北海道日本ハムの梨田昌孝監督が高校生ドラフト1巡目の大物ルーキー中田翔について「交流戦では甲子園の時のようにマウンドに上げるかもしれない」と仰天プランをブチ上げた。 高校(大阪桐蔭)時代、通算87本のホームランを記録した中田だが、投げても最速151キロのスピード自慢。梨田監督がピッチャーとしての魅力を捨てきれないのもわからないではない。
「王道」か「覇道」か――。東西両横綱の相星決戦となった初場所の千秋楽をテレビで観ていて、不意にそんなフレーズが脳裡をよぎった。 言うまでもなく「王道」は3場所連続優勝を果たした東の横綱・白鵬である。伝家の宝刀・左上手投げで西の横綱・朝青龍をひっくり返した瞬間、隣で観ていた知人が「正義が勝った!」と言って手を叩いて立ち上がった。何が正義で何が邪悪なのかは不明だが、一連の騒動を通じて知人は朝青龍に対し、嫌悪に近い感情を抱いたようだ。
プロ野球における「二刀流」は口で言うほど簡単ではない。ピッチャーかバッター、どちらか一本にしぼるべきだろう。 北海道日本ハムの梨田昌孝監督が、高校生ドラフト1巡目の大物ルーキー・中田翔について「交流戦では甲子園の時のようにマウンドに上げるかもしれない」と仰天プランをブチ上げた。
高校3年夏の千葉県大会1回戦、五十嵐は稲毛高を前に12奪三振の完封劇を演じた。この試合の2回、彼は自己最高の144キロを記録した。ヒットこそ4本許したものの、打球はいずれも球威に押されて詰まっていた。 ネット裏には10球団、13人のスカウトが集結していた。当時のスポーツ紙にはスカウトの次のようなコメントが紹介されている。 「腕の振りの速さは天性のもの。真っすぐが速いのが魅力だね」(日本ハム・田中スカウト)、「球の離し方とヒジの使い方がうまいから手元でボールが伸びる」(広島・苑田スカウト)。
「もう一度世界チャンピオンにはなれなかったけど心から感謝しています。生きてきてよかった。本当にありがとう」。涙とともに引退を宣言した川嶋勝重(元WBC世界スーパーフライ級王者)だが、本当に悔いはないのか。
4年前のアテネ五輪で日本は16個の金メダルを獲得した。これは1964年の東京五輪と並ぶ最多タイ。全体のメダル数37個は過去最多で、東欧諸国がボイコットした1984年のロス五輪を5つも上回った。
「何の仕事でもそうですけど、就職が決まったら、まずそこの会社の社長が出している本を読むのが普通ですよね?」。そう水を向けると、古田敦也は即座にこう返した。「(プロ野球界は)普通じゃないんですよ(笑)。社会が違うんです。僕は試合に出たかった。そのためには監督の目指す野球を理解するしかなかったんです」
メジャーリーグの日本人パイオニアである野茂英雄が最も憧れるピッチャー――それがロジャー・クレメンスである。 近鉄時代、彼は私にこう言った。
誰よりも速いボールを投げたい。 誰よりもボールを遠くへ飛ばしたい。 野球を始めた少年が、最初に思うことは、このどちらかである。 前者の方に魅力を感じた少年はピッチャーへの道を選び、やがてエースとして甲子園を目指し、その先のプロ野球のマウンドに夢をはせる。一方、後者の方により深い魅力を感じた少年は、ホームランに飽くなき憧れを抱き続ける。
「とにかくケガせず、頑張りたい」。ロイヤルズとマイナー契約を結んだ野茂英雄は自身のHP上でこう抱負を述べた。「ケガさえしなかったら、まだやれる自信はある」。これが彼の本音だろう。
当時はまだ公開競技だったとはいえ、オリンピックで野球の日本代表が金メダルを獲得したのは1984年のロサンゼルス大会、ただ1度のみである。 ロス五輪で日本代表の指揮を執った松永怜一は、その功績が認められて2007年1月、野球殿堂入りを果たした。
「立ち技最強」と呼ばれるK−1は、これまで12回のワールドグランプリを行っているが、日本人王者はまだ誕生していない。 ナチュラルなヘビーウェイト揃いの外国人勢に比べ、日本人選手は体格的に見劣りする。一日で3試合を戦うワンナイト・トーナメントで頂上を極めるのは至難の業だ。
モンゴルへ帰るのか、帰らないのか。横綱・朝青龍の年末帰国騒動は、高砂親方の説得もあり、どうやら「国内年越し」の線で落ち着きそうだ。 初場所は1月13日から始まる。その5日前には横審による稽古総見がある。約5カ月ものブランクを考えれば、正月返上で体づくりに励むのが筋だ。
