阪東がエドウィン・バレロ(帝拳)と拳を交えたのは2005年9月に遡る。「連続1ラウンドKO」の世界記録(当時は15試合連続。18試合まで記録を伸ばしたが、その後記録は破られた)保持者バレロへの挑戦者が公募された。
阪東ヒーローの1日はアルバイトから始まる。「松井紙業」という会社で朝の7時から16時まで働いている。バイト4年目となるこの勤務先は、阪東のトレーナーを務める松井優の実家である。
阪東浩徳がボクシングを始めたのは小学3年の頃、父親にジムに連れていかれたのがきっかけだった。阪東の父親は視力が悪かったためプロになれなかったものの、大のボクシングファン。さらに、実の兄と従兄弟はプロボクサー(阪東タカ、阪東竜)。2人の妹もボクシングジムでトレーニングを積んでいる、阪東家はボクシング一家だ。
阪東ヒーローという変わった名のボクサーをご存知だろうか。 6月12日、日本武道館。WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積(真正)対同級9位・クリスチャン・ファッシオ(ウルグアイ)。WBA世界スーパーフェザー級王者・エドウィン・バレロ(帝拳)対同級7位・嶋田雄大(ヨネクラ)。この2つの世界戦のアンダーカードとして東洋太平洋タイトルマッチが組まれた。OPBF スーパーフェザー級王者・内山高志(ワタナベ)に挑戦したのが同級4位の阪東ヒーロー(ファミリーフォーラム)だった。
2005年4月、ヘルシンキ世界選手権イヤーのシーズンに入ったばかりの頃だった。練習中、中野は着地でバランスを崩し、足首の靭帯を切る怪我に見舞われた。 「ボキッと音が聞こえたので、折れたのかと思ったら、靭帯でしたね。あんな音がするんだなと・・・・・・。それで半年を棒に振ってしまいました」 日本選手権に出場できず、世界選手権代表も叶わなかったが、手術、リハビリ期間を経て、半年後の8月に競技復帰を果たした。
「『日本新』という文字だけが出ている感じで、あまり実感がなかったですね」 高校3年時から、日本新記録を幾度となく樹立した当時を、中野はこう振り返る。 東京学芸大1年時の97年にも、3メートル80の日本新記録を出し、日本人初の4メートル超えを期待されたが、その後、怪我の影響もあり、伸び悩んだ。 「1、2年生の頃は、体重が増えたり、怪我が多かったりと悪循環でした。ハードルのときから腰痛はあったんですけど、技術的にも不安定な部分がたくさんあったので、腰に負担がかかって怪我にもつながってしまった」
温暖な瀬戸内の香川・観音寺市で生まれ育った中野は、幼少の頃から外で遊びまわるなど活発だった。 「身体を動かすのは、子どもの頃から好きでした。3歳上の姉にくっついて近くの公園で遊んだり、ブロック塀を平均台代わりにして、上を走ったり(笑)」 小学校の頃には持ち前の運動神経で、数々のスポーツ大会に借り出されたという。陸上の大会にも出場し、60メートル障害で香川県大会で上位に入るなどこの頃から能力の高さを発揮していた。
北京五輪陸上競技の日本代表選手選考を兼ねた日本選手権(川崎市・等々力陸上競技場)初日の6月26日に行われた女子棒高跳び――。 朝から降っていた雨は決勝の試技が始まる午後3時にはあがっていたが、気温は上がらず、長袖の上着が必要な肌寒さを感じる日となった。 五輪参加標準記録Aの4ートル45を跳んで優勝すれば五輪代表に内定するが、この種目のA標準突破者はまだ出ていない。大会前には、4メートル36の日本記録を持つ錦織育子(出雲市陸協)、昨夏の大阪世界選手権代表の近藤高代(長谷川体育施設)、そして一昨年にこの大会で優勝を果たした元日本記録保持者・中野真実(今治造船)のB標準(4メートル30)突破者による三つ巴戦が予想されていた。
