FORZA SHIKOKU
「体力面はもちろん、精神的にも成長を感じています」 親元を離れ、神奈川県横浜市にある日本体育大学に通う娘について、母・美和はこう語る。昨年、中野美優は同大の女子水球部に入った。女子では高知県出身者は初めてだという。1年生は中野のほかにもうひとりいた。だが、マネージャーとしての入部であり、プレーヤーとしては中野ひとりだった。日本代表でも活躍する三浦里佳子が卒業し、ゴールキーパー(GK)が不在の状態だったこともあり、自ずと中野が正GKとなった。とはいえ、新人であることに変わりはない。 「詳しくはわかりませんが、いろいろと気を遣うこともあったと思うんです。そうした経験によって、周りへの気配りもできるようになってきたんじゃないかな」 母親は娘の確かな成長を感じ取っていた。
「面白くない。嫌やなぁ……」 中野美優は水球が嫌いになりかけたことがある。中学3年の時だった。中学2年の3月、中野が所属した春野クラブは15歳以下の女子チームが県勢初の優勝を果たした。中野はその主力メンバー。センターバックだった彼女は、指揮官からも“絶対的な守備の要”と信頼されていた。だが、その喜びは束の間だった。大会後、チームの柱だった先輩2人が抜け、戦力はダウンした。だが、それとは裏腹に周囲からのプレッシャーは膨らむばかり。そんな中、練習は厳しさを増し、中野は楽しさを感じなくなっていたのである。
2008年3月30日、高知県水球界にとって、歴史的快挙が成し遂げられた。第30回JOCジュニアオリンピックカップ春季大会。15歳以下女子の部で高知代表の春野クラブが、決勝トーナメントを勝ち抜き、全国制覇を達成。それは“水球不毛の地”であった高知にとって、全カテゴリーにおける初めての栄冠だった。 「良かったな」。そう言って、徳田晃監督はプールから上がってきた選手ひとり一人と握手をした。守りの要として優勝に貢献した中野美優は、その時の握手が今でも忘れられない。自分が初めて認められたような気がしていた――。
「上手に泳げるようになれればいいな」 中野美優が水球を始めたのは小学4年の時。友人の誘いもあって自宅の近所に1年半前にできたばかりの「春野クラブ」に入会したのが始まりだった。とはいえ、当時の彼女は「水球」がどんな競技なのか、まったく知らなかった。泳ぐことが苦手で、それを少しでも克服できればという程度の気持ちだった。そんな自分がまさか、水球にどっぷりとはまるなどとは、その時の彼女は想像すらしていなかった――。
2012年9月、水球女子アジアジュニア選手権(カザフスタン)。ゴールキーパー(GK)中野美優は初めて日の丸を背負い、国際大会デビューを果たした。 「海外の選手と試合するのは初めての経験でした。結構緊張しちゃって、大会のことは正直あまり覚えていないんです(笑)。でも、とにかく手足が長くて、日本人とはまったく違う、思ってもみないところからシュートが来たことに驚きました」 中野は初めて“世界”を肌で感じていた。
「この人はすごい……」 2010年に法政大学野球部へ入部した木下拓哉は、入寮直後、法大と社会人チームのオープン戦を見学していた。木下は試合に出場していた先輩キャッチャーに衝撃を受けた。当時4年生だった廣本拓也(現日本生命)である。
「木下は野球を見る眼がすごく優れていたんです」 島田達二は木下拓哉をキャッチャーに指名した理由をこう明かした。だが、なぜ木下をキャッチャーにコンバートする必要があったのか。当時の高知高では、2年生と木下の同級生の2人がキャッチャーを務めていた。しかし秋季大会が終わると、同期のキャッチャーが休部状態になった。そのため、もう1人、キャッチャーをつくる必要性が出てきたのだ。そこで島田が指名したのが木下だった。では、「野球を見る眼」とはどういうことだったのか。
小学校に入る前、木下拓哉がいつも目にする光景があった。4つ年上で地元の少年団で野球をしていた兄と父親がキャッチボールしている姿だ。「僕もやりたいなぁ」。木下はそんな思いを募らせていた。すると、入学した小学校には野球が好きな同級生が多かった。みんなすぐに野球仲間となり、1年の頃は「公園などで遊ぶ時はいつも野球だった」という。そして、木下は2年から少年団に入り、本格的に競技として野球を始めた。ポジションは現在務めているキャッチャーではなく、ピッチャー。彼は「野球をやるなら“ピッチャーで4番”というイメージを持っていました」とピッチャーを志望した理由を懐かしそうに振り返った。
法政大学野球部は東京六大学野球リーグでは最多の44回、大学日本選手権8回、明治神宮野球大会3回の優勝を誇る。そんな大学球界屈指の名門の正キャッチャーを務めるのが木下拓哉(4年)だ。昨年の六大学野球秋季リーグからレギュラーとしてマスクをかぶるようになった。その秋季リーグではベストナインに選出される活躍を見せ、法大の7季ぶりの優勝に貢献。プロのスカウトからも注目され、今秋のドラフト指名候補として挙げられる期待のキャッチャーである。
