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「下段職人」「ロシア人キラー」の異名をとる空手家・野本尚裕(新極真会愛媛支部)。重量級としては小柄ながら、体格の不利をものともせず02年全日本ウェイト制空手道選手権大会重量級で優勝、04 年全日本空手道選手権大会で準優勝するなど、数々の戦績を誇る。 昨年10月、東京体育館で行われた全日本大会で4位に入賞し、上位4人に与えられる4年に1度の世界大会・第9回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(10月13〜14日・東京体育館)の出場切符を手にした。
2006年は村上にとって苦しいシーズンだった。春先の試合で痛めた踵の怪我が完治せぬまま、日本選手権では優勝を守ったものの、シーズン中に日本人選手に2度敗北するという屈辱も味わった。 今治明徳高校陸上部時代の顧問で現在も村上を指導する浜元一馬氏からは「オマエは日本選手に負けたらもう終わりだ」と、厳しい言葉も浴びせられた。 村上は言う。「まぁ、自分でもそう思いましたね。やっぱり、怪我していようが何だろうが、その大会にエントリーした時点で、負けてはいけない。『怪我していたから仕方ない』と同情されたらもう終わりだと思いますから」。
近年のボクシング界では最大規模の試合前記者会見が、9月19日にニューヨークのロッカフェラーセンターで行なわれた。 会場はクリスマスに世界最大のツリーが飾られる敷地内。そこで、なんとオスカー・デラホーヤとバーナード・ホプキンスが司会役に起用され、12月8日に予定されるWBCウェルター級タイトルマッチ、フロイド・メイウェザー対リッキー・ハットン戦のプロモーションイベントが盛大に催された。 「ボクシングが死んだなんて言ったのは誰だ? 今年の終わりには最高のカードが連続で用意されているんだぜ!」ホプキンスはその場で高らかにそう叫んだ。
今年の日本は暑かった! 聞くところによると、東京は那覇より暑かったとか。まあこれだけ暑いと生活するだけでも辛い感じ。都内を自転車移動する私も、この季節は移動の回数だけバックの中にTシャツを忍ばせて生活していたくらい。汗をかかないなんて不可能なので、その後の対策を講じることにしたのだ。 そんな暑い中でも、皇居ではぞろぞろと人が走り出す。さすがにマラソン熱が高まっているようで素晴らしいことだが、夜ならともかく、あの暑い昼間に走っている姿はどうも感心できない。身体を鍛えているというより、身体をいじめていると言った方が適切か!?
中学時代、野球部に所属していた村上は、愛媛県内では知られる投手だった。やり投げを始めたのは高校に入学してからだ。中学時代、体育の授業で、ハンドボールを投げる村上の姿が当時陸上部の顧問だった中谷博氏の目に留まったのがきっかけだった。その後、中谷氏の推薦で、投てきの強豪校である今治明徳高から勧誘を受ける。同校陸上部顧問(当時)の浜元一馬氏が、中谷氏と“旧友”という縁もあった。 数々の野球の名門校からの誘いを断り、村上は今治明徳高に入学。やり投げに打ち込む道を選択した。スピードガンで150キロ以上を記録した逸話を持つ村上には高校時代、プロからの誘いもあった。
2日に閉幕した世界陸上大阪大会、男子やり投げの予選は9月1日に行われた。 村上は、11時から行われた予選B組に登場。予選通過記録は82メートル00。しかし、9時から行われた予選A組でその記録を上回ったのは4人のみ。8番目の選手までは79メートル台だった。今季、79メートル85を投げている村上にとって、決勝の舞台は本来の力さえ出せば届く位置にあった。予選A組の結果を受け、村上自身も「80メートル投げれば決勝に行ける」と確信していた。
今季MLで最大のサプライズチームはどこかといえば、シアトル・マリナーズだったのかもしれない。 イチロー、城島健司という2人の日本人プレーヤーを抱えるマリナーズは、過去3年間は連続で負け越しレコード。さしたる補強のなかった今季も低迷は必至と思われていた。 だが蓋を開けてみれば、今年は本格的な秋も近づいたこの時期まで、プレーオフ争いにしぶとく生き残り続けてきた。他地区で首位に立っているのは本命チームばかり。それだけに、彼らの健闘はひときわ際立って見えたのだ。
