その存在は、グラウンドの中でもひときわ目立つ。身長189センチの長身スラッガー杉本裕太郎、今年のプロ野球ドラフト候補の一人だ。杉本自身、最も自信があり、こだわっているのがホームランだ。実は彼には、伝説となったホームランがある。小学校から無二の親友であり、高校までチームメイトだった原一輝は、高校2年の秋、杉本が描いた放物線を忘れることができない。
「うおぉー!」。ドラフト会議で自身の名前が読み上げられた瞬間、俊野達彦は隣にいた父・正彦と手を取り合って驚きに近い声を上げた。会議の模様は愛媛の実家でインターネット配信サイトを通じて見守っていた。トライアウト後、「どこかのチームに指名されるだろうな」という手ごたえはあったが、その“どこか”に“群馬クレインサンダーズ”は入っていなかった。というのも、先輩たちからトライアウト後に声をかけられたチームから指名される可能性が高いと聞いていたからだ。俊野は群馬の関係者とは一切、言葉を交わしていなかった。しかし、断る理由はひとつもなかった。2012年7月6日、俊野は群馬と契約で基本合意に達し、晴れてbjリーガーとなった。
「大学で現役生活が終わってもいいかな」。大学3年の秋、俊野達彦はこう思っていた。周囲が就職活動を始め、自分も「それが自然」だと考えるようになっていた。大阪商業大学バスケットボール部の先輩で、卒業後もプロを目指してトレーニングを積んでいる選手もいた。「先輩たちを見ていて(現役を続けるのは)大変というのは知っていましたし……自分はそこまでしなくてもいいかなと」。2010年3月、俊野は大学を卒業し、あまりにあっけなく、そして自然に、バスケット生活にピリオドを打った。
俊野達彦は高校進学を考える際、愛媛県外の高校も視野に入れていたという。だが、心にあったのは全国大会出場への思いだった。全国の舞台へ上がるために選んだ新田高校。彼の決断は間違っていなかった。高校1年時のインターハイは逃したものの、冬の全国高等学校選抜優勝大会(ウインターカップ)に出場した。俊野自身の出場時間は少なかったが、自信を掴むきっかけには十分だった。
俊野達彦の実家の庭にバスケットボールリングが現れたのは、小学3年の頃だった。俊野の父・正彦が自身の運動不足解消のために設置したものだ。正彦はバスケットボールの経験者であり、祖父も当時の愛媛県ミニバスケットボール(通称ミニバス)の会長を務めていた。俊野が「自然に始めていた」と振り返るように、俊野家の庭では、彼の弟2人も含め、家族でバスケットに興じる風景が日常になっていった。
切れ味鋭い日本刀――。これが俊野達彦のプレイを見た時の第一印象だ。スピードに乗ったドライブで相手の守備ブロックを切り裂く。本人も「(ドライブは)他の選手と比べても負けていない」と絶対の自信を誇る。8年目を迎えたbjリーグ(日本プロバスケットボールリーグ)に新規参入した群馬クレインサンダーズに所属し、ポジションはシューティングガード(SG)を務める。ルーキーながら今季は12月3日現在、16試合すべてに出場し、104得点。群馬の大きな武器になっている。
市川孝徳が所属する東洋大学陸上競技部には、昨シーズンまで“神”と呼ばれた男がいた。「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)で4年連続山登りの5区を任され、すべて区間賞、うち3度の区間新記録を叩き出した柏原竜二(現富士通)である。東洋大が手にした大学駅伝全4つのタイトルは柏原在学時のものだ。その絶対的なエース、“山の神”が抜け、市川ら新チームが目指すのは同校初の大学駅伝三冠だった。
人は、試練という“山”を乗り越えて、大きく成長を遂げる。東洋大学陸上競技部の市川孝徳にとって、2011年1月3日に刻まれた敗戦が越えるべき“山”だった。「初めて勝負の世界を知り、そこで負けたことが、一番のターニングポイントですね。早稲田大学の高野(寛基)さんには、いい勉強をさせてもらったというのが、率直な気持ちです」と、市川が振り返る2年生時の「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。そこで自らの甘さを痛感した彼は、「変わらなくてはいけない」との思いを強くしていた。3年生のシーズンは、市川のランナーとしての分水嶺となった。