「高知県出身初のVプレミアリーグ選手」 これが長山拓未の目標だ。実現できるかどうか、まだそれほど自信はないという。だが、それはただの謙遜にすぎない。長山が所属する中央大学男子バレーボール部は、全日本大学選手権で最多となる12度の優勝を誇る名門だ。現役4年、主将の福澤達哉は16年ぶりの五輪出場を決めた植田ジャパンのメンバーに選出され、将来は日本のエースとして嘱望されている。そんなレベルの高い中大でも、長山は2年ながら既にレギュラーの座を獲得している。やはり彼の力は本物だと言っていいだろう。
「3年間で一番忘れられない試合です」 高校最後の春高での敗戦は最も印象深く長山の心に刻み込まれている。 「勝てる試合だっただけに、悔しかったですよ。ここ1本という時に、取るか取られるかで勝負が決まる。そのことを痛感させられた試合でした」 その時の悔しさは今も消えてはいない。
中学でも全国の壁を破ることができなかった長山拓未は、さらなるレベルアップを求めて高知高校へと進学した。もちろん、県外の高校から誘いがなかったわけではなかった。だが、長山は高知県きっての期待の星だ。みすみす手放すはずはない。 「県外の高校からも、長山を欲しいという声はありましたよ。でも、高知にとっては宝でしたからね。私としては県内の高校で、開花してほしいという思いがありました。とはいえ、私が断固として拒んだわけではないんですよ。県外の高校の監督も私たちが、どれだけ長山を大事に思っていたか、もうわかっていましたから」。中学時代の恩師・小笠原健一先生はそう言って笑った。 長山本人もまた、そうした地元の期待をひしひしと感じていたのだろう。県外留学ということは微塵にも考えなかった。
小学6年で既に身長175センチ。加えて全国大会に出場したこともあって、高知県内では「長山拓未」という名は、将来有望な選手として知れ渡っていた。その長山の素質をいち早く見抜いていたのが、今も長山が尊敬してやまない高知中学男子バレーボール部顧問の小笠原健一先生だった。
「こんにちは」 そう声をかけられて振り返ると、196センチの長身の学生がいた。顔を上げなければ、目線が合わないほどの高さだ。だが、並んで歩いていても威圧感は微塵も感じられなかった。 「(大学の)HPでの写真よりも髪の毛が短くなっていますね。最近、切られたんですか?」 そう声をかけると、彼は「はい、切りました」と照れたように笑った。優しい目が印象的だった。 中央大学2年、長山拓未。彼は高知バレーボール界きっての期待の星である。
堂上が野球を諦めきれない理由――そこにはNPBを相手に互角に戦えているという自信がある。昨秋、アイランドリーグ選抜の一員として参加したフェニックスリーグ、堂上は東北楽天戦で2本の本塁打を放った。打った相手は青山浩二と一場靖弘。いずれも1軍で結果を残している投手だ。
堂上の強肩ぶりを物語るエピソードがある。高知ファイティングドッグスとの試合のことだ。1塁にリーグ盗塁王の経験もあるYAMASHIN(山本伸一)が出塁した。YAMASHINは、するするとリードをとって足場を固めている。「どこかで走ってくる」。マスク越しに堂上はランナーの気配を感じていた。
「僕の野球人生にとって大きなポイントになりました」 それは6年前の春のことだった。大学3年生を迎える堂上に、転機とも言える出来事が訪れる。高知・春野で実施された西武の春季キャンプにアマチュア選手の代表として派遣されることが決まったのだ。
