FORZA SHIKOKU
プロ1年目の春のキャンプで多くの新人は洗礼を受ける。これまでアマチュアでやってきた野球とのレベルの違いを思い知らされるのだ。強打のキャッチャーとしてドラフト3位で入団した橋本も例外ではなかった。まず度肝を抜かれたのが、他のキャッチャーたちの肩の強さだった。 「チームの先輩だと定詰(雅彦)さん、他球団だと中嶋(聡、当時オリックス)さん。スローイングを見て、“何なんだ、この人たちは!”とビックリしました」
「最初からバッティングはすごかったですよ。特に引っ張った打球はめちゃくちゃ飛んでいましたね」 橋本の少年時代について、そう教えてくれたのは東京ヤクルトの宮出隆自だ。宮出は橋本の1年後輩にあたる。宇和島市の和霊小、城北中、宇和島東高、そしてプロ……後を追いかけるように同じ道を歩んできた。
故郷・愛媛で野球をするのは高校時代以来、実に18年ぶりのことだ。 宇和島東高を経て千葉ロッテ、横浜の2球団で活躍した橋本将は今季、地元の独立リーグである四国アイランドリーグPlusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーしている。中軸に座り、DHやキャッチャーとして63試合に出場。打率.276、4本塁打、34打点の成績でチームの後期優勝に貢献した。
: ロッテに入ってNPBの壁は感じませんでしたか? : 2軍に関しては独立リーグとの差はあまりなかったです。でも1年目から1軍に上げていただいて、1軍と2軍の壁は大きく感じましたね。レベルが一回りも二回りも違う。
: 高校の時にプロや社会人、大学からの誘いはなかったんですか? : 社会人に進む可能性はあったのですが、3年夏の県大会もすぐに負けてしまって話が立ち消えになってしまったんです。
: 角中選手は石川県七尾市の出身です。あの大相撲の元横綱・輪島さんとも同郷になります。野球を始めたきっかけは? : 父が元高校球児で、小学校低学年になったら半強制的に野球をやらされていました(笑)。4人兄弟で、僕と3つ下の弟が野球をやっていましたね。左打ちにさせられたのも初めてすぐの頃です。「左の方が一塁までの距離が短いから得をする」と。
6年目の大ブレークだ。 四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグス出身の角中勝也(千葉ロッテ)が、激しい上位争いを繰り広げるチームに欠かせない存在になっている。今季は開幕こそ2軍だったが、5月以降はクリーンアップ(5番)に定着。交流戦で打ちまくり、打率.349で首位打者に輝いた。その後もコンスタントに打ち続け、9月3日現在、打率.299(リーグ5位)、3本塁打、48打点。得点圏打率はチームトップの.325でロッテが混戦を制するには、彼のバットがカギを握っていると言っても過言ではない。大きな飛躍を遂げた25歳に二宮清純がインタビューを行った。
「高木、オマエがキャプテンだ」 「えっ……!?」 あまりの突然のことに、高木悠貴は驚きを隠せなかった。その日、高知高校は全国高等学校野球選手権の初戦で敗れていた。センバツに続いてラスタバッターとなってしまった高木は、3年生への申し訳ない気持ちで野球を辞めようと考えていた。そんな矢先のことだった。高木の気持ちを知ってか知らぬか、島田達二監督はその日の夜、宿泊先のホテルでキャプテン就任を告げたのだ。 「そんなこと言われたら、もう続けるしかないですよね(笑)」 高校野球最後の1年がスタートした。
2007年3月、第79回選抜高校野球大会。6年ぶり14回目の出場を果たした高知高校の初戦の相手は関西高校(岡山)と決まった。実はこの7カ月前、新チーム発足直後の8月に関西と練習試合をしており、その時は14−2と高知が快勝していた。それだけに高知ナインは皆、意気揚々と試合に臨んだ。ところが――。