関東学生陸上競技連盟加盟大学のシード権を持つ10校と予選会を勝ち抜いた9校に、関東学連選抜を加えた合計20チームが出場する「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。東京都千代田区大手町から鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖を往復するコースの総距離は217.9キロである。“学生三大駅伝”(箱根駅伝、10月の「出雲全日本大学選抜駅伝競走」、11月の「全日本大学駅伝対校選手権大会」)の中でも最も長く、そして注目度の高い“箱根”の舞台に立つことを夢見て、大学の門を叩く者は多い。東洋大学陸上競技部の市川孝徳もそのひとりだ。
「“東洋大学”という看板を背負っているので、その誇りは常に心の中にあります」。そう力強く語ったのは、東洋大学陸上競技部の市川孝徳だ。毎年1月2、3日に行なわれる新春の風物詩「東京箱根間往復大学駅伝競走」で3度の制覇を誇る東洋大。市川はその主力メンバーの1人である。現在では、陸上部副将、そして駅伝主将を務め、東洋大の中心的存在となっている市川だが、これまでの競技人生は華々しい時ばかりではなかった。いわゆる“エリート街道”をひた走ってきたわけではない。
「レギュラーとしてもう一度勝負したい」 橋本は2009年のオフ、大きな決断をする。15年間在籍したロッテからのFA宣言だ。前年に国内のFA権を取得した橋本は、その時も権利を行使するか迷っていた。キャッチャーというポジション柄、宣言すれば阪神や福岡ソフトバンクなどが獲得に乗り出すと報じられていた。
レギュラー目前と思われた橋本に立ちふさがった新たな壁、それが同世代のライバルだった。翌2001年には2学年年上の清水正海が再びレギュラーとしてマスクを被ると、03年からは同い年の里崎智也がレギュラーとして起用された。2軍での実績は十分にかかわらず、控えキャッチャーとして1軍でも満足に起用されない日々。その不満を、思わずオフの契約更改の席で担当者にぶつけてしまったこともあった。
プロ1年目の春のキャンプで多くの新人は洗礼を受ける。これまでアマチュアでやってきた野球とのレベルの違いを思い知らされるのだ。強打のキャッチャーとしてドラフト3位で入団した橋本も例外ではなかった。まず度肝を抜かれたのが、他のキャッチャーたちの肩の強さだった。 「チームの先輩だと定詰(雅彦)さん、他球団だと中嶋(聡、当時オリックス)さん。スローイングを見て、“何なんだ、この人たちは!”とビックリしました」
「最初からバッティングはすごかったですよ。特に引っ張った打球はめちゃくちゃ飛んでいましたね」 橋本の少年時代について、そう教えてくれたのは東京ヤクルトの宮出隆自だ。宮出は橋本の1年後輩にあたる。宇和島市の和霊小、城北中、宇和島東高、そしてプロ……後を追いかけるように同じ道を歩んできた。
故郷・愛媛で野球をするのは高校時代以来、実に18年ぶりのことだ。 宇和島東高を経て千葉ロッテ、横浜の2球団で活躍した橋本将は今季、地元の独立リーグである四国アイランドリーグPlusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーしている。中軸に座り、DHやキャッチャーとして63試合に出場。打率.276、4本塁打、34打点の成績でチームの後期優勝に貢献した。
: ロッテに入ってNPBの壁は感じませんでしたか? : 2軍に関しては独立リーグとの差はあまりなかったです。でも1年目から1軍に上げていただいて、1軍と2軍の壁は大きく感じましたね。レベルが一回りも二回りも違う。
: 高校の時にプロや社会人、大学からの誘いはなかったんですか? : 社会人に進む可能性はあったのですが、3年夏の県大会もすぐに負けてしまって話が立ち消えになってしまったんです。
: 角中選手は石川県七尾市の出身です。あの大相撲の元横綱・輪島さんとも同郷になります。野球を始めたきっかけは? : 父が元高校球児で、小学校低学年になったら半強制的に野球をやらされていました(笑)。4人兄弟で、僕と3つ下の弟が野球をやっていましたね。左打ちにさせられたのも初めてすぐの頃です。「左の方が一塁までの距離が短いから得をする」と。