昨年の五月場所で賜杯にあと一歩まで迫った栃煌山雄一郎だが、周囲の期待に応えられなかった自分を責めていた。だからこそ続く七月場所は、その雪辱を晴らす機会となるはずだった。だが、旭天鵬には上手出し投げで勝利し、先場所の借りを返したものの、15日間を終えての結果は4勝11敗の惨敗だった。 「名古屋での大負けは悔しかった。“優勝決定戦までいったのは、番付が下だったから”という雰囲気にもなりますしね。もっと精神的にも強くならないとダメだと思いました」 惜敗と大敗。栃煌山は2つの負けを自らの成長の肥やしとし、大輪の花を咲かせようとしていた。
2006年五月場所、栃煌山雄一郎は西幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越した。新十両への期待もあったが、次の七月場所の番付編成会議で昇進は見送りとなった。この場所は十両から幕下へ転落する力士が少なく、先場所に勝ち越した幕下の東西筆頭の力士のみが昇進となった。栃煌山の母親は、その時に番付が絶対である大相撲を実感したという。「たぶん本人が一番つらいだろうなと思いながら、“こういう世界でやっているのか”というのが記憶に残っています。今までのアマチュアのトーナメントとは違い、プロは番付という世界。頭ではわかっていたつもりですが、本当にすごいところで自分の子供が頑張って生きているんだなと思いました」
中日を終えた七月場所。綱取りを狙う大関稀勢の里を筆頭に関脇の豪栄道、妙義龍と、栃煌山雄一郎と同学年の力士が三役に顔を揃えている。この世代は三役以降にも東前頭2枚目の栃煌山をはじめ、将来を有望視される力士が虎視眈々と番付上位を狙っており、相撲界豊作の年と言っていいだろう。「誰にも負けちゃダメですけど、同年代はやっぱり気合が入ります」と、栃煌山も闘志を燃やす。中でも、豪栄道とは小学生時代からの宿敵である。「やっぱり負けたくないし、意識はしますね」と語る栃煌山が、豪栄道と初めて対戦したのは、小学4年の時の全国大会だ。自分より小さい相手に、栃煌山は“勝てるだろう”と高をくくっていた。しかし、軍配は豪栄道に上がった。翌年のわんぱく相撲では、1回戦で対戦。今度は「強いと分かっていた」と油断はしなかった。だが、またしても相手の軍門に下った。一方の豪栄道はそのまま全国の頂点まで登り詰めた。しかし、中学時代は栃煌山が全国制覇を成し遂げ、意地を見せている。2人は切磋琢磨しながら、互いの相撲道を究めていった。
「相撲は負け出したりすると、やっていることがわからなくなる。たとえ勝っていても不安なところが実はあるんだよ。いつ負けるんじゃないかと、心で自分と闘っている。だから普通にできることが、できなくなっている時に原点へと戻る必要がある」 栃煌山雄一郎の師匠である春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が言う“原点”とは、相手を押して前へ出ることだ。それが相撲の基本であり、核だという。栃煌山が、その原点を培ったのは、安芸中学に進学してからだ。
日本の国技とされる大相撲だが、2003年に貴乃花(現・貴乃花親方)が引退して以来、大相撲の土俵に日本人横綱の姿は消えたままだ。幕内の優勝も06年初場所で栃東(現・玉ノ井親方)が賜杯を手にしてから、44場所連続で外国出身の力士の手に渡っている。春日野部屋に在籍する栃煌山雄一郎は、巻き返しが期待される日本人力士のひとりである。187センチ、158キロの恵まれた体躯から、馬力のある押し相撲が武器だ。
「中田(学)さんと同じチームに行きたくて、学生時代はFC東京からの誘いを2度も断っていたんです」 山岡祐也は、当時の状況を苦笑しながら振り返った。しかし、目指したチームとは縁がなかった。他の就職先は探していなかった彼の中に「教員免許もあるし、高知に帰ろうかな……」という思いがちらつき始めた。そんな時、FC東京から3度目の誘いを受けた。「3度も誘ってくれるところはない。もう少し、バレーをやろうと思いました」。2008年7月、こうして山岡は当時?・チャレンジリーグに所属していたFC東京に入団した。
「この選手はセッターとして大学へ送り出さないといけない」 高知中学・高等学校の高等部バレーボール部監督の大基喜は、中等部から進学してきた山岡祐也を見てこう考えていた。175センチ前後のアタッカーでは大学には受け入れられないだろうという見方が理由だった。しかし、山岡が高校時代に主に起用されたポジションはアタッカー。中学時代同様、チームには柱となるアタッカーがいなかったからだ。「アタッカーとしての彼の器用さとうまさに頼らざるを得ませんでした」。大は当時の複雑な心境をこう明かした。