「あの人、かっこいいなぁ……」 高知中学3年生の高木悠貴の目に留まったのは、ある1人のピッチャーだった。当時、附属の高知高校のエースで、後に法政大学の先輩となる二神一人である。高知の練習は厳しいことで有名だ。だが、二神はその練習後に必ず一人、走り込みをしていた。高木が中学の練習を終え、自転車で帰ろうとすると、いつも黙々と走る二神の姿があった。 「あんなきつい練習の後に走れるなんてすごいなぁと思いました。それに、僕らが『お疲れ様です』と挨拶をすると、きちんと返してくれたんです。その姿がかっこよくて、憧れましたね」 翌年の春、二神の卒業と同時に、高木は高知高校野球部に入った。
高知高校では3度の甲子園出場を果たした高木悠貴が、さらなる高みを目指して進学先に選らんだのは六大学野球リーグの一つ、法政大学だ。ところが、そこで待ち受けていたのはケガによる野球人生初の長期離脱だった。2年時の1年間はほとんどボールに触ることなく、走り込みを繰り返す毎日だったという。 「入学当初から最終的には4年生になって試合に出られるようになればいいなと思っていたので、焦りはありませんでした」 涼しげな表情でそう語る高木だが、人知れず悩みはあったに違いない。何よりも野球ができないことへの苦しさがあったことは想像に難くない。それでも高木は一度も野球を辞めようとは思わなかった。言葉には表さないが、彼はやはり根っからの“野球少年”なのだろう。
「まったく納得がいっていない」 昨季のプレーを振り返る皆本明日香に笑顔はなかった。上尾メディックスに加入して2年目の昨季、皆本はレギュラーシーズン22試合すべてに出場し、敢闘賞を受賞した。チームも?プレミアリーグ昇格には至らなかったものの、準優勝(20勝2敗)と決して悪くない結果に見える。果たして、何が彼女をこう感じさせたのか。
「予想どおりでしたね」 筑波大学女子バレーボール部監督の中西康巳は、皆本明日香がキャプテンに決まった時の感想をこう語った。筑波大女子バレー部は、全日本バレーボール大学男女選手権大会(全日本インカレ)を終え、4年生が引退すると、3年生が来季のキャプテンと副キャプテンを話し合う。そして、監督に決定した人事を報告するのだ。皆本は左ヒザ前十字靭帯断裂という大ケガを乗り越え、プレーヤーとしても成長を遂げていた。それらを踏まえて、指揮官は皆本がキャプテンになるのではという読みがあったのだ。
大学女子バレー界屈指の名門――。皆本明日香がVプレミアリーグのチームからの誘いを断ってまで選んだ進学先は筑波大学だった。筑波大女子バレーボール部は、全日本バレーボール大学男女選手権大会(全日本インカレ)で5度(当時)の優勝を誇る。皆本はなぜ大学進学、そして筑波大を選んだのか。
「周りにバレーしかやる環境がありませんでした」 皆本明日香は、競技を始めたきっかけをこう語る。幼少の頃、バレーボールクラブに所属していた両親の練習について行っていたことで、自然と興味を抱いたという。本格的に競技を始めたのは小学5年生の時だ。地元のバレーボールクラブに入り、ボールを追いかけた。この頃からポジションはスパイカーだったという。ただ、強豪クラブではなかったため、大会では「県大会に行けるか行けないかぐらい」の成績がほとんどだった。また、当時、小学生だった皆本にもそこまで上昇志向はなかった。
将来、“火の鳥ニッポン”のユニホームに袖を通すであろう選手がいる。皆本明日香、24歳。バレーボールVチャレンジリーグの上尾メディックス所属するウイングスパイカー(WS)だ。バレーボールではWSの選手が、そのチームのエースとされることがほとんどである。皆本は1年目の2010−11シーズンからレギュラーに抜擢され、不動の“エース”としてプレミア昇格を目指すチームを支えている。
