春のセンバツで初出場初優勝、夏も初出場ながら決勝進出を果たした2004年は、まさに“済美イヤー”となった。無名だった同校の名が、瞬く間に全国のお茶の間に広がったことは想像に難くない。その年の秋、注目校となった同校の4番を任されたのが澤良木喬之だ。そのパワーは、1年時から澤良木と2人、レギュラー組に入っていた長谷川雄一(ヤマハ)、さらには最大のライバルだった今治西高の宇高幸治(日本生命)もが驚くほどのものだった。
高知県の西部を流れる四万十川は、日本三大清流の一つで、全長約200キロメートルの雄大さと、自然豊かな美しい景観を誇る。澤良木喬之の父親・宏之は、その四万十川の近くで生まれ育った。澤良木が小学生の頃、年末年始は父親の実家で過ごした。そして、四万十川の河川敷にある広大な原っぱで、キャッチボールやサッカーなどを、父と2つ年上の兄とするのが年明けの恒例行事となっていた。それが澤良木の野球人生の原点である。
身長184センチ、体重97キロという恵まれた体格の持ち主。左打席に入り、スッとバットを構えた瞬間、独特のオーラが醸し出される。真っ直ぐにピッチャーを見つめるその目は鋭く、威圧感さえ覚える。その姿、雰囲気たるや、今やMLBで活躍する松井秀喜を思い出さずにはいられない。澤良木喬之、23歳。“伊予のゴジラ”の異名をとり、高校時代からプロのスカウトに注目されている左の大砲だ。
来る2012年はオリンピックイヤーだ。U-22日本代表は現在、出場権をかけてアジア地区最終予選を戦っている。まずはチームとして五輪切符を獲らないことには始まらないが、選手たちにとっては個人のロンドン行きもかけた試合が続く。
プロ2年目の2010年、登里は出場機会を大幅に増やした。リーグ戦9試合、天皇杯1試合、アジアチャンピオンズリーグ6試合に出場。天皇杯、ACLでは先発の機会も得た。ただ、1試合に1ゴール1アシストで華々しい活躍を見せたルーキーイヤーとは裏腹に、ゴールやアシストという結果がなかなか生まれない。彼は、大きな壁にぶつかっていた。
念願叶ってプロサッカー選手となった登里だったが、中村憲剛や谷口博之(現横浜FM)、山岸智(現広島)らがひしめくMFのポジション争いに割って入ることができず、開幕後、ベンチ入りさえできない日々が続いていた。デビューが近づいたのは第12節のジュビロ磐田戦。ヴィトール・ジュニオール、横山知伸のMF2人が出場停止になった影響で初のベンチ入りメンバーに選ばれる。しかし、この試合では出番が訪れることはなかった。
期待の若手が初スタメンで輝きを放った。 2011年3月5日、等々力競技場、Jリーグ開幕戦。21歳の登里享平はリーグ戦初の先発出場を果たし、ゴールを奪った。今季は一気に出番を増やし、リーグ戦19試合の出場で2得点。川崎では主に左サイドハーフとしてプレーし、ロンドン五輪を目指すU-22日本代表にも名を連ねている。フロンターレが誇る快速レフティーだ。
世界選手権シリーズ横浜大会で日本人過去最高の10位、日本選手権の初優勝。今シーズンは細田にとって自他ともに認める「最も充実した1年」だった。山根の下でプロとして心身ともに鍛えてきた成果がようやく実を結びつつある。
トライアスロンはスイム、バイク、ランの3種目をこなす競技と思われがちだが、実はもうひとつ隠れた“種目”がある。それがトランジッションだ。スイムからバイク、バイクからランへの移行をいかに素早くスムーズに行うか。1秒を争うレースにおいてトランジッションの巧拙は順位を左右する。バイクシューズをあらかじめペダルにくっつけておくのはもちろん、シューズの紐をゴム製にして着脱しやすくするなどトップ選手はさまざなま工夫を重ねている。
「(ランの先頭で飛び出した世界選手権シリーズ)横浜大会がそうだったように細田には思い切りの良さがある。少々のことには動じないタフさ、ワイルドさ。これは従来の日本人選手にはない強みです」 細田を指導する稲毛インターナショナルトライスロンクラブの山根英紀コーチはこう評する。山根は日本男子トライアスロン界の草分け的存在で、指導者になってからは庭田清美、福井英郎、中西真知子ら多くのトライアスリートを育てた。女子でロンドン五輪代表に内定した上田藍も彼が指導を行っている。