山岡祐也がバレーボールを始めたのは小学1年生の時だ。5歳上の姉が地元のバレーボールチームに所属していたため、よく親と一緒に体育館へ見学に行っていた。それがきっかけで、「いつの間にかチームに入っていた」という。だが、当時の山岡が本当にやりたかったのは野球だった。グローブとボールを持って、友人と公園で遊ぶのが日課だった。
バレーボールでセッターを務める選手は、自身の指示やプレーで試合の流れをコントロールし、チームを勝利に導く役割から“司令塔”と呼ばれる。ただ、それゆえに負けた時は戦犯として矢面に立たされることも少なくない。?・プレミアリーグのFC東京でセッターを務める山岡祐也は今季、そんなセッターとしての責任を感じ続けた。
「石橋、ちょっと投げてみろ」 高校2年の夏、高知県予選を前にしたある日のことだ。その日は雨が降っていたため、雨天練習場で練習をしていた。すると、馬淵史郎監督が石橋良太を呼び寄せた。石橋にはなぜ呼ばれたのか、監督が何を考えているのか、わかっていた。当時、チームは投手のコマ不足という事情を抱えていた。そこで投手経験のある石橋をテストしようとしていたのだ。 「できてもうたら、どないしよう……」 石橋としては野手に専念したいという気持ちが強かった。だが、結果は「合格」。石橋はそのままの流れで、新チームではエースとなった。これをきっかけに、石橋はその後、“野手”から“投手”への道を進むことになるのであった。
「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。 「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」 ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。
石橋良太には歳の離れた2人の兄がいる。幼少時代はサッカーに夢中になっていた石橋だが、2人の兄の影響もあって、小学1年から地元大阪府堺市の軟式野球チーム「長曽根ストロングス」に入った。最初は特に野球が好きだったわけではなかったという。野球が面白いと思い始めたのは小学4年の時。自分がピッチャーとして投げた大阪府の大会で優勝し、それをきっかけに勝つことに快感を覚えたのだ。
2011年秋、石橋良太はそれまで抱いていたモヤモヤ感がなくなっていくのを感じていた。投手として生きる覚悟を決め、気持ちを切り替えて本気で取り組んでいこうと腹を据えたのである。石橋は、高校2年まで内野手として活躍し、甲子園にも出場した。拓殖大学入学後も自らは内野手としてやっていくつもりだった。だが1年春、打率1割台と不振にあえいだ石橋は高校3年時にエースとして活躍したピッチングを買われ、投手に転向した。だが、内心では野手としての道を捨て切れずにいた。そんな中途半端な気持ちを払拭させたのが、中央大学との1部・2部入れ替え戦だった。
「弓道は自分と的との勝負――これに尽きます。すなわち、的に負けるということは自分に負けるということです」。法政大学体育会弓道部監督の藤井俊雄はこう語っていた。その意味で、川田悠平は自分との勝負に勝った。大学3年の4月、川田に再び的中が戻ってきたのだ。「矢数をかけることで、的中する感覚に体が慣れてきました。それがつながったという感じですね」と本人は分析した。スランプを脱した川田はその後、顔面麻痺を患いながらも全国学生弓道選抜大会、全日本学生弓道選手権の優勝に貢献していく。そんな大学3年のシーズンで、川田は「ここ最近で一番悔しい」と振り返る出来事も経験していた。
「高校の部活とは違い、多くの決まりがありましたので、最初は戸惑いました」 川田悠平が法政大学体育会弓道部に入部して、最初にぶつかった試練が「言葉づかい」だった。同部では、年上の人に対してはたとえば「僕」ではなく「自分」、「きのう(昨日)」ではなく「さくじつ」、「今日」ではなく「本日」などと普段とは異なる言い方をしなければならない。「慣れるまでが大変でしたね。ポロッと『僕』と言ってしまって先輩によく叱られました(苦笑)」。この言葉の習得に、川田は時間をずいぶんと要した。
「悔しさしかなかったですね」 川田悠平がこう振り返ったのは、高校2年時のインターハイ(埼玉・川越アリーナ)だ。高知県予選で初めて団体優勝した岡豊高校だったが、全国の舞台では20射8中に留まり、予選敗退。川田自身も4射2中と、振るわなかった。大舞台ならではの雰囲気も川田らを苦しめた。「会場がすごく広くて、今まで経験した試合とは雰囲気がまったく違っていました。3方向からギャラリーに見られていますし、カメラマンもいる。やはり、緊張していましたね(苦笑)」。県大会で味わった初優勝の喜びも束の間、川田は全国の厳しさを痛感した。