FORZA SHIKOKU
オフの戦力外から一転、新生ドラゴンズの開幕投手だ。 中日のベテラン右腕・川上憲伸が6年ぶり7度目の開幕投手を務める。谷繁元信兼任監督が24日に都内で行われたセ・リーグファンミーティングで起用を明言。「キャンプで見た時から今年はやってやるという姿が感じられた」と理由を語った。過去、最多勝のタイトルを2度獲得した実績は十分。吉見一起が右ひじの手術明けで開幕に間に合わない中、かつてのエースに投手陣の柱として期待が高まっている。栄光と挫折を両方味わって迎えるプロ17年目、2月の沖縄・北谷キャンプ中に二宮清純が訊いた開幕にかける思いを紹介する。
: 藤田さんといえば、昨年の日本シリーズ第5戦、死球を左ふくらはぎに受けた直後の激走が話題になりました。あの死球はかなり痛かったでしょう? : むちゃくちゃ痛かったですよ。左ふくらはぎに死球が当たったのは4回目でしたが、そのうち2度は長期離脱を余儀なくされました。当たった瞬間に「これはヤバイ」と直感しましたね。お尻のほうまで筋肉がつった感じになって、もう足を地面につけられないんです。
: 藤田さんは守備の際、打球を処理したら速く投げることを強く意識しているとか。 : 肩が強くないので、普通のゴロであれば捕球の際にグラブは閉じません。当てるだけですぐに右手に持ちかえます。ゴロだけでなく、ゲッツーの場合もショートからの送球を捕ってから投げるまでのスピードを追求しますね。セカンドはランナーがスライディングしてくるので、早く投げてベースから離れないとスパイクされてしまう。ケガを防止するためにも速く投げることは大切です。
「アイツの守備にはシーズン10勝以上の価値がある」 いつもは選手に厳しい東北楽天・星野仙一監督が、そう絶賛する内野手がいる。セカンドの藤田一也だ。2012年途中に横浜DeNAから楽天に移籍すると、昨季は「2番・セカンド」に定着。高い守備力に加えて打線のつなぎ役を務め、初のリーグ優勝、日本一に貢献した。今季からは移籍3年目ながら選手会長に選ばれ、名実ともにチームを牽引する。節目のプロ10年目を迎えた守備の名手に二宮清純がインタビューした。
天野優は高校卒業後の進路として2011年、日本卓球リーグ女子1部のサンリツへの入社を決めた。高校2年の冬にサンリツの前監督からスカウトされていたのだ。同社は日本卓球リーグで優勝を争う強豪で、福原愛がゴールド選手として所属していたこともあった。 「実業団のなかでもトップクラスですし、練習に打ち込める環境も魅力に感じました。また福原さんが所属していたことも大きかったですね」 天野は福原のプレースタイルを参考にしていたのだ。福原とは1シーズン、ともにプレーした。ピッチ、フットワークの速さはどれも世界トップレベルで、天野は「見ていてすごく勉強になりました」と刺激を受けた。
「あの時が彼女のすべての始まりだったのではないでしょうか」 佐藤利香(明徳義塾卓球部女子監督)が語る「あの時」とは、2009年のインターハイ(IH)高知県予選のことだ。天野優は、個人、ダブルス、団体とすべてのカテゴリーで全国大会出場権を逃したのである。その直後、天野は非常に落ち込んでいたという。しかし、佐藤(利)の「そんなくによくよしていたって何も始まらない。力をつけないと、来年もこうなるよ」という叱咤激励を受け、彼女はすぐに次にやるべきことに集中した。それは、基礎技術の向上である。
天野優の生活には、生まれた時から卓球があった。両親が実業団でプレーしており、実家の近辺には練習場もあった。天野は5歳の時に、両親に教えてもらうかたちで卓球を始め、和歌山銀行卓球クラブ(和銀クラブ)にも入団。平日は自宅、土日は和銀クラブで練習する卓球漬けの日々を送った。その中で、天野は試合をすることが何より好きだった。「負ければ悔しいですけど、勝った時は本当に嬉しい。その瞬間があるから、今も競技を続けているんだろうと思います」。小学1年の時から全国大会に出場するなど、実力の高さを示していった。
卓球界に今後、ブレークが期待される選手がいる。天野優、21歳。株式会社サンリツ卓球部に所属している社会人3年目の選手だ。戦型は速いピッチで勝負を仕掛ける前陣速攻型。12年の全日本社会人選手権のシングルスで3位に入った。
2012年2月、石本康隆(帝拳)は進退をかけて臨んだ大一番で敗れた。日本スーパーバンタム級のタイトル獲得失敗に終わり、石本は人目もはばからずに号泣した。年齢も31歳と決して若くはなく、引退も真剣に考えた。それでも彼は辞めなかった。いや、諦めきれなかったのだ。石本は再び、チャンピオンを目指す道を走り始めた。以降、4戦4勝3KO。それまで25戦中19勝のうち、わずか3KOだった男のレコードにKO勝ちが次々と刻まれていった。リング上で積極的に仕掛ける姿は、まるで別人に生まれ変わったかのようだった。