6年目の大ブレークだ。 四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグス出身の角中勝也(千葉ロッテ)が、激しい上位争いを繰り広げるチームに欠かせない存在になっている。今季は開幕こそ2軍だったが、5月以降はクリーンアップ(5番)に定着。交流戦で打ちまくり、打率.349で首位打者に輝いた。その後もコンスタントに打ち続け、9月3日現在、打率.299(リーグ5位)、3本塁打、48打点。得点圏打率はチームトップの.325でロッテが混戦を制するには、彼のバットがカギを握っていると言っても過言ではない。大きな飛躍を遂げた25歳に二宮清純がインタビューを行った。
「高木、オマエがキャプテンだ」 「えっ……!?」 あまりの突然のことに、高木悠貴は驚きを隠せなかった。その日、高知高校は全国高等学校野球選手権の初戦で敗れていた。センバツに続いてラスタバッターとなってしまった高木は、3年生への申し訳ない気持ちで野球を辞めようと考えていた。そんな矢先のことだった。高木の気持ちを知ってか知らぬか、島田達二監督はその日の夜、宿泊先のホテルでキャプテン就任を告げたのだ。 「そんなこと言われたら、もう続けるしかないですよね(笑)」 高校野球最後の1年がスタートした。
2007年3月、第79回選抜高校野球大会。6年ぶり14回目の出場を果たした高知高校の初戦の相手は関西高校(岡山)と決まった。実はこの7カ月前、新チーム発足直後の8月に関西と練習試合をしており、その時は14−2と高知が快勝していた。それだけに高知ナインは皆、意気揚々と試合に臨んだ。ところが――。
「あの人、かっこいいなぁ……」 高知中学3年生の高木悠貴の目に留まったのは、ある1人のピッチャーだった。当時、附属の高知高校のエースで、後に法政大学の先輩となる二神一人である。高知の練習は厳しいことで有名だ。だが、二神はその練習後に必ず一人、走り込みをしていた。高木が中学の練習を終え、自転車で帰ろうとすると、いつも黙々と走る二神の姿があった。 「あんなきつい練習の後に走れるなんてすごいなぁと思いました。それに、僕らが『お疲れ様です』と挨拶をすると、きちんと返してくれたんです。その姿がかっこよくて、憧れましたね」 翌年の春、二神の卒業と同時に、高木は高知高校野球部に入った。
高知高校では3度の甲子園出場を果たした高木悠貴が、さらなる高みを目指して進学先に選らんだのは六大学野球リーグの一つ、法政大学だ。ところが、そこで待ち受けていたのはケガによる野球人生初の長期離脱だった。2年時の1年間はほとんどボールに触ることなく、走り込みを繰り返す毎日だったという。 「入学当初から最終的には4年生になって試合に出られるようになればいいなと思っていたので、焦りはありませんでした」 涼しげな表情でそう語る高木だが、人知れず悩みはあったに違いない。何よりも野球ができないことへの苦しさがあったことは想像に難くない。それでも高木は一度も野球を辞めようとは思わなかった。言葉には表さないが、彼はやはり根っからの“野球少年”なのだろう。
「まったく納得がいっていない」 昨季のプレーを振り返る皆本明日香に笑顔はなかった。上尾メディックスに加入して2年目の昨季、皆本はレギュラーシーズン22試合すべてに出場し、敢闘賞を受賞した。チームも?プレミアリーグ昇格には至らなかったものの、準優勝(20勝2敗)と決して悪くない結果に見える。果たして、何が彼女をこう感じさせたのか。
「予想どおりでしたね」 筑波大学女子バレーボール部監督の中西康巳は、皆本明日香がキャプテンに決まった時の感想をこう語った。筑波大女子バレー部は、全日本バレーボール大学男女選手権大会(全日本インカレ)を終え、4年生が引退すると、3年生が来季のキャプテンと副キャプテンを話し合う。そして、監督に決定した人事を報告するのだ。皆本は左ヒザ前十字靭帯断裂という大ケガを乗り越え、プレーヤーとしても成長を遂げていた。それらを踏まえて、指揮官は皆本がキャプテンになるのではという読みがあったのだ。