今夏の大阪選手権の代表選考を兼ねた今年6月29日、陸上の日本選手権初日に行われた男子やり投げ決勝で、02年釜山、06年ドーハと、アジア大会で2大会連続銀メダルを獲得している陸上やり投げの第一人者・村上幸史(スズキ)は、5投目に79メートル85を投げ、8年連続8回目の優勝を果たした。世界選手権の参加記録A標準(81メートル00)突破はならなかったものの、05年ヘルシンキ大会に続く世界選手権代表に名を連ねた。
「あいつは理想とするFWですよ。高さもスピードもあって、足元もうまい。一緒にやれたことは大きかった」 01年6月、劇的な延長Vゴールで契約延長を勝ち取った大木は吹っ切れたように直後のJ1セカンド・ステージで活躍をみせる。コンビを組んだのが当時の日本代表FW・久保竜彦(現・横浜FC)だった。大木と久保は同期生。ピッチ上でともにプレーすればするほど、大木は久保のほとばしるような才能を感じていた。
大木がこれまで数多くあげた得点の中でもっとも印象に残っているゴール。それはサッカー人生の危機に直面した時期に決めたゴールだ。2001年6月20日、ナビスコ杯2回戦対FC東京戦。サンフレッチェとの契約期間は残りわずかとなっていた。
夏場に差し掛かり、ヤンキースが猛然とした勢いで勝ち始めている。 今季は開幕から不調で、一時は首位に14ゲーム、ワイルドカードにも8、5ゲーム差も付けられた。しかしオールスター以降は破竹の勢いで、なんと24勝9敗(8月14日まで)。このままいけば、ワイルドカード奪取のみならず、首位レッドソックスを抑えて地区優勝を飾っても、もう誰も驚かないだろう。
日本では、暑い夏を迎えていた8月。ロンドンでも長い雨を抜けてようやく太陽が毎日顔を見せるようになった。6月下旬からなんと6週間にもわたって雨、雨、雨……。いくら悪天候に慣れているブリティッシュだって嫌になる。で、やっと好天が戻ってきた8月第1週の週末に「The Michelob ultra London Triathlon」が開催された。この大会、なんとロンドン市内で開催され、1万2千人もの参加者を集める。我々が考えているトライアスロンとは随分違うようだ。
「武南との準々決勝、0−1と負けている大事な場面で交代させられたことが悔しかったですね」 大木が高校時代を振り返る時、もっとも思い出す試合は3年生のラストゲームではない。93年1月6日、全国高校サッカー選手権大会準々決勝。愛媛県代表・南宇和高校はベスト4をかけて埼玉県代表・武南高校と激突した。
これは愛媛FCがまだJFLに所属していた時代の話である。J昇格を目指すクラブをサポートする法人会員名簿に1人のサッカー選手の名が刻まれていた。地元企業の名前が数多く並ぶ中、その個人名はひときわ際立っていた。
NBAが未曾有のスキャンダルに揺れている。 7月下旬、このリーグで過去13年間レフェリーを務めて来たティム・ドナヒューがスポーツ賭博に身を染めていたとNY地元紙が報道。しかもこの2年間は自らが裁いた試合にも金を賭け、得点操作を行なっていた。さらにドナヒューは、リーグ内の機密情報まで賭博組織に漏らしていたという。 つまり、過去2年間のNBAの歴史は、1人の悪漢審判によって多少なりとも書き換えられていた可能性が高いのだ。
「オレって、なんて幸せ者なんだろう……」 レフトの守備についた田中幸長の目には涙が溢れていた――。 2007年6月17日、大学野球の聖地、明治神宮球場では全日本大学野球選手権決勝戦が行われていた。
田中幸長が野球を始めたのは、4、5歳の頃だった。3つ上の兄がリトルリーグに入って野球をやっているのを見て影響されたのか、物心ついたときには兄の真似をしてバットを振っていたという。 「両親は、特に野球が好きだったわけではなかったのですが、おじいちゃんの部屋でよく甲子園を一緒に観ていた記憶があります。甲子園での高校球児や兄を見て憧れたんでしょうね。早く自分もリトルリーグに入ってやりたくて仕方ありませんでした」