デビューから2連勝し、順風満帆に見えた石本康隆だったが、タイトル挑戦までは10年もの月日を費やした。所属する帝拳ジムでは、チャンピオンのみが専用のロッカーを所有できる。他のボクサーたちが次々と自らのネームプレートを空きのロッカーに入れていく中、石本は「自分もいつかは」と思いを募らせながら、空いているロッカーを探す日々が続いたのだった。
現在、スーパーバンタム級の世界ランカーである石本康隆(帝拳ジム)だが、プロ入り前はアマチュアで1戦1敗と、特筆するほどの経歴はない。高校や大学で数多のタイトルを獲得し、鳴り物入りでプロの世界へと飛び込んできた粟生隆寛(高校6冠、WBC世界フェザー級、同スーパーフェザー級の2階級制覇)、井岡一翔(高校6冠、WBA・WBC世界ミニマム級統一王座、WBCライトフライ級の2階級制覇)などのように華やかな道を歩んできたわけではない。竹原慎二(元WBA世界ミドル級王者)、辰吉丈一郎(元WBC世界バンタム級王者)らのごとく、少年時代はケンカばかりに明け暮れていた“札付きの不良”だったという荒々しい“逸話”もない。典型的なボクサーの型にはまらない石本のボクシング人生。その原点は、子供の頃の真似事から始まった。
噛ませ犬――。闘犬において、自信をつけさせるためにあてがわれる弱い犬のことだ。ことボクシングにおいても、しばし用いられる比喩表現で、いわば“踏み台”扱いのボクサーのことを指す。昨年4月、中国・マカオで行われたWBOインターナショナル・スーパーバンタム級タイトルマッチでの挑戦者・石本康隆(帝拳ジム)は、まさに“噛ませ犬”と見られていた。対する王者のウィルフレッド・バスケス・ジュニア(プエルトリコ)は元WBO世界スーパーバンタム級王者。3階級制覇の名ボクサーを父に持つ、サラブレッドボクサーである。カジノ街であるマカオで、石本vs.バスケスに付けられたオッズは1:12。誰もがバスケスの勝利を疑わなかった。
「それじゃダメだ」 高校3年の春、上田晃平にそう声をかけたのは東映、巨人で投手として活躍した高橋善正だ。当時、高橋は母校の中央大学野球部の監督を務めていた。知人から「愛媛にいいピッチャーがいる」と聞いて、わざわざ南宇和高校に足を運んだのだ。その日、練習試合が行なわれる予定だった。上田は当然意気込んでいたが、不運にも雨天中止となった。そのため、ブルペンで上田のピッチングを見ていた高橋は、こう上田にアドバイスをした。 「130キロのボールでも、コーナーを突けば、大学でも十分に通用する。スピードよりもコントロールを意識して投げなさい」 そして、こう続けた。 「ゆっくりとした遅いスローカーブを投げてみろ」 これが上田のピッチングが大きく変わるきっかけとなった。
「人なつっこい子だなぁ」 上田晃平が高校3年となった春、南宇和高校に新米教師として赴任し、野球部部長に就任した近藤輝幸(現・新居浜東高野球部監督)は、上田の第一印象をこう語った。 「野球の能力が高いことはすぐにわかりました。練習でも自主練習の時間はチームから離れて、自らが課したノルマを黙々とこなしていましたし、将来が楽しみな選手だなと思いました」
宇和島東、今治西……愛媛県の強豪、甲子園の常連でもある高校から中学3年時、上田晃平は誘いを受けていた。父・秀利によれば、当時通っていた硬式野球のチームにはPL学園や大阪桐蔭といった名だたる名門からの誘いも届いていたという。上田本人はというと、第一志望は宇和島東だった。 「途中から入った硬式野球のチームのメンバーがほとんど宇和島東に入ったんです。宇和島東の監督さんも学校に来てくれたりもしていましたし、またみんなで一緒にやりたいなという気持ちはありました」 だが、上田が最終的に選んだのは南宇和。一度も甲子園経験のない地元の高校だった。
「正直、いつから野球をやっているのか、何がきっかけだったのか、覚えていないんです」 上田晃平は自らの野球人生のスタートをほとんど記憶していない。ものごころついた時には、既に野球少年になっていたのだという。それもそのはずだ。野球選手だった父親とソフトボール選手だった母親をもつ上田にとって、生まれた時から野球は最も身近なスポーツだった。父親の草野球の試合を見に行ったり、練習ではボール拾いを手伝ったり、家に帰れば、父親と好きな巨人戦をテレビで観たり……。上田の周りには常に野球があった。