初秋の横浜を世界のトップで疾走した。9月19日、ITU(国際トライアスロン連合)世界選手権シリーズ横浜大会。バイクからのトランジッションを終え、残すは10キロのラン。シドニー五輪の金メダリストであるサイモン・ウィットフィールド(カナダ)、五輪前哨戦となる8月のロンドン大会で2位に入ったアレクサンドル・ブルカンコフ(ロシア)ら居並ぶ世界の強豪を押さえ、細田雄一は1位に躍り出た。
山田和司には生涯、忘れられない試合がある。いや、忘れてはならない試合がある。大学4年時の全日本総合選手権、シングルス準々決勝だ。対戦相手は現在、日本ユニシスの先輩である池田雄一。3回戦で当時、日本代表だったシード選手を山田が破ったことで、この試合の勝者に日本代表の座が与えられるのではないか、とささやかれていた。そして1セット目から接戦となったこの試合、勝敗を分けたのは、2セット目で山田が取り損ねた1点だった。
高校卒業後、山田和司は日本体育大学に進学した。練習環境やチームの雰囲気など、いくつか同大を選んだ理由はあったが、なかでも大きな割合を占めたのが、最大のライバルであった遠藤大由(ひろゆき)の存在だった。 「日体大は体育館が広くて、バドミントンのコートがたくさんあるので、1年生でも十分に練習することができるんです。それに、教員免許が取得できることも魅力の一つでした。でも、やっぱり遠藤が行くということが僕にとっては大きかったんです。遠藤は高校からずっと僕にとっては一番のライバル。その遠藤と同じ環境で切磋琢磨していきたかったんんです」 遠藤へのライバル心が山田の成長の原動力となっていた。
15歳で故郷を離れ、それまで縁もゆかりもなかった埼玉県の小松原高校に進学した山田和司は、そこで“ライバル”と出会った。現在も日本ユニシスでチームメイトである遠藤大由(ひろゆき)だ。技巧派の山田に対し、遠藤は力で押す、いわゆる直球勝負のプレーヤー。全く異なるプレースタイルの2人は、シングルスでは“最大のライバル”として切磋琢磨し、ダブルスでは“最高のパートナー”として息の合ったプレーを見せ、全国へと駆け上がって行った。
「オマエには感謝している」――今年、山田和司が中学時代の恩師・西原隆と初めてお酒を酌み交わした時のことだ。恩師からの思いがけない言葉に、山田は驚きを隠せなかった。 「そんなこと言われると思っていなかったので……。僕の方こそ感謝しているんですから」 そう言って少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑みを浮かべた。果たして恩師が感謝している理由とは――。 「私の口癖は昔から『愛媛から世界へ』なんです。山田が中学時代にもよく『このメンバーから世界へ出るんだ!』と言っていたんですよ。それを彼は本当に実現してくれたんですからね。やればできることを教えてくれました」 愛媛県出身者として初めて日本代表入りを果たし、日本バドミントン界を牽引する存在として世界を相手にしている教え子の存在が今、西原の励みになっている。
2009年、10年と日本一の座をかけて行なわれる日本リーグ(男子)で連覇を果たすなど、日本のバドミントン界を牽引する日本ユニシス。所属する11名の日本人男子選手のうち、日本代表はなんと10人(Bチーム含む)を数える。まさに精鋭たちが集うエリート集団だ。なかでも花形である男子シングルスで今、最もオリンピックに近い位置にいるのが山田和司である。
「オレ、本当に来たんだな……」 2008年9月6日、北京パラリンピック開会式。9万人を収容できる巨大スタジアム、通称「鳥の巣」(北京国家体育館)に藤本佳伸はいた。開会式が始まっておよそ2時間後、ようやく日本代表は待機していた広場から競技場へと続く通路を移動し始めた。徐々に入口の光が大きくなり、観客の歓声が聞こえてくる。藤本は胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
