年にも、3メートル80の日本新記録を出し、日本人初の4メートル超えを期待されたが、その後、怪我の影響もあり、伸び悩んだ。 「1、2年生の頃は、体重が増えたり、怪我が多かったりと悪循環でした。ハードルのときから腰痛はあったんですけど、技術的にも不安定な部分がたくさんあったので、腰に負担がかかって怪我にもつながってしまった」
温暖な瀬戸内の香川・観音寺市で生まれ育った中野は、幼少の頃から外で遊びまわるなど活発だった。 「身体を動かすのは、子どもの頃から好きでした。3歳上の姉にくっついて近くの公園で遊んだり、ブロック塀を平均台代わりにして、上を走ったり(笑)」 小学校の頃には持ち前の運動神経で、数々のスポーツ大会に借り出されたという。陸上の大会にも出場し、60メートル障害で香川県大会で上位に入るなどこの頃から能力の高さを発揮していた。
北京五輪陸上競技の日本代表選手選考を兼ねた日本選手権(川崎市・等々力陸上競技場)初日の6月26日に行われた女子棒高跳び――。 朝から降っていた雨は決勝の試技が始まる午後3時にはあがっていたが、気温は上がらず、長袖の上着が必要な肌寒さを感じる日となった。 五輪参加標準記録Aの4ートル45を跳んで優勝すれば五輪代表に内定するが、この種目のA標準突破者はまだ出ていない。大会前には、4メートル36の日本記録を持つ錦織育子(出雲市陸協)、昨夏の大阪世界選手権代表の近藤高代(長谷川体育施設)、そして一昨年にこの大会で優勝を果たした元日本記録保持者・中野真実(今治造船)のB標準(4メートル30)突破者による三つ巴戦が予想されていた。
「高知県出身初のVプレミアリーグ選手」 これが長山拓未の目標だ。実現できるかどうか、まだそれほど自信はないという。だが、それはただの謙遜にすぎない。長山が所属する中央大学男子バレーボール部は、全日本大学選手権で最多となる12度の優勝を誇る名門だ。現役4年、主将の福澤達哉は16年ぶりの五輪出場を決めた植田ジャパンのメンバーに選出され、将来は日本のエースとして嘱望されている。そんなレベルの高い中大でも、長山は2年ながら既にレギュラーの座を獲得している。やはり彼の力は本物だと言っていいだろう。
「3年間で一番忘れられない試合です」 高校最後の春高での敗戦は最も印象深く長山の心に刻み込まれている。 「勝てる試合だっただけに、悔しかったですよ。ここ1本という時に、取るか取られるかで勝負が決まる。そのことを痛感させられた試合でした」 その時の悔しさは今も消えてはいない。
中学でも全国の壁を破ることができなかった長山拓未は、さらなるレベルアップを求めて高知高校へと進学した。もちろん、県外の高校から誘いがなかったわけではなかった。だが、長山は高知県きっての期待の星だ。みすみす手放すはずはない。 「県外の高校からも、長山を欲しいという声はありましたよ。でも、高知にとっては宝でしたからね。私としては県内の高校で、開花してほしいという思いがありました。とはいえ、私が断固として拒んだわけではないんですよ。県外の高校の監督も私たちが、どれだけ長山を大事に思っていたか、もうわかっていましたから」。中学時代の恩師・小笠原健一先生はそう言って笑った。 長山本人もまた、そうした地元の期待をひしひしと感じていたのだろう。県外留学ということは微塵にも考えなかった。