7月14日、アトランティックシティに1万人近い観衆を集めて行なわれた再起戦で、アーツロ・ガッティは痛烈なKO負けを喫した。 これで2試合連続、ここ4試合でも3度目のKO負け。ドラマチックなファイトでアメリカのボクシングファンを楽しませ続けてくれたガッティだが、すでに多くのものを失ってしまったと見るべきか。 動きにキレがなくなった。心は折れなくても足が動かなくなった。自慢だったパンチ力と馬力も減退したように見える。もう、潮時である。 「次はファンの1人としてこの場所に戻って来たい」 試合直後、ガッティはそう声明を発表。あしかけ16年のボクシングキャリアの終焉、現役引退を表明した。
「毎年開催されているスポーツイベントの中で、最大規模のものはなにか?」 日本人でこの質問に正確に答えられる人は少ないかもしれない。サッカー? 野球? いやいや答えは「ツール・ド・フランス」。そう、毎年7月に3週間かけてフランスを一周する自転車レースだ。
「オレ、早稲田で野球やるわ」 2003年7月28日、地方大会決勝で宇和島東は今治西に敗れ、田中幸長の夏が終わった。結局、一度も甲子園の土を踏むことはできなかった。 そんなある日、母親に進路について聞かれた。何のためらいもなく自然と田中の口から出てきたのが先の言葉だった。
オールスターブレイクが近づいても、ヤンキースの不振は続いている。 7月4日の時点で39勝42敗、首位レッドソックスまで12ゲーム差。投手が良いときは打つ方が貢献できず、打線が点を取ったときは投手がそれを守りきれない。攻守がまったく噛み合わず、ここ10年以上も経験がないような悲惨な状況に陥ってしまっている。 10年連続の地区優勝はおろか、ワイルドカードでのプレーオフ進出にすら絶望感が漂い始めている今日この頃だ。
「早稲田、33年ぶり日本一!」 2007年6月17日、東京・明治神宮球場で行なわれた全日本大学野球選手権大会決勝、早稲田大学が東海大学を4−1で下し、全国制覇を果たした。 9回裏、2死。最後の打者のバットが空を斬った瞬間、早稲田の選手たちが満面の笑みをこぼしながらマウンドへと駆け寄る。誰彼となく抱き合って喜ぶ選手たち。その大きな円の中央には背番号「10」の姿もあった。 早稲田大学野球部97代目主将、田中幸長だ。
「残念だけど、辞めてもらうことになった」 2006年11月、前田真宏は2年間所属した四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツから解雇を言い渡された。入団1年目の05年は先発として20試合に登板したが、06年は(先発は)わずか6試合。成績だけを見れば、解雇も考えられなくはなかった。だが、前田自身はピッチャーとして自分の成長を感じていた。それだけに、納得することはできなかった。解雇の理由を聞くと「人間性がまだ甘い」と言われた。その言葉を聞いた瞬間、前田は愛媛への未練を断った。
ダンスは動きが激しく、スポーツに通じるものがある。その固有感覚や、身体のメンテナンスなど、ダンサーと話をしていても共有できるものが多い。ところが、フラダンスはどうだろう。あのスローで優雅なアクションを見ているとアクティブとは言いにくい感がある。ところが、最近は力強く斬新なフラがあり、アメリカ本土で話題を呼んでいるのだとか。そんなハラウ(ハワイ語で教室の意味)が日本にやってくると聞いて、持ち前の好奇心がむくむくと…日本公演に確認しに行った。
中学の総体で県大会ベスト4となり、その立役者となった前田真宏の元には、愛媛県内外のいくつもの高校から誘いの声が掛けられた。実際に02年の選手権大会で初の全国制覇を成し遂げた高知・明徳義塾高や、熊本・有明高、愛媛・帝京第五高などの練習や試合を見に行ったりもした。どの高校もナイター設備や室内練習場が完備され、まさに野球をやる上では理想的な環境が用意されていた。