「彼の強さは行動力のあるところ。自分の意志をはっきりと表に出すことができることですよ」 日本男子代表コーチを務める丸山弘道は、藤本佳伸というプレーヤーをこう評する。2005年の「ワールドチームカップ」で初めて藤本のテニスを見た丸山は「パラリンピックを目指している」という彼に、自らがコーチを務めるテニストレーニングセンター(TTC、千葉県柏市)に練習拠点を移すことを勧めた。とはいえ、仕事や生活のこともある。そう簡単に決められることではない。丸山は徳島の実家で暮らす藤本が、自分の元へと来る可能性は五分五分と見ていた。ところが、藤本は約1カ月半後には千葉での一人暮らしをスタートさせたのである。その行動の早さにはさすがの丸山も驚きを隠せなかったという。だが、これだけの行動力がなければ、今の藤本はない。なぜなら藤本のテニス人生を支えている数々の出会いは、こうした彼のスピーディな行動による産物にほかならないからだ。
「あんなふうにオリンピックで演技できたらいいな」――テレビの向こうでは世界最高峰の舞台で活躍する先輩の姿があった。 1992年、バルセロナオリンピック。団体で銅メダルを獲得した体操日本代表の一人、畠田好章の姿が高校1年の藤本佳伸にはまぶしく見えた。畠田は藤本が当時通っていた鳴門高校器械体操部OBだった。小、中学校時代には同じ体操クラブに通っていた先輩であり、彼にとっては身近な存在だった。その畠田が世界の舞台で堂々と演技している。その姿に藤本はほんの少しだけ将来の自分を重ねていた。はっきりと「目標」とは言えないまでも、オリンピックは彼にとって目指すべき舞台であることは確かだった。しかし約1年後、その夢ははかなく散った。それはあまりにも突然の出来事だった。
パーン、パーン、パーン……。 8月中旬、千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)のドアを開けると、すぐにテニス独特の乾いた音が聞こえてきた。室内とはいえ、「今年一番」というほどの最高気温をマークしたこの日、じっとしていても汗がしたたり落ちるほどの蒸し暑さだった。そんな中、一番端のコートでは男性が一人、コーチが打つボールを必死に追いかけていた。車いすプレーヤーの藤本佳伸だ。小学生の時から器械体操をやっていたということもあり、上半身はテニスプレーヤーらしからぬ強靭な肉体であることは傍目からも十分にうかがい知ることができた。こちらに気付くと「こんにちは!」と屈託のない笑顔を向けてきた。その表情は充実感に満ち溢れているように感じられた。
金丸にとって4度目の世界陸上が開幕した。男子400mの予選は5組で争われ、各組の上位4着までと、5着以下の中からタイム順で4人までが準決勝に進める。金丸は予選3組に入った。同組には前回大会と北京五輪を制したラショーン・メリット(米国)がいた。
世界陸上の開幕が近づいてきた。金丸が出場する男子400mは大会2日目の28日に予選を迎える。予選突破、そして大きな目標として掲げる決勝進出には何が必要なのか。 「いろいろありますけど、現段階で言えばスピードですかね。単純な速さではなくて、400mを走る上でいかに高いレベルでスピードを維持できるかが大事だと考えています」
金丸には第一人者にしか分からない独特の感覚がある。トラックを駆け抜ける際、地面に「かみつく」イメージを持っているというのだ。 「足をパンとムチのように地面に叩きつけて、しっかりかみつかせる。その勢いで体を前に持っていく。そういう意識で走っています」
小さい頃から足の速い子どもだった。 大阪府高槻市に生まれた金丸は、元気いっぱいの幼少時代を過ごした。とにかく外で遊ぶのが大好きで、近くの田んぼで足を泥だらけにして炎症を起こしたこともあるほどだ。小学校ではその俊足を生かし、3年生からサッカーを始めた。 「でも足が速いだけで、ボールを蹴るのがヘタクソだったんです。せっかくゴール前まで行ってもシュートを外しちゃうんで(笑)」
低い姿勢から大きなストライドでグングン加速し、先頭で風を切る。金丸祐三は今、日本で最も速く400メートルを走る男である。高校3年時に日本選手権を制し、今年で7連覇を達成した。この9月で24歳。スプリンターとしては、ここから脂がのってくる時期である。