今季から九州2球団が加わり、6球団制となった四国・九州アイランドリーグ。4年目を迎え、リーグを経由した選手たちの活躍が目立ってきている。まず4月16日、高知ファイティングドッグスから千葉ロッテに入団した角中勝也がNPBで初本塁打を放った。5月2日には徳島インディゴソックスに在籍経験をもつ北海道日本ハム・多田野数人が初先発で初勝利を飾った。
「あの打席が自信になりました」 ちょうど1年前、2007年4月29日のことだった。檜垣は高知と愛媛の連合チームの一員として、福岡ソフトバンク2軍との交流試合に出場した。ソフトバンクの先発投手はその年の希望枠ルーキー、左腕の大隣憲司。ケガで出遅れ、“プロ初登板”となるマウンドだった。
檜垣には忘れられない2つの出来事がある。ひとつは高校3年生の夏、そしてもうひとつは大学4年生の秋のことだ。今治西高時代、檜垣は2年時からサードのレギュラーを取り、長打力を武器に中軸を任されていた。迎えた最後の夏、今治西は21年ぶりの甲子園を目指して県予選に臨んだ。
四国・九州アイランドリーグが開幕して約1週間。今季から6球団にリーグが拡張され、約150名の選手たちが白球を追っている。悲願の初優勝を狙う愛媛マンダリンパイレーツにも夢にチャレンジする地元プレーヤーがいた。ショートを守る檜垣浩太だ。昨シーズン、育成選手から這い上がり、一気にリーグ屈指の左バッターに躍り出た。今季はチームの優勝と自身のNPB入りを目標に掲げる23歳に、二宮清純が迫った。
四国・九州アイランドリーグが5日、開幕した。今季から6球団にリーグが拡張され、約150名の選手たちが白球を追っている。悲願の初優勝を狙う愛媛マンダリンパイレーツにも夢にチャレンジする地元プレーヤーがいた。ショートを守る檜垣浩太だ。昨シーズン、育成選手から這い上がり、一気にリーグ屈指の左バッターに躍り出た。今季はチームの優勝と自身のNPB入りを目標に掲げる23歳に、二宮清純が迫った。
法政大学は小松剛が神宮デビューし、優勝投手となった2006年春以来、3季連続で優勝を逃している。小松自身の成績は06年秋1勝4敗、07年春2勝3敗、07年秋2勝2敗。06年春は1点台だった防御率はいずれも3点台と満足のいく成績を残すことができていない。 「もう一度、優勝したい」 最終学年を迎える小松に残されたチャンスはあと2回だ。
2003年7月、3年生が引退し、いよいよ小松剛たちが最終学年となった。当時の室戸高校野球部は春は3年連続準優勝するなど、着実に実力をつけていたが、甲子園への切符をつかむまでにはいたっていなかった。室戸の前にはいつも“高知3強”の分厚い壁が立ちはだかった。私立の強豪校、高知、高知商業、明徳義塾である。
2007年春、甲子園に“室戸旋風”が吹き荒れた。第79回全国選抜高校野球大会、春夏通じて初出場の高知県立室戸高校が強豪の報徳学園(兵庫)、宇部商業(山口)を下し、堂々の8強入りを果たした。そして迎えた準々決勝の熊本工業戦。結果的に負けはしたものの、最終回には3連打の猛攻で2点を奪い、2点差まで追い詰めるなど、室戸は最後まで粘り強さを見せた。数多くの高校野球ファンが彼らの快進撃に目を丸くした。そして、どんな場面でも笑顔を絶やさず、楽しげにプレーする室戸ナインに釘付けとなった。 その2年前、同校を卒業した小松剛は、母校の活躍をテレビで観ていた。後輩たちの勇姿に感動し、OBとして嬉しさがこみ上げたという。そんな彼にもまた、甲子園を目指して汗を流した時代があった。
小松剛は小さい頃から体を動かして遊ぶことが大好きだった。もちろん体育も得意で、運動能力に長けた少年だった。だが、これといって好きなスポーツがあるわけではなく、野球も決してその例外ではなかった。 そんな小松が野球と出合ったのは小学3年生の時。高知市から室戸市の小学校に転校したのがきっかけだった。