秋元がキーパーを始めたのは、ふとしたきっかけだった。 幼稚園の頃からボールを蹴り始め、小学校時代のポジションはFW。体は周囲の選手より大きく、それを生かして点を獲りまくった。そんななか、ある試合でPK戦に突入した際、チーム内でGKに名乗り出る人間がいなかった。自ら立候補してゴールマウスの前に立つと、相手のキックをすべて止めた。この神がかり的な活躍が転機となり、以来、ゴールを奪う側からゴールを守る側へとプレーの場を移すことになった。
今や愛媛には欠かせない絶対的守護神である。 秋元陽太、24歳。横浜F・マリノスから今季、愛媛FCへやってきた。ここまですべての試合でゴールを守り続け、イヴィッツア・バルバリッチ監督からは「陽太が最後にいてくれることで、愛媛のゴールはより安全性が拡充する」と全幅の信頼を置かれている。
「あの2年間は本当に大変でした……」 大山がそう振り返るのは、プロサッカー選手となった浦和での日々だ。大山がルーキーだった頃(2005年)の浦和は中盤に山田暢久、三都主アレサンドロ(現名古屋)、鈴木啓太、長谷部誠(現ヴォルフスブルク)、平川忠亮らそうそうたるメンバーが揃っていた。この年、天皇杯を制し、常勝軍団への階段を上がっていたクラブのなかで、大山は試合出場どころか、紅白戦にすらお呼びがかからなかった。 「もう主力の選手に圧倒されていました。練習についていくのですら精一杯の状態でしたね」
クラブ一の“秀才プレーヤー”である。 昨年春、早稲田大学人間科学科eスクールを卒業した。愛媛FCに最初に在籍した07年に入学し、インターネット経由で講義を受講。小テストやレポートを提出して単位を取得した。実際に大学に通う必要はないが、サッカー選手と学問を両立し、4年で卒業するのは容易ではない。 「でも僕らの仕事は有効に使えば、結構、時間はあるんですよ。練習だって1日のうちの数時間ですから」 サラッと言い切るところに知的な香りが漂う。
: 昨年、東北は大震災に見舞われました。被災地の球団として今季こそという思いは強いと思います。3.11の時はどちらに? : 2軍でヤクルト戸田球場にいました。ベンチでデータをとっていたんですが、結構、揺れましたね。最初は、そんな大変なことになっているとは想像もしませんでした。テレビの映像を見て、本当に言葉を失いました。
: 大学3年からは、ようやく腰の痛みが癒え、八戸大の中心投手として活躍します。4年春にはなんとリーグ戦の防御率が0.00。秋の明治神宮大会の東北地区代表決定戦では東北福祉大を相手にノーヒットノーランを達成しました。 : これは自信になりました。ドラフト会議の4日までだったので、いいアピールになると感じましたし、何より勝って神宮大会出場が決まったことで、まだチームで野球が続けられることがうれしかったです。
: 塩見投手は生まれが大阪ですが、愛媛の帝京第五高に進学した理由は? : 兄が、そこの野球部に入っていたことが一番大きな理由です。知り合いの紹介もあり、僕も行こうと思いました。
2年目のシーズン、さらなる飛躍を誓う男がいる。 東北楽天の塩見貴洋だ。ルーキーイヤーの昨季は、同期入団の斎藤佑樹(北海道日本ハム)を上回る9勝(9敗)をあげ、防御率2.85と好成績を残した。岩隈久志(マリナーズ)が抜けた今季は、エースの田中将大に次ぐ先発として期待され、初登板となった4月3日の福岡ソフトバンク戦ではプロ初完封をマークした。ここまでチームトップの3勝(3敗)をあげている。現状、田中が腰痛で離脱しているなか、チームの中心投手として投げ続ける若き左腕に二宮清純がインタビューした。
人生とは、大どんでん返しの連続である。前年の甲子園出場経験をもつメンバーが残り、春の大会では四国大会で準優勝した2学年上の先輩はその夏、まさかの初戦敗退。その翌年、「史上最強」と謳われた1学年上の先輩は自分たちのミスで3回戦敗退に終わった。ところが、「史上最弱」と言われ続けてきた田中勇次たちの代が甲子園への切符をつかみとったのである。 「自分たちに失うものは何もない」 田中たちにプレッシャーはなかった。あるのはただ、ようやくたどり着いた夢の舞台を楽しむことだけだった。