北京五輪出場を決めた星野ジャパンが、もし台湾でのアジア予選に負けていたら、“お友達内閣”がやり玉に上がっていたことだろう。 周知のように星野仙一監督と田淵幸一ヘッド兼打撃コーチ、山本浩二守備走塁コーチは六大学時代からの親友。プロに入ってからも「セン」「ブチ」「コウジ」と呼び合う仲だった。
日本人選手がMLBの球団と目のくらむような高額契約を結んだからといって、もう誰も驚かない。ドジャース入団が決まった黒田博樹も、カブス入りが内定している福留孝介も、故障さえなければ、ほぼ報酬に見合うだけの成績を残すだろう。
巨人が横浜の守護神マーク・クルーンに続いて、ヤクルトの先発投手で、今季セ・リーグの最多勝右腕セス・グライシンガーを獲得することになった。さらに巨人はヤクルトの主砲アレックス・ラミレスの獲得をも視野に入れていると言われている。
メジャーリーグで通用する条件は何か? 野茂がアメリカで成功をおさめてからというもの、こういう質問を受けることが多くなった。 「やはり、三振をとれるフォークボールがあるということですか」 「ストレートも150キロは必要ですね?」 「コースいっぱいに決めることのできるコントロールも必要でしょう」
ハラハラ、ドキドキ、ワクワク――。これがスポーツ中継が高視聴率をマークするための必要条件である。先の北京五輪野球アジア予選にはこの3つの要素が全て含まれていた。その結果が日本対韓国戦23.7%(関東地区)、28.9%(関西地区)、日本対台湾戦27.4%(関東地区)、33.3%(関西地区)――(「ビデオリサーチ」)。きょう負けてもあすがあるレギュラーシーズンでのゲームと違い、国際大会は基本的に「あすなき戦い」である。見る側も緊張を強いられる。日常生活では味わえない狂熱や絶望がそこにはある。
「うれしいというより、ホッとしたというのが正直なところ。 特に2戦目の韓国戦、みなさんご覧になられたと思いますけど、野球ってこんなに苦しいものなのかと。終わってみて野球ってこんなに楽しいものかと。選手には感謝、感謝、謝謝(シェイシェイ)と言いたい気持ちです」 北京五輪の出場切符を手に入れた野球日本代表・星野仙一監督は帰国記者会見でそう語った。
交渉人の条件は�誠意をきちんと言葉にできること�約束を実行できる能力があること�精神的、肉体的にタフであること――そう語ったのはニクソン政権を支えた元大統領特別補佐官のヘンリー・キッシンジャーだったと記憶している。
神様、仏様、稲尾様――。「鉄腕」の異名をほしいままにした元西鉄ライオンズのエース稲尾和久さんが悪性腫瘍のため急死した。享年70。 通算276勝。1961年には日本プロ野球タイとなるシーズン42勝を記録した。15勝もすればエースと呼ばれるこのご時世にあって、42勝などという数字は今じゃ想像もつかない。
この8月、横綱・朝青龍が夏巡業をスッポかしてモンゴルで“草サッカー”に興じていた科(とが)で2場所出場停止などの重い処分を受けた時、真っ先に頭に浮かんだのが東京ヴェルディ1969監督・ラモス瑠偉の顔だった。
「日本の球界は現場の指導者に冷たいところがあるので、(殿堂入りは)私には無縁なものと思っていた。手元から巣立っていった選手たちが、球界と社会に貢献したことが認められたのだと思う。こんな名誉なことはありません」 今年1月、特別表彰として殿堂入りを果たした元野球日本代表監督の松永怜一(76)は一言居士らしく皮肉を交えてそう語った。
「近鉄時代のビデオ・テープを取り寄せ、動作解析をするとメカニック的に、ほとんどかわった点はない。強いていえば上半身がブレていることでしょうか……」 受話器の向こうで野茂は言った。 ニューヨーク・メッツを「解雇」になった直後のことだ。 周知のように1997年オフ、野茂は右ヒジにメスを入れた。遊離軟骨、すなわちネズミを取り除いたのだ。 しかし、術後の経過は順調で翌年のスプリング・トレーニング(キャンプ)の前には、もうキャッチボールができるまでに回復していた。
成果主義という観点で考えれば、ほぼ満点に近い。一軍投手コーチ就任1年目(2006年)のチーム防御率が3.05(リーグ1位)。2年目の今季が3.22(リーグ2位)。しかもチームは2年連続リーグ優勝。投手コーチとしては、およそ考えられる最高の結果を残したと言えるだろう。