「今、自分が抜けるわけにはいかない……」 今夏、上田晃平は苦しんでいた。3年となった今年、春は先発の一角を担い、リーグ戦で5試合に登板して2勝1敗、防御率2.67。同級生の島袋洋奨とともにチームを牽引した。しかし、リーグ戦後の夏の遠征で右ヒジに痛みが走るようになった。監督やコーチに告げようかどうか悩んだが、自分の立場を考えると、チームを離れるわけにはいかなかった――。
今年9月、アジアで初めてのRBSSワールドファイナルが東京・増上寺で開催された。ディフェンディングチャンピオンの徳田耕太郎は、予選の日本大会を経ずにワールドファイナルから参加した。RBSSで2度の優勝および連覇を成し遂げたフリースタイル・フットボーラーはまだいない。徳田には、そのどちらも達成できる可能性があった。
「ノートがなくなっているのに気付いた時は、もうパニックでしたね」 徳田耕太郎は苦笑しながら、こう振り返った。アイデアノートには大会の演技構成やこれまで開発してきた技も書かれてあった。ほとんど日本語表記のため、外国人が持ち去っても内容を理解できるとは考えにくかった。大会中、徳田がノートを確認しているのを見て、単に彼を混乱に陥れるための嫌がらせだったのだろうか。徳田は、いかにしてこのトラブルを乗り越えたのか。
2009年、日本のフリースタイル・フットボール界の頂点に立った徳田耕太郎は翌年、南アフリカ・ケープタウンで行われた「Red Bull Street Style(RBSS)」ワールドファイナルに出場した。晴れて“世界デビュー”を果たした徳田だったが、結果は4勝2敗で予選敗退。世界の壁は高く、分厚かった。
主にサッカーのリフティング技術を用い、体全体を使ってボールを自在に操る。ボール1つで自身のスタイルを表現するスポーツが、フリースタイル・フットボールだ。大会などではアップテンポなBGMに乗って、選手が技を披露する。“Tokura”こと徳田耕太郎は、昨年に行われた世界最高峰の大会「第3回Red Bull Street Style(RBSS)」のワールドファイナル(イタリア・レッチェ)で史上最年少王者(当時21歳)となった。現在は東京の大学に通いながら、レッドブル社所属のアスリートとして国内外でショーや大会に参加している。
「オマエなら大丈夫」 関本大介は、試合前、いつもおまじないのようにこう呟く。リング上で命を懸けて闘うのは、プロレスラーの宿命。恐怖心に打ち勝たなくては、対峙する敵との勝負にならない。それでも関本はプロレスラーを自らの「天職」だと言い切る。「人からは“大変だね”などと言われますが、自分では痛いだのしんどいだのと思ったことはない」。その居場所を守るためには、自らの強さをリング上で証明するしかない。
1999年夏にデビューした関本大介は、ひたむきに鍛錬を積んだ。その真面目さは、球児の頃から変わらなかった。リトルリーグ時代は監督と選手の関係でもあった父親によれば、「言うたことは絶対やり遂げた」という。明徳義塾高校時代の馬淵史郎監督も、その勤勉さを買い、彼を選手兼マネジャーに任命した時期もあった。競技に対する真摯な姿勢が、レスリング経験がなくても、ずば抜けた体格がなくても、2年も経たぬうちにチャンピオンベルトを巻くことができた一番の理由なのかもしれない。
幼少の頃、ヒーローに憧れる男子は少なくない。ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊モノとテレビに出てくる正義のヒーローは、強さやカッコよさの象徴である。関本大介にとっての、それはプロレスラーだった。プロレス好きの叔父の影響で、父親たちと一緒にいつもテレビ中継にかじりついていた。彼のヒーローは、強くてカッコいい外国人レスラーだった。カウボーイスタイルのコスチュームに、全日本プロレスのリングで暴れ回るスタン・ハンセンの豪快さや、大きさに惹かれていた。
2013年6月30日、後楽園ホールに詰めかけた1387人のファンが、主役の登場を待ちわびていた。入場曲『CROWN OF WINNER』が流れると、そのボルテージは一気にヒートアップした。エレキギターがかき鳴らす爆音とともにやって来たのは、関本大介。大日本プロレスの2大タイトルのひとつBJW認定世界ストロングヘビー級3代目王者である。ゆっくりとリングに向かう関本に、観客は期待感を持って、手拍子や歓声を上げて迎えた。丸太のように太い腕は52センチ、岩のように膨れ上がった胸板は130センチという筋肉の鎧を身に纏う男の姿は、古代ローマのコロッセオへと歩みを進めるグラディエーターのようだった。